姦淫には情愛を
カイは重い気持ちを抱えたまま、五番目の『情愛』の洞穴に踏み込んだ。
気が触れたマティアスの絶叫がまだ耳に残っている。遭遇する度に正気を失って行く男の様子に、体力ばかりか精神も削られる気がした。
あと、三回。
三回、マティアス・クルーゾーから話を聞けば、自分の役割は終わる。そうすればきっと、この常軌を逸した洞穴から解放されるのだ。そう信じる以外に道は無い。
カイは両手で頬を軽く叩き気合いを入れ直すと、しっかりと顔を上げて前を見た。定まった視線の先に白い人影が映る。マティアスが洞穴の奥へと逃げて行く姿だ。
彼を捕まえる為、カイは再び走り出した。
五人目のマティアスは足が速く、簡単に捕まえる事が出来なかった。その逃げ方は巧妙で、何故か手が届きそうな距離をわざと保ちながら走り、そのくせ少しでも捕まりそうになると途端に速度を上げる事を繰り返した。そうして逃げ続けながらやたらとこちらを振り返る。まるでカイがきちんと付いて来ているか、確かめているかの様だ。
(何か意図があるのか……?)
カイはマティアスの動向に苛立ちを感じる一方で、そんな事を冷静に考えてもいた。
直線の道から蛇行する道、そして二股や三本に分岐し続ける迷宮へと、洞穴はその姿を変えて行く。
マティアスは洞穴の分かれ道に差し掛かる度に勢いをつけ、右や左に飛び込む様に姿を消した。見失わない為にカイも同じ勢いでその分かれ道に駆け込み、猛然と逃げるマティアスの背中を必死で追いかけた。
そんな状況を繰り返した、幾度目かの時である。
二股に分かれた道の右側に、大慌てで飛び込んだマティアスを追いかけ、同じ様に飛び込もうとしたその瞬間、不意に嫌な予感がして足の動きが鈍った。
それでも駆け込んだその先には――地面に大きな縦穴が口を開けていた。
動きが遅くなってはいたものの、急には止まれず、体勢を崩した形で穴に落ちかける。縦穴の縁に両手でしがみつき、なんとか奈落に飲み込まれるのだけは回避した。
縦穴にぶら下がったまま息を整えていると、いつのまにかカイが掴まっている縁の間際にマティアスが立っていた。
息を飲むカイを酷薄な表情で見下ろし、マティアスが口を開く。
「落ちなかったか……運の良い奴だ」
それは恐ろしく穏やかな口調であった。
始めに感じた企みの予感は当たっていた。マティアスはこの縦穴までカイをおびき寄せ、落とすつもりだったのだ。
マティアスはカイを見下ろしたまま話を続けた。
「私はな、思い出したのだよ。奴等の……マトラナ村の住民のやり口を」
カイは目の前に立ち塞がるマティアスを無視して動く事を試みた。縦穴から這い上がる場所を確保する為、縁伝いに手を動かし横へ移動しようとしたのだが、マティアスが素早く縁に足を置き、カイの行動を阻止した。そうしてまたマティアスは、虚ろな目で話を続けた。
「奴等は傲岸不遜な詐欺師、というだけではなかった……おぞましい大罪人だ」
カイは首を捻って下方に目を走らせた。縦穴は真っ暗で、底の深さが解らない。
「奴等が何をしたか当ててみろ。謎解きの手掛りをやる。奴等は不自然に若作りで長生きだ……分かるだろう? 人間がそうなるのはどう見てもおかしい」
そう言ってカイを覗き込んだマティアスの内側から、何かが噴出する……そんな感覚をカイは捕らえた。極僅かな身体の震え、身を包む空気の熱を帯びる様子……。
それは怒りだった。
マトラナ村の人々に対して抱いた、頂点に達した怒りの感情。
「答えを知りたいか? 異種交配だ。エルフとの姦淫により、奴等の先祖は不老長寿を手に入れたのさ。……確証など無い。そんなもの必要無いだろう! 奴等が人間の身でありながら、エルフの特性を持っている時点で明白なのだからな!」
それは根も葉も無い言い掛かり。事実無根の罪状だ。
唯一の生き残りであるアンヌの話を聞く限り、マトラナ村民が持つ不老長寿の特性は、神の子孫と言われている以外はっきりとした原因が分かっていない筈だ。
マティアスはその特性に無理矢理低俗な理由を付け、罪人と見なした。それ程までにマティアスは、『神の子孫』という存在を認めたくなかったと見える。
「……奴等は否定した。『何を言っているんだ?! そんな事をする訳がないだろう!!』……ははは。馬鹿な奴らだよ。見え透いた嘘などつかない方が、どれだけマシな事か……はははっふふふっはははははっ」
乾いた笑いが不気味に響く。しかしそれも束の間の事。突然、マティアスは地面を強く踏みつけ、怒気を含んだ声で叫んだ。
「私は奴等を許さない! そんなものを手に入れる為だけに淫らな行為をするなど、人として生きる資格無し!」
カイは自分を支える手が少しずつ限界に近づいている事に気付き、意識を冷静に保つように努めた。恐らくマティアスは、カイをこのまま放置するつもりは無い。
「人の世は愛で満たされなければならない! お互いを思いやり、慈しみ合う心――情愛に生きる者達こそが至高!……私にも愛した女がいた。私達は心を通じ合わせ、愛と信頼によって清純な関係を築いた……それは素晴らしい、美しい愛の絆だった。皆がそうあれ、と私は願った……奴等の行為は、そんな私の願いを侮辱し踏みにじったのだ!…………」
一通り喚き終えたマティアスは、ゆっくりと足を持ち上げ、縁にしがみつくカイの手に狙いを定めた。カイは彼を見上げ、その動きをじっと見守る。その時初めて、カイはマティアスが右手を失っている事に気付いた。右目、両耳、左手……そして今度の右手。神はまた一つ、この男から取り上げたのだ。
「私の正当な怒りの代償がこの仕打ちなのは、余りに無念だ……お前の身を以てこの更なる怒りを鎮めよ」
そう言ってマティアスはカイの右手を思い切り踏みつけようとした。ほぼ同時にカイは、その右手を離して後ろに回し、腰のベルトから投げナイフを抜き取ると、マティアスの足目掛けて素早く振り上げた。
手応え――悲鳴――地面を転げ回る音。何もかもを聞き流し、カイは夢中で縦穴から這い上がる。
マティアスの姿を確認する前に闇に包まれ、気が付けば円形の空洞にいた。手には強く握られたままのナイフが、僅かな血を滴らせ鈍く光っている。
ふらつく足取りで五番目の洞穴が消えた事を確かめたカイは、そのまま岩壁に手をつき、崩れ落ちる様に地面に座り込んだ。




