傲慢には謙遜を
左から五つ目の横穴に足を踏み入れると、白い服の後ろ姿が前方を走って行くのが見えた。入り口で逃げ去る瞬間を見てから、大分時間が経っているにも関わらず、だ。
カイが地面の文字と石碑の変化に気付き順番を割り出すまで、彼は待っていたと言うのだろうか?
(御親切に感謝します、とでも言っておくか?)
そんな皮肉を思い浮かべながら、カイは走り去るマティアスの後ろ姿を追った。
洞穴内は相変わらず、発光する苔に照らされて薄らと明るい。辺りを照らす程の光を帯びる植物など、まるで魔物の様で薄気味悪く、そんな物に囲まれているかと思うと、一刻も早くこの場から立ち去りたい気分になる。しかしその願いを叶えるには、この場に足を踏み入れ、光を頼り、逃げ続けるマティアスを捕まえる、というこの状態を七回も繰り返さなければならないのだ。この際、目に入る全ての怪異は受け流し、ひたすら任務に徹するしかない。
カイはしばらくの間、逃げるマティアスの姿を追い掛け続けた。
足元も視界も悪くない状況に加え、マントも外してあるので動き易い。剣と荷物とカンテラは、用心の為置いて行く事が出来なかったが、それでも始めの頃よりは格段に走る速度が上がった。この速さならとっくに捕まえている筈なのだが、何故か二人の距離は縮まらない。
洞穴内はやがて迷宮の様相を見せ始め、道が幾つかに別れるようになった。
このままでは見失う恐れがある。カイはそう考えて、足を更に速めて行った。
道が分岐する度に右なら右、左なら左と、さながら狩猟犬の如く執拗に後をついて行く。そうしているうちに段々と距離を詰め、翻るベールや袖に腕を伸ばせば、もう一息で届くまでになった。
間近で見る白い祭服の後ろ姿は、裾や足をバタバタとばたつかせ今にも倒れそうな様子を見せつけながらも、嘘の様に滑らかに走り続ける。まるでその身体に重みが存在していないかの様に、足音の響きも驚く程軽く、現実味を感じられない。
いつか何処かで見た路上の大道芸人が、わざと危なっかしい足取りで人々の目を引きつけつつ、身軽に曲芸をこなしていた——そんな光景をまざまざと思い出した。
そしてふと思った。目の前を走るこの男は、果たして本当に人間なのか……。
厄介な疑念が浮かんだのを振り払う様に、カイは思い切り地面を蹴り、捨て身の体勢で白い背中に飛びついた。
でこぼことした岩の地面を一塊になって転がり、己の身を起こす反動を利用して男を押さえつけ、大きく息をつきながら、カイはようやく、捕らえた一人目のマティアス・クルーゾーを見下ろした。
マティアスは四つん這いで押さえられたまま、薄汚れたベールに隠れた顔を俯かせ、僅かに背中を震わせている。
カイはその様子に、今までには無かった不穏な空気を感じ取り、何か言おうと開きかけた口を閉じた。押さえていた手を放し、そっと立ち上がると後ろに一歩下がって距離を取る。その間もマティアスは身体を小刻みに震わせ、ついた両手をそのまま、まるで地面を抉る様に握りしめた。
泣いている。咄嗟にそう感じた。そしてその思惑は当たった。
俯くマティアスから、息を啜り込む音と共に、単発的に繰り返される短い呻き声が聞こえて来たのだ。
嗚咽を漏らす男を前に、カイは声を掛けるのを躊躇った。だがこのまま待ち続けると言うのも得策ではないだろう。そう思い口を開いた刹那、呻き声がぴたりと止んだ。
「……私は我が身全てを神に捧げて来た……」
うな垂れた男が初めて言葉を発した。カイは口を噤み息を潜め、マティアスの声に耳を傾ける。
「いつ如何なる時も畏敬の念を忘れず、片時もその教えを蔑ろにした事は無かった。……この世の全ての調和と均衡を司り、共存し得る全ての生命を許し、受け入れ、反目する存在ですら排する事は決してしない。それが私の崇拝する神――真白なる善神リージェスであった」
マティアスの言葉は穏やか且つ理知的で、張りのある美声は胸を打つ程熱く、深く耳に響いた。
「……私は常に自らを省みてはその心身を律し、在るべき者がそう在るべき姿で居る事を厳しく自分に課した……私の地位は神によってもたらされたもの。王の右腕と持て囃されても、のぼせ上がっていては話にならない。頭を低く控えめに。それが、高司祭と言う役職を担う私の、至極当然の心構えだった……」
「………………なのに何故」
白いベールの向こうでマティアスの声が震え出した。
「何故……何故だ……何故神は私に罰を与えたのだ? こんなにも仕えて来た私に。あのペテン師供ではなく私に! 臆面も無く神の子孫などとぬかす恥知らず供ではなく、謙遜を美徳として生きて来たこの私に!!」
不意にマティアスが振り返り、カイを見上げる。口を閉ざしたまま彼を見下ろしていたカイは、その顔を見て僅かに後退りした。
悲痛な色を浮べたマティアス・クルーゾーの顔には、右目が無かった。眼窩は落ち窪み、その皮膚は傷口が綺麗に塞がった様につるりと滑らかであった。
「左右のどちらで何を見ても!……その目は望む物しか正しく見る事をしない、然らば一つで事足りるだろうと! 何故そう仰るのだ!? 神は何故私にそう仰ったのだ!?」
這いつくばり躙り寄るマティアスから逃げようとしたその時、カイの視界が暗転した。
……教えてくれ!……教えて……!
闇の中で右目の無いマティアスの叫び声だけが響き、気が付くとカイはまた、渦を巻く文字の羅列に囲まれ座っていた。
(正解、だったのか……?)
座り込んだままゆっくりと顔を擡げ、恐る恐る視線を移す。
……一つ……二つ……三つ……四つ——。
どうやら正解の様だ。
左から五つ目の石碑と横穴は消えていた。




