ある村で起きた出来事
薄暗くなった部屋に啜り泣く声が響く。
カイ・ヨハネスは自分の身に突然起きた事態を理解出来ずにいた。
たった六歳のこの哀れな少年は、床にへたり込み、ほんの一刻前まで居た筈の人々が一人残らず村から消えてしまった恐怖に、ただ震えているしかなかった。
「みんな……どこへ行ったの?」
か細い声でつぶやく。
「ねぇ……母さん……父さん」
掠れた声でつぶやく。
「ねぇ……エミリー、さっきはごめんよ……あやまるから……」
嗚咽混じりの声で、つぶやく。
だがいくら待っても、誰の返事も返って来ない。
自分の家から一番端の村長の家まで、村中を走った。
誰もいなかった。
隣の家の少女と森で喧嘩をし、木に登って一人で不貞腐れ、ただいつもより遅く帰って来ただけなのに。
「出て来てよ……どこ行ったんだよぉ! なんで何も言ってくれないんだよぉ!」
『カイ』
悲痛な叫び声を上げた刹那、女の低い囁きが何処からともなく聞こえて来た。
あの人だ。
『カイ!』
焦れったそうに力の籠った、でも懇願する様な囁き。
あの人の声が聞こえて来る。
父でも母でも、エミリーでもなく、マシューさんやルシールおばさんでもなく、ケインやジャックやリドニーやマチルダでもなく。
泣き疲れた少年は思わず立ち上がる。
その耳に、囁きはこう言った。
『……追いかけて!』
ガイアス神生歴七三四年豊穣の月−アゼラ王国の南西に位置するヴェルテリーデという広大な森の中を、一人の子供が彷徨っていた。
夜の帳が落ちようとする中、何かに取り憑かれた様に。
幼い手足で薮や木立を掻き分け、死に物狂いで前に進む。
傷だらけで息も絶え絶え、焦点の合わぬ目は足下が見えていなかったらしい。
森の果ての崖に突き進む彼を、偶然にも二人の兵士が見つけ、止めた。
「追いかけなくては」と、うわごとの様に繰り返す少年は、力を振り絞って崖の先から遥か遠くに見える城を指差した。
それは隣国バルデラを治める王の城。崖は国境であった。
アゼラ国の兵士達は少年を保護し、うわごとの中から彼の名前と村と、そこで何があったのかを何とか聞き出した。
翌日兵士達が馬を急がせ見た物は、空っぽの村。
そこに住んでいる筈の、少年以外の八十七名が誰一人いない、何かがおかしい村。
全ての家の扉は閉められており、飛び出した様な慌てた痕跡は一つも無い。
室内には食事が乗ったままのテーブルや遊びかけの散らかった玩具、縫い物の道具に手入れしかけの農具。村人全員が日々の営みの途中で消えた。
村には何処にも強襲や蹂躙の跡は無かった。破壊や略奪や殺戮や、馬の蹄や人の足が踏み荒らした跡すら見つからなかった。
周辺の山林はくまなく捜索されたが、手懸かりさえ何一つ発見されないまま。
アゼラ国王フィリップ=フランネル八世はバルデラに使者を遣わし、国境の崖付近で何か見た話は無いかと尋ねたが、見張りの塔から特に報告は無いとの返事。
王は隣国に礼を述べ、さてどうしたものかと顎髭を捻りながら思案した。
家臣の一人が村の過去を調べたところ、そこの住人の祖先は遊牧の民であったとの事。ひょっとすると古い慣習によって新たな地を求め、旅立ったのではないでしょうか、と申し上げると、王もなるほどと頷いた。
王が納得してしまったので、誰もそれ以上の追究はしない。
謎を残しながらも、ひとまず事が収まった。
しからば残された子供の哀れな事よと、王は大変心を痛め、小間使いの部屋で意識を取り戻したカイ・ヨハネスに恩情のある計らいをしてやった。
「リルデンの武器商人アレキサンダー・ワイズの養子としてやろう」
かくして独りぼっちのカイ・ヨハネスは、紋章の付いた馬車に乗せられ、アゼラ王国の中央に位置する商業都市リルデンへと旅立って行った。
これより始まるは、それから十年後の物語。