カラック村①
「いらっしゃい! ジェンキンスの宿へようこそ、お部屋は空いてますよ!」
山を下りてカラック村に入り、一軒だけある素泊まり宿の扉を開くと、元気な少女の声がカイを出迎えた。すると奥から頭が禿げ上がり腹の突き出た中年の男が出て来て、カウンターに入る。カイが近づくとにこやかに頷いて話しかけて来た。
「何日ご利用で?」
「取り敢えず一晩、頼みます」
「一晩ですね? 銅貨十枚です……はい確かに。鍵をどうぞ、部屋の番号はそこに。こちらに名前を……はいどうも。お客さん、今朝方こちらに来たでしょう?」
カイは顔を上げ頷いた。カラック村には一度、食料調達に寄っている。
「いやね、お客さんがパンと水買った店の売り子がね、様子のいい人が来たーってキャーキャー騒ぐもんでね」
店主は宿帳を閉じながら、にんまりと笑って片目を瞑る。
「なんなら連れて来ますよ、その娘。ベルって名前で……」
「いや、結構」
カイは即座に断ると、さっさと階段を上がって行った。残された店主は肩を竦めたが、店番の少女の視線を感じるとばつが悪そうに奥へと引っ込んだ。
部屋に入るとカイはベッドに腰掛け、あまりの疲労感にがっくりとうな垂れた。
アルマ村で黒毛の犬“トビー”を倒した後、残りの気力と体力を注ぎ込んで“彼”を埋葬した。しかし見つけて来た農具では深い穴が掘れず、ただ上から土を掛けただけの様な物になってしまった為、カイは申し訳ない気持ちで山を下りたのだった。
そんな心情の時にこの有様だ。
こんなのどかな村にもああ言う歓迎の仕方があるとは……。不甲斐ないのかもしれないが、しょうがない。殆ど興味が持てないのだ。ヘンリー・カーチスがこの事を知ったら、また腹を抱えて笑いだすに違いない。しまいには笑い過ぎて止まらなくなり、苦しそうに『助けてくれ!』と叫ぶかもしれない。
アントニオなら喜び勇んで誘いを受けるだろう。街にいる同じ歳の男ならば、決めた相手がいなければ大抵は当たり前の様に受け入れる。
十年前にあんな事が起きなければ、自分は違う人間になっていただろうか。
カイの心の一部は、まだあの森の中にいる。
『追いかけて!』
あの声に従い、力尽きかけながらも、あのヴェルテリーデの森の中を必死に突き進んでいる。
(エミリー……)
仲直りしないまま消えてしまった少女。もし彼女が何処かで生きていたとしたらどんな女性になっているだろうか。
(……意味の無い事はやめておけ!)
カイは強く頭を振って自分を叱りつけた。
今はアルマ村の事に集中しなければ。立ち上がり、マントを脱いで壁のフックに掛ける。夕食に使う分と何かあった時に使う分の金を懐に入れ、剣は置いて部屋を出る。これから向かう場所でマントや剣を着けたままでは溶け込みにくい。
階段を下りて店番の少女に食事に出る、と伝える。先程の妙な空気が消えないままなので、お互いにぎこちない会話だったが、少女は親切にも、酒場の食事はどれを頼んでも文句なしの絶品だと教えてくれた。
少女に礼を言って宿を出る。
カラック村は大規模な農村で、朝にここへ寄った時には、村の周囲に様々な作物の畑が広がっているのが遠目からでも見て取れた。作物の流通を良くする為か、良くなったから発展したのか、村の中心部には宿屋、酒場、小売店等があり、一軒づつしかないそれらの周辺は、晩になってなかなかの賑わいを見せている。
日が沈み暗くなった村の家々にはランプが灯り、路上には木組みの台座にたいまつの火が燃え、その側を人々が行き交っていた。男達は労働の後の楽しみを求めて酒場へと集い、そうでない者は家路を急ぐ。
カイは男達が集う酒場、“風と葡萄亭”の扉を押して店内へと足を踏み入れた。