間章 崩御
巡り合わせ。事実が正しくそうであったとしても、その一言で総括するのは難しいことがままあるものだ。
過去というものは、歴史家が根拠の薄弱な幾百の憶測でその背景や社会情勢を分析し、そこから派生した幾万の説を論じられながら語られていき、やがて神話や夢物語と変わらないものになっていく。また一方で、吟遊詩人は他愛もない冒険譚を、聴き手に耳触りの良い話になるよう、装飾と裁断と当て布と縫製を加え、上手に仕立てて街角で定番の叙事詩を語り継ぐ。そこには、ありもしない仮の必然が無数に並び、真実など見えようがなくなってしまうものだが、そういうものだと聴き手が承知している分、歴史家の説よりまだマシと言えるのかもしれない。
後世に希代の英雄とも、治世を破壊した梟雄とも語られ、幾万もの説を持って評されることになる『セルゲイ王』の最期。
しかしこれは確かに単なる巡り合わせだったのである。
熊王セルゲイはどちらかと言えば武張った類の王であったが、知性に欠ける王でもなかった。
その報せを受けて、まだ見ぬ王国の怨敵に対し、セルゲイが得意の戦斧を振るって先頭に立つ誘惑に駆られたのは事実であった。しかし、その誘惑に踊らされて単騎駆け出すような短慮な王ではなかったのである。
勇者王都襲来。
ザムル王国137年の歴史にあって初めてのその凶報は、王宮に伝わると同時に、その構成員を真の姿に変えた。慌てるでもなく、不安な顔一つせずに、黙って武器庫から各々の武具を持ち出し、黙々と装備を始める。彼らは、勇者を含め王を弑する外敵から王を守る矛と盾となることを第一の使命として、王宮にその籍を置いているのであるから、それは当然であると言えた。
バルザック商会が日ごろから整備し、訓練を重ねていた危機管理計画に基づく統制立った動きは、計画通りに完璧に機能していた。
王宮のすべての門に設置されていた格子状の鎧戸はその報を受けて即落とされ、王都ザムル・パレスの最外周城壁の城門もすべて閉じられた。
瞬く間に王都には戒厳令が敷かれ、城壁と王都内に駐屯している近衛兵が展開し、すべての者の外出は禁じられた。
そこにあることが当たり前であった賑やかな往来が消え、突如ふらりと現れた静かな王都は、勇者を迎え撃つべく、静かに息を殺していた。
ザムル王宮は王都の北側にある。
王宮と王都北側の城壁は一体化しており、その為王都の北壁は南側と比べて三倍の高さがあり、城門がない。
その城壁は既存のあらゆる攻城兵器や櫓を凌ぐ高さを持ち、飛行できる者以外に越えることはできない。
外敵が王宮を狙うなら、最短ルートは北からであったが、最も難度が高いのも北からであった。
北側の城壁には槍衾が細かく配置され、複数の見張りが常時目をを光らせていた。
その王宮で、熊王セルゲイは幾分燻っていた。
自らが王に即位してから初めてと言える緊急事態。元々熊人の戦闘意欲は高い。勇者が来たと言われれば本能的に脳の一部は活性化するものだ。
だから、セルゲイが
「ふん、勇者など余の一撃を以て肉塊に換えてやる」
というのは自然なことであったが、
「なりませぬ!王の御身をわきまえてくださりませ!」
と、昼日中でも王の滾る一物を鎮めるために控えている伽側女、いつもは黙ってその淫らな口と股を開くだけの彼女らですら、烈火の剣幕を以って王に対し、その身を盾にして、頑として王宮の外に出すことを拒んだ。
近衛を司る武官はもとより、高位の文官から端女までもが、武具を手にしてどいつもこいつも己が命を捨てようとも熊王を王宮の外に出す気はないという覚悟を見せつける。熊王は憮然として自室に戻って鎧を身に着け、そこらの片手剣では軽すぎると漏らす熊王のために、両手剣を右手用に鍛治師が打ち直し、研ぎなおした特注の巨大な片手剣を摘まんで軽々と腰に差し、愛用の戦斧を武器庫から出してその玉座の前に置いて待つ他なかった。
ふむ。
大して広くもない王の間。その玉座でセルゲイは嘆息した。
話に聞く限りだが勇者は、相当な強者である。しかし、駆逐できない類のものではない。
バルザック商会からも、直近の侵攻では複数の冒険者のパーティで囲み撃退したと聞いている。
なれば王国軍の精鋭を揃えた第一軍団と、さらにその中から選抜した近衛が護る王都であれば苦も無く撃退できる筈だ。
なれば今は軍に任せ、勇者撃退の報を受けてから。事後の復旧復興と今後の対策に指示と承認を与えるのが王の責務。勇者は軍団ではないから、大軍を布陣して対応することも必要ない。そもそも、いま勇者がどこに居るのか確認されていない。だから居並ぶ軍団を前に、戦意高揚のために自ら陣頭に立つことも叶わない。
第一軍団にあって千人長を務めていた近衛の十人長を師に仰いで戦斧の鍛錬をしてきたセルゲイは、三回に一回は師匠にも一本を取れるようになってきていた。その腕を振るいたい欲を押し殺しながら、玉座に座ってじっと報告を待っていた。
しかし事が起こらなければ、何をするでもない。
未だ勇者の行方は知れず、掠奪され住民が鏖にされた村が一つ確認されているのみだ。
我が民を羽虫のように潰した勇者に対する怒りは沸々と腹の底で煮えているが、かといってセルゲイ自らその熱をぶちまけに駆け出すわけにもいかない。誠に、王の立場は厄介なものだと燻っているしかないのであった。
しかし、ヒマだ。やることがない。
現在の勇者の所在は確認されていない。王宮は有事体制に移行し、行政官もその手を止めて警戒や情報収集などの任務に当たっている。王宮の通常業務は停止されていて、いつものような井戸堀りの許可やうな稟議の一つも上がってこない。有事となれば、王は忙しくなるものと思っていたが、逆にヒマになるとはバルザックの連中め、仕事のし過ぎだ。
それでも尚、勇者の行方が杳として知れず、セルゲイが玉座で一人、手持ち無沙汰にしているその時であった。
その感覚を何と呼べばよいか、セルゲイは知らなかった。平和な治世が何代も続き、命のやり取りをする戦場に立った経験のない熊王が初めて感じたその感覚、違和感。そう、それは今まで感じたことのない違和感。
心臓の裏の背骨あたりからぞわりと延髄まで忍び上がる寒いような痺れるような、そんな明らかに不快な感覚が、玉座に座るセルゲイに沸き上がった。
なんだ。この不浄な感覚は。
今まで感じたことのない異様な感覚に、セルゲイは立ち上がった。
「如何されました?」
侍従が唐突に動いたセルゲイに尋ねる。
「いや・・・余にもよくはわからぬのだが・・・」
胸騒ぎと不浄な違和感だけがセルゲイを内から圧迫する。
戒厳令下、静かな王宮。
熊王はその違和感が、西の方角を向いた時、強く感じることに気がついた。
その方角を見るも、見慣れた石壁の他にはなにも見えない。違和感の原因が部屋の中でないとするならそのさらに向こう側からか。
強い違和感は胃の中で焦燥に変わり、じわりじわりと内腑を灼いている。
自然と戦斧に手が伸び、熊王は耐えきれずに玉座を立った。
王の間を出ると、いつもの見慣れた中庭が広がっている。その中に王宮を構成する箱型の平屋の建物がバラバラと点在する様子が見渡せる。
変わりのない、王宮の景色。
右手には、城壁が聳え立っている。
たしかになんの変化もない。そう、建物だけは。
戒厳令下だ。王宮の往来が少ないのは理解できる。しかし、何者も姿が見えないのはなぜだ。城壁の上の見張りの姿も見えない。
見渡す限り、建物はいつもの様子と変わらず佇んでいる。しかし、そこに本来あるべき近衛の姿もない。
なぜだ。
ろくでもないことが起きている。それはわかる。しかし、どうするべきか。
この異変に対して、自分にはなんの情報もない。
外敵が潜んでいるのか?ならば王の間の地下道から王都の外まで脱出するか。
しかし、王都の外ならば安全なのか?
少なくとも、王都をどこかの軍勢が取り囲んでいるという報告は受けていない。逃走用の非常路から王都の外に逃れたとしても、敵に鉢合わせする可能性はかなり低い。ならば脱出するのは一つの策だ。しかし。
この俺が、音がしなかったから、侍従や近衛が居なかったから、王都から脱出するのか?
地下道からの脱出は、王都が敵の手に落ちる時に王を逃がすための手段だ。
いま、俺はそれほどの窮地なのか?
セルゲイはふと顧みて、ふん、それはないと否定する。
王が逃げる時は最低限、近衛や側女にせがまれてからだ。別段、我らが王であらねばならぬ訳でもなし。
セルゲイは、結局、身を翻さずに強く違和感の感じる西方に右足を踏み出した。
「陛下?」
侍従が声を上げる。
しかしセルゲイは答えず、返答とばかりに戦斧を振り、右腋で柄を締めて抱えて矛を前に構えをとり、歩みを続ける。
違和感が強まる。侍従が慌てて背中の剣を抜いて追いすがる。
「お待ち下さりませ。我らが先に・・・?」
少し進む。開けた視界の中に建物の陰から、足が覗いている。靴からおよそ近衛だろうと想像はつく。しかし、なぜ地面に横たわっている?
それは熊王の歩幅でほんの二十歩程の所。
しばらく見てもその足はピクリとも動かない。
距離を詰めずに回り込んで全身が見える位置に移る。俯せに伏せている近衛。呼吸で起こる胸郭の上下すらない。
戒厳令下で近衛が昼寝か?そうであったならまだいいか。
自然と奥歯に力が入り、セルゲイの獰猛な牙が覗く。
「私が参ります。王はお待ちを」
侍従は堂に入った動作で、音も立てずに近寄って行く。文官ヅラをしてたが、忍の心得もあるようだ。本職さながらの直刀まで佩きやがって生意気な。
侍従は倒れ臥す近衛兵に駆け寄って首筋に手を当てるも、黙って首を振った。
その近衛は、目を開けたまま、ただ歩哨に立っているときそのものの表情で地面に顔を下にして倒れていた。
狼人の近衛。余ほどではないにしても軍にあれば百人長の実力を持つ猛者。外傷は見当たらない。歩哨中になんの苦しみもなく突然事切れたかのような死体。
なぜ死んでいるのか想像もつかない。内臓の発作でもおきたなら苦悶の表情くらい残っていそうなものなのに、それすらもない。
さらに忌々しいことに、違和感の原因はこの死体ではない。この近衛を前にしてもなお、セルゲイを突き動かす違和感は立ち並ぶ王宮を西に進んだ先から感じている。
「壁を背に、陛下」
セルゲイが西を睨んで牙を剥いていると、侍従が直刀を構えて戦斧の間合いの少し先を歩み始めた。
そして、違和感の正体に侍従とセルゲイは邂逅する。
そいつは、通路脇に置いてある丈が五尺程度ある甕に、上半身を突っ込んでいた。
もそもそと体を動かして、甕の中を底まで探っている。
なぜそこに。
強烈な違和感に突き出されて湧き上がる疑問。しかい、同時にそれは今考えるべきことではないとセルゲイの直感が告げていた。
そして、そいつの背後にはバラバラと散在する死体、死体、死体、死体死体死体・・・
近衛侍従側女の隔てなく、死体が無造作に倒れ伏していた。
セルゲイの脳髄を怒りの稲光が焼く。
王には斬り捨て御免の特権がある。王国の歴史の中で一度も使われたことない数少ない王族特権のひとつだが、セルゲイはこのとき初めてその特権が好ましいと感じた。逮捕も立件も裁判も要らぬ。この俺こそが手を下すならば手っ取り早い。
戦斧を構えなおそうとしたその時、侍従が音を殺して動く。
しかしそいつは、侍従の動きが見えていたかのように甕から上半身を抜き、侍従に一瞥をくれた。
人間種。男にしては長めの黒髪。三白眼。明らかに王宮勤めの者ではないおそらく灰真銀の武装。
王宮に詰める人間種は多くない。過去に見た記憶がない明らかな部外者。戒厳令が敷かれている中で、この王宮も、有事に残ることを許可されているもの以外は、須らく王宮外に退去させられて、その上で外出を禁じられている。そんな中、こいつはなぜ今、その甕の中身を漁っている?。
侍従は、無言で直刀を腹に構えて真っ直ぐそいつに突っ込む。
しかしその刃が届く直前に、黒い風がそいつの周囲を巻き込むように疾った。
次の瞬間、体中の力を弛緩させた侍従は膝から頽れた。
セルゲイには見えた。いま、コイツは一瞬のうちに腰から武器を抜いて侍従を打ち据え、その武器を鞘に戻した。驚くべき速さ。速度だけならセルゲイと同じかそれ以上。
その得物が濃い黒色であったようにみえた。しかも剣なら侍従が出血してもよさそうなのに、血の一滴も流れていないように見える。使い方は剣のように見えたが。こいつはいったい何をしたのだ。
「あなた、だあれ?」
そいつを挟んだ、反対側から響く人間種の子供のような、小動物系の甲高い声。
不気味なほど静かな王宮に、その声が切り裂くように響いた。
振り向くと、シルフが光の粉を振り撒きながらそいつに近づいていく。
シルフ。
風の精霊と亜人の中間の存在。
確かに王宮には今、シルフが滞在している。森都の近辺の森の高位貴族で、熊王セルゲイに風の祝福を与えに来たシルフの一族、名はエアル・・・・・・・・
有事には賓客は近衛兵が個別の部屋に案内し外出を禁じるはず。なぜ、外に。
いや今はそれはどうでもいい。
セルゲイの中から響き、疼く違和感は、明らかにシルフが近づかんとするそいつから発せられている。
「ちっ、またでたか、モンスター」
そいつは、きわめて自然に、面倒くさそうに小声でそう言った。
危険だ。自分の中の何かが激しく警鐘を鳴らす。シルフは上位精霊以上の力を持つ。並の魔物程度なら束になってかかっても歯が立たない。
しかし、根拠などない。セルゲイの直感が叫んでいる。危険だと。
近衛は。昨日も俺に稽古をつけていた妖怪爺は。皆、そいつの向こうで血も流さぬ屍になっている。
戒厳令の最中、奴ら全員が昼寝をこいているのであればどんなに良かったことか。
そいつは再び、無造作に、今度はゆっくりと腰の剣を抜いた。
闇が空間に迸る。
不自然なまでの黒。一切の光を飲み込み、光沢など全くない。そこだけ空間が存在するのを忘れたかのような、闇の中に沈み込む黒。
そうだ、俺はそれに聞き覚えがある。
「また小物か。大した経験値になりそうもないけど・・・レベル上げは元から退屈なもんだしな」
やるか、と、そいつは不自然さの塊の剣を怠そうにだらりと下げ、エアルに向いた。
「なぁに?あなた私に無礼を働く気?」
エアルの周囲にハラリハラリと浮いていた光点が、意思を持ってエアルの周囲に光の渦を創り始め、やがて小さな竜巻となった。
シルフは幽世を見る目を持たない者にでも認識ができるように発達した上位精霊。これに抗える力を持つ者はザムル王国に幅広い種族が棲まうといえど、指で数えるほどしかいない。しかし、
「おー?いーねぇ。ちんまい大道芸人だったのかよぉ。ちったぁおいしーのかな?」
そいつは、口角を吊り上げ、三白眼を剥き、無造作に闇の塊をシルフに向けた。臆するどころか、楽しんでいるようにしかみえない。
「身の程を、思い知らせてあげるよ!人間種!」
エアルの光の竜巻が力と大きさを増して、放たれる。
そいつが無造作に構えた、闇の塊の先が、エアルの竜巻に触れる。
住宅程度なら瞬く間にばらばらに破壊して雲の上まで放り上げてしまう力を持つ竜巻に触れても、その塊は微動だにしない。ひたりと動かない。
更に風の精霊シルフが操る風の嵐は、空気の渦の中に匕首よりも鋭い無色の風の刃を無数に取り込み、象すら容易く膾切りにして斃す凶悪な魔法。
その竜巻を、その闇の塊は吸い取るように掻き消していった。
そいつは、ただ闇の塊を前に突き出しているだけだ。それだけで。なにもなかったかのように。
「やっぱ、これチートくせえよなぁ」
下卑た笑みを口の端に浮かべる人間種。それに対して、エアルは目を白黒させる。
「なんで?アタシの魔法が消えて・・・」
「じゃ、俺様のこうげきィ!」
そいつは、グッと一度屈むと、放たれた矢の如くエアルにひとっ飛びに飛びかかった。
王宮に響く耳障りな金属音。
それが間に合ったのは半分以上は偶然だった。
セルゲイは渾身の力で腰の剣を抜き、そいつに向かって投げつけていた。
そいつは、エアルに飛びかかる動作から無理やり態勢を崩して、手にした闇の塊で巨大なセルゲイの片手剣を叩き落としていた。
そいつの攻撃を免れたエアルは距離を取る。次の刹那、視線の先にセルゲイを確りと捉え、エアルに濃い焦燥の色が浮かぶ。
供も近衛も連れぬ王。辺り一面に散らばる近衛や侍従の屍。ならば力ある貴族であるエアルが取るべき行動は自ずと決まる。
グッと覚悟を決めたエアルが、再び身体に風を纏い、そいつを飛び越すように高く飛ぶ。
畜生め、どいつもこいつも。
手に取るようにわかる。エアルは俺とそいつの間に割って入る腹だ。俺を逃す盾になろうとでも言うのか。
前に走る。
誰が下がってなどやるものか。生憎だが、俺は脳筋なんだ。
「退がれェ!」
戦斧を上段に構える。熊人が振るう戦斧の一撃は、どんな人間が受けようが得物ごと両断できる。
詠唱だ魔力だ魔法などとまだるっこしいことはしない。一閃して真っ二つにすれば終いだ。要は敵を倒せば良いのだろう。国獲りなら権謀術数、戦略戦術諜報なんでもあれど、敵が一人ならただの喧嘩と変わりはしない。
「やめて!」
エアルが叫んだ。しかし王が貴族の請願に応えねばならない義務はない。無視させてもらう。
「おー?大物でてきたか??」
態勢を崩して着地したために、蜘蛛のように地面に這いつくばっていたそいつは、嬉々としてセルゲイにその三白眼を向ける。
「こいつはかなり高EXPか?レベルアップリィィィィチ!!」
爆発する戦慄。
それに対応する事ができたのは、鍛錬の賜物か、人一倍長い戦斧の間合いか、それとも単なる時の運か。
セルゲイはただ、直感に従い、膂力にものを合わせて戦斧を上下に薙いだ。
痛みと痺れが掌を打つ。
次の瞬間、中庭をゴロゴロと土煙に包まれて盛大に転がる敵がいた。
セルゲイの脳髄が叫ぶ。いましかない。
転がる敵に向かって、戦斧を構え直し、突進する。熊種の脚は敏捷と言えるほど速くはない。しかし、それしか方法がないと、何かが強くセルゲイに教えている。
咆哮する。
獰猛で、微塵の知性もない熊種の本能がさせる恫喝。
戦慣れしていない人間種程度なら竦みあがらせて動きを留めることすらできる種族技能。
しかしそいつは、転がりながらチラリと目線をセルゲイに投げつけると、再びカエルのような姿勢で地面に腹ばいになって回転を止めた。
未だ戦斧の間合いの外。しかし、動きを止めた今ならば。
戦斧を槍投げの要領で投擲する。鎧や盾などを構えていたとしても確実に貫く。這いつくばった人間種ごときなら地面に縫い止めるその一撃。
そいつは、飛蝗のように跳ねた。
人間種にあるまじきその跳躍は、三十間は離れた建物の上にそいつを運んでいた。
平屋造りの王宮といえど、その高さは熊王の倍以上ある。コイツは見た目通りの人間種ではない。別の何かだ。
「やるなあ!熊ッコロ!」
セルゲイは地面に突き刺さった戦斧を引き抜くと、ひと回しして構え直す。
それと、敵が上から突っ込んでくるのはほぼ同時。
奴の得物は剣。間合いは戦斧の方が長い。飛んできたからには軌道は変わらない。なれば叩き落とせばいい。
セルゲイは真っ直ぐに戦斧をそいつの眉間目指して突き入れる。
まともに受けても悪運が良くても吹き飛んで壁に叩きつけることができる。狙い通りなら得物ごと砕いてそのまま挽肉にする。得物で受けなければ真っ二つ。
しかし、そいつは漆黒の得物で矛めがけて上段から打ち下ろしてきた。
セルゲイの半分にも満たない軽量であっても、成体の人間種全体重に位置エネルギーを乗せた打ち下ろしは、セルゲイの矛の軌道を下に押し下げるのには十分以上。そして、打ち下ろしの勢いを止めずにそのまま前転をする要領で体全体を前方、即ちセルゲイの方へ回転させた。
矛を越えられた。
セルゲイは咄嗟に戦斧を手放し、左腕を盾に構えて右手を腰に回し・・・掌が空を掴んだ。
セルゲイの剣は、先刻投擲してしまっていた。
ゲタゲタと薄汚い奇声と共に、敵が飛びかかってくる。
衝撃とともに鈍痛が左手を襲った。と、その直後、左手の鈍痛が吸い取られるかのように吸い出されていく。続いて視界がぐにゃりと歪み、世界の色彩が急速に褪せていく。
呪いかそれとも精神異常系の魔法か。王族の防具は抗呪性や魔法防御力も高いのにそれを突き破るとは。しかしこの間合いになれば目が効かなくても・・・ッ!
セルゲイは喪われていく意識の中、最後に残った武器を剥き、咆哮と共にいつもは抑えている獣性を解き放つ。
動物の肉を捉えた感触が牙から伝わる。薄れゆく視界。薄暗く、世界が灰色から闇に急速に塗りかえられていく。弛緩していく全身の力。もっとも原初の本能が支配する奥歯に力を込める。何かが砕けた様な感触が顎下に伝わる。うっすらと動物の血のような感覚が舌を伝う。
そこで、セルゲイの意識は永遠にこの世から消滅した。
「デスペナかよ・・・いってぇなぁ」
血の泡を吐きながら一言そういうと、熊王に派手に喉骨を噛み砕かれたそいつは、薄墨に景気良く水を流し込んだようにその色合いをみるみるうちに薄れさせ、消え去った。
後には、そいつが着ていた防具しか残らなかった、
その10日後、聖教国西端の都市『新京』が、一夜のうちに全滅した。
生存者、目撃者ゼロ。軍馬や家畜までが死に絶えた。
原因は不明。鍵のかかった家の中にいたものまで等しく、無数の小動物に食い荒らされたかのような死体になっていたという。




