思い出
「カイ、私は貴族である前に貴方と同じ人間よ。出来ればここでは皆と対等にいたいの。だから……まずは貴方から。私と貴方を隔てる、この見えない壁を取り払いましょう」
ロゼリアさま、と言うぎこちないカイの呼びかけに対し、あの人は低く屈んで目線を合わせ、真摯な態度でそう言った。
当時自分は六歳だったが、言葉の意味は何となく理解出来た。
貴族と村人——その違いから生じる遠慮や過剰な気遣い。それを無くしたい。
まず子供達と仲良くなれば、大人達の意識もやがて変わる、とあの人は思ったのだろう。その取っ掛かりに自分が選ばれたのだ。
対等でいると約束したが、彼女の呼び方には頭を悩ませた。ロゼリア様とは言えず、呼び捨ては流石に出来ない。だからカイは、本人に対しては『あなた』と呼び、子供内ではこっそり『あの人』と呼んでいた。
普通であれば、そんな大それた事を許しては貰えない。叱られて禁止されるだろうから、父や母には言えないでいた。子供達でさえ、カイの言動に戸惑いを見せた。
焦らず、じっくり、時を待とう。
上手くいかない、と肩を落とすカイに、あの人が掛けてくれた言葉だ。
そうして微笑む彼女を、あの時の自分はとても不思議な気持ちで見ていた。
大層高貴な御方がお忍びでいらっしゃった、と父から聞かされた時、カイは驚くよりも首を傾げた。
この村に来るのはせいぜい行商人と、たまに冒険者くらいだ。しかも、村から然程遠く無い場所にある巨大な森、ヴェルテリーデでの狩猟や薬草採取を目的とした者が、情報収集や休息がてら訪れる程度のもので、村自体の何かを目当てとして来る訳ではない。
そんな何も無いこの村に、その『高貴な御方』は一体何を目的としてやって来たのか?
カイはその疑問を父親には言わず、黙っていた。
親に聞いても分からない事は多々ある。特に生まれた世界が違う人々については、村のどの大人に聞いても分からない筈だ。村に住む大体の者は、外部の人間から極たまに聞かされる「お姫様を見た事があるかい? 無いだろうね!」や「伯爵様の御所望の品が——」等と言う会話から、その存在を知る程度だったから。
あとの知識と言ったら精々、お節介な商人から身振り手振りで教わった王様の紋章の形である。王都で実物を見たと言うその商人は、「万が一、この近くを王様や家来の方が通らないとも限らないだろう?」と大真面目に言ってのけ、大人達ばかりでなく子供にまで、覚えさせようと躍起になった。
万が一なんて、ある訳が無い。大人達は顔を見合わせ、呆れて肩を竦めたものだ。
だから、村に『御用学者』と言う肩書きの、貴族のお嬢様がやって来た時の騒ぎと言ったら大変なものだった。
お忍びだからいつも通りにしろと言われたのに、皆が皆、平伏さんばかりに頭を下げて、やれ道を整えろと小石を拾い、花を飾れと摘みに走り、逗留なさると聞くと、「御出し出来る料理が無い!」と血相を変える。
村で唯一冷静だった年寄りの産婆が対応し、何やら難しい会話をした後で彼女を家に招いた。カイは母に届け物を頼まれ、産婆の家に行き、その時初めてあの人に会ったのだ。
名乗り合い、対等でいる約束を交わし、「よろしくね」と自分に微笑みかける美しい人。
本当にこの人は、どうしてここにいるのだろう、とぼんやり考える。
その物問いた気な表情を指摘され、聞きたい事があれば遠慮はいらない、とまた微笑まれた。
「あなたは何故ここに来たの?」
そう尋ねると、あの人は心良く教えてくれた。
「ある歴史を調べているの」
それから手に持っていた小さな冊子をそっと撫で、少しだけ深刻な顔をして呟いた。
「……間に合えばいいのだけど」
その呟きが一体何に対してのものだったのか、とうとう聞く事は出来なかった。
村に異変が起きるその日まで、十分な時間があったと言うのに。
あの日、村から両親を含めた全ての人が消え、訳も分からず泣いているところに、自分を呼ぶ彼女の声が聞こえた時……異常な事態なのに、とても安心したのを覚えている。
(良かった、無事だった。あの人は大丈夫なんだ)
同じ人間と言ったって、あの人は貴族だから危険な目に遭わないのだ、と幼い自分は思った。
みんなきっと、彼女といるに違いない。だからあの人は自分を呼んだのだ。
『追いかけて!』と言う言葉に従い、追いつけばきっと何もかも良くなる。
無邪気にそう思った。
だが走って、走って、やがて意識が朦朧となって、次に気が付いた時には——。
何もかもが、取り返しのつかない程に一変していた。
抗いようも無い程に自分の行く末を決められ、生きる為には受け入れるしかなく、村で起こった謎の事態はいつの間にか収束させられていた様で、最早誰一人として気に掛ける者はいない。
そんな状況に置かれた無力な孤児に、彼女がどうなったのか知る術は無かった。
身辺が落ち着いた頃にようやく、養父であるアレキサンダー・ワイズに尋ねる事が出来たが、ロゼリアの名を聞いた途端、彼は厳しい表情で、同じ事を他の誰かに話したか、と問いただした。
カイが首を横に振ると大きく頷き、少し恐いと感じる程の声音でこう言った。
「その質問は貴族の方に大変失礼だから、二度と口にしてはいけないよ」
下々の者が権力者の現状を知りたがるなど、思い上がった行為だ、と言うのだ。
今ならば、人が人の身を案じる事の何がいけないのか、と言い返せたかもしれない。しかし当時はそんな事など出来る筈も無かった。
叱責され、項垂れたカイを見た養父はすぐに優しい笑顔に戻り、励ます様に付け加えた。
「大丈夫、何も心配はいらない。お前は助けられた事への感謝だけを忘れずにいなさい。いいね?」
カイは言いつけに従い、彼女の安否を問う事を諦めた。
養父の言葉を信じろ、これで良かったのだ、と己に言い聞かせて。
しかし森の奥から聞こえる、彼女の呼び声が止む事は無かった。
いつまでたっても、その声を忘れる事が出来ない。
そして遂に、恐れていた事実が目の前の男によって突き付けられた。
あの人——ロゼリアは、全く無事ではなかった、と言う事を。
「私が何故お前に近づいたか、これで分かったな?」
ハイネマンは掴んでいた襟首を投げ出す様に手を放し、肩で息をしながら言い放った。カイは脱力する様に階段に倒れ込み、無言で俯く。
地下室は重苦しい空気で満たされた。
「……だから、始めっから正直に話し合おうって御提案したんですがね……」
ヘンリーが溜め息混じりに口を開く。
「ハイネマン卿、不毛にも程がありますぜ」
ヘンリーの言葉に、ハイネマンが鋭い視線を寄越す。しかしヘンリーはびくともせずに、寧ろ哀れむ様に貴族を見返した。
「こいつは好きで生き残った訳じゃない。今の様子を見りゃあ分かるでしょう? きっとこいつなりに一人で抱えていたんでさぁ。恐らく二人共、気持ちは同じ筈だ。……だったら回りくどい事してないでいち早く……」
「カーチス君、それ以上は言わなくて結構」
ハイネマンはヘンリーの言葉を遮ると、カイから目を逸らした。
「私だって十分自覚しているよ。これがただの八つ当たりにしか過ぎない事を」
(……だが……どうしたって抑える事は不可能だった……この怒りを、憤りを!!)
お門違いだと分かっている。世にも見苦しい醜態だと言う事も。
それでも尚、「何故ロゼリアじゃなく、お前が助かった!?」と詰め寄りたい衝動に駆られる。
それ程までに――最愛の人を失った痛手は深いものだった。
ロゼリア・ランドリヨ。
王都周辺に領土を持つ、エドガー・ランドリヨ伯爵の娘。容姿端麗にして頭脳明晰、その上如何なる時も冷静な判断力を失わないその勇敢な人柄は、父親である伯爵が時折零す、「息子であったなら……」と言う言葉からも伺えた、と且つて誰かが話していた。
しかし彼女自身は、貴族である前に一人の人間であると言う信念の元、学問への道を進み、主に人と自然と神についての研究に人生を捧げる覚悟でいた。
歴史の中で起こった物事を紐解き、悲劇に対する解決の糸口を、神話や自然の成り立ちの中から見つけ出すと言うのが、研究の主な目的である。
故に宮廷の花となるよりも野外での探求活動に時間を費やし、将来の婿探しよりも伝説の考察や発見を追い求めた。
年頃になって流石に心配になった伯爵婦人が、舞踏会へ顔を出す様にと忠告をすれば出向きはした。が、踊りの相手を探す事もせず、地味な出で立ちで書物を持ち込み、テラスや温室やサロンの目立たない席で、一人読書に明け暮れる始末であった。本人としては極力邪魔にならない様に努めていたらしいが、その場違いな振る舞いに目をつけた口さがない者達からは、『宮廷の奇婦人』と陰口を叩かれた。
見兼ねた伯爵が注意をすれば、「顔を出すと言う義理は果たしておりますが?」と受け流す。
何より学者としての働きが王妃の目に止まり気に入られ、御用学者としての地位を授けられており、強力な後ろ盾を得た娘に対し、元々小心者の父親はこれ以上強くは言えなかった様だ。
この事は、ロゼリアから苦笑混じりに聞いた話である。
ハイネマンが初めて彼女と出会ったのは、やはり宮廷で催された舞踏会であった。
その当時、沿岸部の豪商に出自を持つハイネマンは、まだ取り組みが手薄であった海洋探検事業に目を付け、知識と経験と自らの船を携えて、最も危険な任務である暗黒海域探査船の船長に志願した。結果、新たな航路を切り開き、尚且つ乗組員全員を生還させるという見事な成功を収め、男爵の地位を手にするという、正に新進気鋭の存在で宮廷での耳目を集めていたのである。
王侯貴族から見れば身分の低い者でも、成し遂げた事の次第によってその待遇は英雄と遜色なく、ましてや新たな物資調達と貿易の活路は国にとって重要であるから、文句の付けられようも無い。
自らの貿易で富を増やし、身なりを格段に整え、洗練された作法を見せつけて令嬢の目に留まれば占めたもの。野心家のハイネマンは更なる地位確立の為、華やかな社交の場に現れては、咲き誇る淑女達の注目をさらう様に振る舞っていたのである。
だがある日ハイネマンは、きらびやかな花園の中に毛色の違う者の姿を見つけた。白、薔薇色、黄色といった光の様な色彩が踊る中、その人は事もあろうに暗い色の地味なドレスで身を包み、奥まった席で書物を読んでいる。
飾り気の無い、すっきりとした纏め髪。背筋の伸びた姿勢を崩さず、周りの空気を気に留める事も無く、落ち着いた様子で読書に熱中するその姿は、場違いな筈なのに美しい。
遠巻きにしていた者達がわざわざ近くを横切り、「まあ、御覧なさい、また来てるわ」「相変わらず素敵なお召し物ですわね。そう思いませんこと?」などと囁き合う。
これが噂に聞いた『奇婦人』か、と気付いたハイネマンに悪戯心が起きた。にこやかな笑顔を浮べ近づくと、彼女に声を掛ける。
「失礼致します。ランドリヨ伯爵令嬢と御見受け致しました。私はクリストファー・ハイネマンと申す者。どうぞ御見知りおきを」
ロゼリアは書物から顔を上げハイネマンを見やると、「御機嫌よう、ハイネマン様」と返事をして、また読書に戻った。
にべもなくあしらわれた、と鼻白むところだが、ハイネマンは意に返さず、笑顔のままロゼリアの向かいの席を指し示した。
「座ってもよろしいですか?」
「ええ。ここでよろしければどうぞ」
ハイネマンは感謝を口にし、品良く席に着くと、何気ない風を装って話を切り出した。
「私は海の果てへ冒険を繰り広げ、数々の珍しい物をこの目で見て参りました。広大な海原を越え、やっとの事で辿り着いた地に生息する、奇妙な生き物や草花。打ち捨てられた遺跡の奥に眠る山の様な黄金と輝く宝石。危険を掻い潜り手に入れたそれらは、どれも秘宝と言える物でしょう」
堂々とした語り口と、情熱的な眼差し。この方法で淑女達に無視された事は無い。
「だが……ああ何と言う事だ、最も貴重なる秘宝中の秘宝はこんな近くにあった! どうして見逃す事が出来ようか!?」
低く囁く様に、そして次第に熱く力を込めて。自信に満ちたハイネマンはとどめの殺し文句を口にする。
「それは貴女の事です、美しい人。どうか私めと踊って頂けませんか?」
立ち上がり、恭しく手を差し出すハイネマンに対し、ロゼリアは静かに本を閉じて席を立ち、真顔で返した。
「失礼、ハイネマン様。もうお暇しなければ」
笑顔のまま固まっているハイネマンに、ロゼリアは淡々と続けた。
「『美しいとさえ言えば女は容易くなびくのだ』と思っている方と、交わす言葉は持ち得ておりませんの」
立ち去る華奢な背中を、ハイネマンは無言で見送った。
無下にされた事への感情は湧いて来なかったが、気になる事が一つだけある。
彼女の言動から怒りを感じたのだ。周囲の者からどれだけ嫌みを言われても、どこ吹く風という体だったのに、ハイネマンに対しては呆れでも嘲笑でもなく、単純な怒りが確かにあった。
生粋の貴族では無い者に声を掛けられたから?
はたまた誘い文句が気に入らなかったから?
様々な理由を想像したが、どれも違う気がする。なので結局放置した。
相手は伯爵令嬢だが、宮廷ではどうも浮いている存在だし、特に懸念する必要は無いだろうと高を括ったのだ。彼女が王妃の気に入りだとは知らなかったから出来た事で、知っていればさぞや血の気が引いた事であろう。
再び会ったのは同じく舞踏会。ふと外の空気を吸いたくなり、テラスへと出た。
そこに彼女がいた。ロゼリアは自分を見るや否や、無言でテラスを出て行こうとする。
流石にその態度に腹が立ち、すれ違いざま言ってやった。
「私が気に入らない御様子ですね」
「もう帰る所でしたの」
淡々とした返事に更に苛立ち、ハイネマンは食い下がる。
「到底その様には見えませんよ。前回の事に腹を立てているのでしょう?」
「……御自由に御考え下さい」
「私の身分が低いからですか? 確かに生まれはただの商人の家だ。貴女にしてみれば庶民でしかない」
そこでロゼリアの声が若干の棘を含んだ。
「御止めになって。関係ありません」
「じゃあ一体何が気に入らないのですか!?」
ついつい声を荒げると、彼女はそれ以上に激しく言い返した。
「貴方の話し方です!! 面白そうにちらつかせ、出し惜しみをして!!」
「話……?」
「ええそうよ! あんなに興味を引かれる切り出し方をしておいて……! 貴方は貴重な冒険の話を、女を口説く事にしか使わないのですか!?」
話を聞きたかっただけ? 冒険の話を? 呆然とするハイネマンに、ロゼリアは更に言い募った。
「命懸けの冒険をなさって来た事には頭が下がります。でもその体験を聞かせて頂きたかった!……貴方には海の果てまでも行ける自由があるでしょうけど、私には手に入れ難いのです!!」
そう叫んで、ロゼリアはまるで子供の様に憤る。
その余りの可愛らしさと、得も言われぬ愛おしさに、ハイネマンは思わず吹き出した。
「し、失礼——申し訳ありません……伯爵令嬢に御無礼を致しました」
自分の行為に我ながら可笑しくなったのか、同じく吹き出しながらロゼリアは首を横に振る。
「気になさらないで。身分なんてどうでも良くてよ」
「いや、そうも行きません。その言い方は乱暴が過ぎます。……大切にして頂かなくては私が困る」
「……まぁ、それはどう言う意味かしら?」
ロゼリアは挑戦的に口角を上げ、首を傾げた。
ハイネマンもまた、負けじと挑戦的な笑みを浮べた。
テラスの隅にベンチを見つけ、二人はそこに並んで座る。まるで旧知の友であるかの様に。
「では御望み通り御聞かせ致しましょう。まずは私が始めて海に出た時の話から——」
そうして始まった二人の蜜月は、彼女の失踪によって終わりを迎えた。
信じられない事実と、受け入れ難い現実。
半身を削がれた様な苦しみの中、ハイネマンは十年を生きた。
ある目的の為に情報を集め、準備を整え、時に身を隠し、全てを投げ打って。
「ハイネマン卿」
ヘンリー・カーチスに呼びかけられ、ハイネマンは我に返った。
「大丈夫ですか? 何なら今日は止めときますかい?」
「いや……済まない。もう大丈夫だ」
目を覚ます様に頭を振ってから、踞ったままのカイを見下ろした。
「立て。ついて来い」
カイがゆっくりと顔を上げ、立ち上がる。
ハイネマンがヘンリーに目配せをし、頷いたヘンリーが本の山から一枚の紙を拾い上げた。何の変哲も無い、手の平程の古びた紙切れだ。
その様子を見ていたカイが、無言のまま眉根を寄せた。
「へっ!……まぁ見てな」
ヘンリーがいつもの偏屈面を歪めてニヤリと笑い、拾った紙切れから手を離す。
紙切れはゆっくりと落下して行き、ヘンリーの腰の高さで宙に留まった。
ハイネマンが進み出て、宙に浮いた紙切れに手を伸ばす。
手の平を宛てがい、力を込めて紙切れを前に押し出すと、空間が切り取られ、まるで内開きの扉が開いた様に何かの隙間が覗いた。
(これは一体……!?)
カイが目を見開いていると、ヘンリーが振り返って顎をしゃくる。
「おう、行くぞ」
「……何処へ?」
思わず零れたその問いに、ハイネマンが振り返らずに答えた。
「魔術師の館だ」




