二人の秘密
産婆(老女殿)視点のお話です。
「秘密だよ」
あの御方は唇に人差し指を当てて、優しくそう仰った。
あれはまだ私が幼くて、何事にも浅はかな行動しか取れなかった頃。
川で溺れかけた私をお救い下さる為に、御姿を現されたのだ。
「お前と私……二人だけの秘密だ。いいね?」
川から引き上げられてずぶ濡れのまま、私はただ呆けた様にその御姿を見上げていた。
見惚れていたのだ。
自分が知る限りの、綺麗なものを全て混ぜ合わせるとこうなるのだ、と思った。女とも男とも言えてどちらとも違う、きっと神様とはこういうものなのだ、とも思った。
「いつも見守っているよ」
慈悲深い眼差しと優しい声に、全てを包み込まれた様な、暖かい気持ちになったのを覚えている。
「お前や、お前の仲間達のここに、私は居る。何があっても必ず一緒に居るから」
あの御方は「ここ」と御自分の胸に手を当てたままそう仰ると、川底の細かい砂利を一掴み、私の手にお乗せになった。
「これを見る度に、どうか思い出しておくれ」
私が頷くと、とても綺麗な笑顔で頷き返してくださった。それは、村の大人達が良い子に対して見せる、満足そうな笑みではなく、心から嬉しい事があった時に誰しもが見せる、幸せに満ちた笑顔であった。
あの御方の御姿が一瞬で消えて無くなった時は、夢を見た様な錯覚に危うく陥り掛けた。しかしあんな綺麗な御姿や声を忘れる事など出来やしないし、何より手の中に砂利が残っている。これはあの御方から託された、『二人だけの秘密』の、紛れも無い証なのだ。
砂利は袋に入れて、人目につかない場所に隠した。そして時々そこに行っては、袋を取り出してそれを眺め、あの時の思い出に浸った。袋が傷んできたらまた別の袋に移し、同じ事を繰り返した。
私には両親が居て、村で独りぼっちだった訳でも無く、他の子供達と毎日のように遊んでいたのに、砂利を隠した場所は、不思議と誰にも見つかる事は無かった。
そうして私は『二人だけの秘密』の証を、とても長い年月の間、隠し続けた。
村で唯一の産婆となって数々の赤子の誕生を手助けし、また家族の為に忙しく立ち働きながら、時折人の目を盗んで見に行っていたが、子供の時と同じく、誰にも見つかる事は無かった。
秘密を守る以外は、特に何も起こらない村での暮らし。私の人生の大半は、そうやって穏やかに過ぎて行った。
このまま一村人として平凡に生き、やがて終わりを迎えるのだ、と確信していた私に転機が訪れたのは、一体いつの事だったろうか?
自分が幾つだったか思い出せないのに、目が回る程に忙しかった事だけは覚えている。
もともと体の弱かった母と森で怪我をした父。同時期に倒れた両親の世話に追われながら、仕事も続けた為、私が誰かと恋仲になり、婚姻を結ぶ事はとうとう無かった。仕方のない事だから、悔やんではいない。
身軽な分、善い行いをしようと、産婆として村の女達を助け励まし、薬草の研究を始め、先達として若者に知識を授け、両親や他者との良い関係を築ける様に心掛けた。すると村の者達があらゆる事の助言を求めて私の元を訪れる様になり、いつしか村の指導者的な立場に立っていたのである。
そうなったのは、ただ私が善良な人柄だったから、と言うだけではないらしい。
両親が言うには、私は他の者よりも精神感応の力が強く、赤子の異変を察知出来たり、来訪者の悪意を暴いたり出来るのは、今までいた者の中で私だけだった。だから念話しか出来ない村人達にとって、頼もしい存在として目に映り、人望が集まったのだろう、との事だ。
いっそ長となり、村を守ってほしい、とも言われたが、既にいる村長の後継ぎを押し退ける気にはなれなかった。さりとて親の頼みを無碍には出来ず、困った私は、村長ではなく御意見番としてなら喜んで村を守ろう、と約束してしまった。
そうして私は、この風変わりな運命を受け入れざるを得なくなったのである。
その合間にも場所を変え入れ物の形を変えて、あの御方との秘密は私だけのものだった。
やがて歳を取り、家の住人が私だけになると、丸太の壁に細工をして其処に隠した。丸太の一部をくり抜き、似た様な木目の板を削って蓋を作るのは、時間も掛かり酷く骨が折れたが、出来上がりにはとても満足した。
この中に砂利を隠してしまえば、いつでも拝む事が出来るのだ。
ある時、ふと隠し蓋を開けて砂利を眺めていた。少し考え事をしていたからか、人が来て、家の戸が開いた事に気付くのが遅れた。声を掛けられて、慌てて蓋を戻し、手を付いたまま後ろを振り返った。
そこに居たのはオリバーの息子だった。その子は私の慌てた表情や動作に対し、まるで気付いていない風に振る舞った。私が見られたくない物を隠した瞬間を、確実に見ている筈なのに、だ。
同じ年頃の私がいたら好奇心に負けて「何を隠したの?」と聞いてしまうだろう。現に他の子供達に見られなくて良かったと胸を撫で下ろしたい気持ちだった。
しかし、カイとか言ったか──聡い子供ではあると前々から思っていたが、僅か五歳か六歳で随分と機転が効くものだ。素知らぬふりでやり過ごし無難に通り過ぎる、と言う術は、咄嗟の場合、大人でも難しい。
単に興味が無かったのかも知れないが、私に気を使ったのだとしたら有難い事である。
だが秘密を見られてしまった事には違いないので、感謝ばかりもしていられない。このまま見逃してやって良いものか、悩みどころだ。
精神に強く干渉して記憶を消してしまう事も出来なくは無いが……これも何かの思し召しと言うものか……?
ひょっとしたら……あの御方が望んでおられるのかも知れない!
その事に気付いたら、とても簡単に納得する事が出来た。
(二人だけの秘密はこれでおしまい)
幼な子に戻った様な軽やかな気持ちで、私はこの運命を受け入れた。




