第八話 ホウン・キム 後篇
長らくお待たせして申し訳ありませんでした。
リアルのブラ○○企業で立て込んでおり、気力もなえて遅筆に輪がかかっておりました。
少しずつ書き溜めたものになりますが、公開させていただきます。
赤い月の夜は出歩いてはいけない。
これはこの世界に住む者ならだれでも知っている常識だ。
いくらザムル王国がおよそ遍く種族に分け隔てない平和な治世を実現しているとはいえ、すべての種族の魔性まで管理できているわけではない。
風の強い日に火を使ってはいけない。なぜなら火事になりやすい上に、延焼の足が早すぎるから。
傷のある体で海に入ってはいけない。なぜなら鱶や海獣が血の匂いに引き寄せられて集まってくるから。
ドラゴンに挑んではいけない。なぜなら絶対に勝てないから。
これらはだれもが・・・・少なくとも言葉のわかる子供程度以上なら・・・・知っている、この世の常識だ。
それと同じだ。
赤い月の夜は出歩いてはいけない。なぜなら魔性の血の力が劇的に高まるから。
それはこの世界に棲む者なら、誰でも知っていることだ。赤い月の夜に山を越えようとする者は、あらゆる魔性の血を持つ者に追われることを覚悟しなければならない。
たとえば吸血鬼。赤い月の夜は、吸血鬼の魔力と食欲は平時に比べて数倍となる。
アマゾネス。もとから強い筋力を備える彼女らは、筋力が増加され闇をも見通す視力を得て、男の精を受け入れる確率が10倍になって発情する。
スケルトン。ただの動く骨にすぎなかった彼らは、自らの骨を割って中の腐った髄液を毒とする凶悪な刺突武器を扱う危険な実体を持った手に負えない不死の亡霊となる。
そして、狼人。元々吸血鬼の圏族としての血統を持つ我々は、赤い月の夜には筋力・聴力・視力・嗅覚・魔力がそれぞれ強化される。
元々狼人は、亜人の中でも特に聴力と嗅覚が鋭いが、赤い月の夜には昔日に恐れられた魔狼としての能力がそのまま帰ってくる。ザムル王国に棲み、国民登録ができる程度の知性を身につけている者は、強化された自分の力をコントロールできるが、そこまでの知性のない者もザムル王国内にはいくらでも生息している。
だから、赤い月の夜は出歩いてはいけないのだ。それは凶暴さを増した魔物に襲われる危険性が増すからだ。
ぞわりぞわりと、月に唆された魔力が身体中を激しく巡るのが感じられる。血液とはまた異なる経路で熱く、揮発性のある流体が身体中を巡っている。武道家はこの流れをを経絡などというらしいが、生まれた時から赤い月の夜毎にこの現象と付き合ってきた俺としては単なる生理現象でしか無い。
長く生きていると、この経絡の流れを操作して強化する能力をコントロールできるようになる。それは、俺たち狼人が子供の頃から遊びの延長でやってきたことだ。一番簡単なのは嗅覚。そして、誰もが二番目に会得するのが今俺がやっている聴覚の強化だ。耳腔の奥に経絡の流れをねじ込んで満たしてやると、急激に聴覚が研ぎ澄まされて、全ての音が大きくなったような感覚に包まれる。その中から、必要な音の方位や深さを選び出し、いらない音を取捨選択していく。こうすることで、二百歩先の建物の中で話されている会話を聞き分ける事も可能になる。
アインツから王都に伸びる街道を見渡せる東側の城壁の上に立ち、小汚い庭付き住宅が立ち並ぶ方角に意識を傾ける。キムの自宅だ。キムが自宅で商談をしているとはしらなかったが、会話の内容がどうも腑に落ちない。取引相手と思われる馬人は買い取る数量を五千五百と言ったが、キムの手押し車に載っている羊皮紙はどう見ても一万以上ある。念の為視覚に経絡を流し込んで再確認したが、やはり間違いない。一万以上あるのは確実だ。
半分程度を売却するのかと思って様子を見ていると、馬人は相変わらず五千五百と言いながら全ての羊皮紙を自分の手押し車に積み替えている。
首の後ろの毛がぞわぞわと蠢く。どんどん日が落ちて、代わりに赤い月が姿を現すときはいつもこうだ。今日は雲ひとつない快晴。俺の中を巡る魔力が赤い月明かりに唆されて駆けまわる。それにつれて、感覚もどんどん研ぎ澄まされていく。もう、キムと馬人が何を話しているか、目の前で聞いているのと同じように明瞭にわかるようになった。
びりっ。
肩口から衣服の悲鳴が上がる。
いかん。服を着たままだったか。
あわてて服を脱ぐ。このまま着ていると服が全て破れてしまう。
わさわさと身体中の体毛が深く伸び、筋肉が増大する。赤い月の光を直接浴びると身体の組織が根本から変質する。骨は一割ほど太くなり、筋肉は二割ほど増える。狼人から魔狼への変質だ。
左右の肩のあたりがウズウズと疼き始める。放っておくと首があと二本生えてきてしまう。巡る経絡の流れを肩からずらしてやると、肩の疼きが収まって代わりにさらに体毛が伸び、筋肉が盛り上がる。経絡の制御がうまく出来ない子供の狼人が赤い月の光を浴びると、三頭を生やしてしまい、自我を制御できなくなり魔物として狩られてしまう。
気がつくと、増えた骨と筋肉、そして体毛のせいで俺の身体は概ね五割増しくらいになった。特に体毛は吹雪の止まない雪山でも生きていけそうなほど分厚く生え揃いった。その外見の変わりようは、見た目で俺だと解るものは居ないだろうと思えるほどだ。
増大した能力に研ぎすまされた感覚が、馬人の動きを事細かに伝えてくる。
「あんのクソ馬鹿が、いつも図に乗りやがって」
もごもごと手押し車を曳きながら独り言を言っている。
「しかし、あの馬鹿は毎回枚数のチェックをしないからな。今回も大量に買えた。苦労せずにモノが仕入れられるのはバカ様々だな」
そう言って、ブヒヒヒと濁った笑い声をあげた。
「しかもあのクズ、うちがムタリカに納めてるってのを知った上でやってるんだから、詐欺師っていうより、只の悪党だよな。」
なんだと?キムが販売した数量は実態にあっていない上にその羊皮紙はうちが買っているだと?
どういうことだ。馬人が積み替えた羊皮紙は目算で一万二千枚はありそうだ。しかし五千五百枚という事で代金の受け渡しまで行われた。キムは何やら急ぎ足で商会へ帰っていて、その荷台に羊皮紙は積まれていない。五千五百枚の取引で金貨47枚で決済すること自体はおかしなことではない。
どうもおかしい。
何も持っていないキムから今得られる情報は少ないだろう。
俺は馬人を追うことに決めた。
馬人は城門をくぐり、蔵の集まる街の東側へ向かって走っている。奴赤い月の力で力が増幅されているのか、元から速い足が一層早くなっている。
しかし。
馬ごときが、魔狼であるこの俺から、赤い月の夜に逃げ去るのは不可能というものだ。
グッと足に力を溜め、城壁を蹴る。
次の瞬間、眼下には赤い月の光に照らされたアインツの街並みが大きく広がり、アインツ港の向こう側に赤い月の光を吸って紫色に輝く海原が、遠く水平線まで続いている。雲ひとつない黒い夜空には赤い月が大きくかかり、手を伸ばせば掴めそうな錯覚すら覚える。
下を見ると、さっきまで居た城壁の峰に土煙が上がっている。
やっぱり崩れたか。
月の光の心地よさに触発されて少しばかり手加減するのを忘れてしまった。
まあ仕方ない。後日直しに行こう。
俺の身体が、次第に上昇をやめる。宙に浮かんだ感覚。感覚が研ぎ澄まされると、思考が高速化する。ほんの一瞬のはずの空中停止が、ひどく長い時間に感じられる。
この感覚も、随分と久方ぶりだ。
自然と口元が綻ぶ。
両足の先に、経絡の流れを集めて、鰭の形をイメージして、放出する。
ぞわりと体を巡る経絡の量が減り、北風が体の中を通り抜けたような冷感と引き換えに、足の先に扇型の経絡の鰭が展開する。
そして、蹴る。
すると、経絡の鰭が月の光に満ちた空間をはたいて、俺の身体を宙に押し上げる。宙を泳ぐ魚の感覚だ。鰭は鳥の翼のように、月の光を蓄えて空を滑る。
ひと蹴り、ふた蹴り。
羽ばたくように宙を泳ぐ。赤い月の夜にしかできない空中遊泳。この日ばかりは狼人は鷹となることができる。その俺から、たかだか地上の足が少しばかり速い馬人が逃れるなど笑止千万。できるはずがない。
馬人は荷車を曳いて、一目散に蔵の立ち並ぶ乙仲町へと走っている。さすがに馬人、普通の人間などよりも数倍速い移動速度だ。ならば俺の手間もさっさと省けてよいというものだ。さあさっさと塒に帰れ。
月を背にする位置を保って宙を泳ぎ、乙仲町の上空を遊弋する。
日が落ちて赤い夜の光が満ちても、乙仲町は忙しさに満ちている。荷を曳いた馬車やら荷車やらが、蔵の間を上へ下へと行き交っている。
あの馬人も、そんな絵の中に溶け込んでいた。
じっと上空から目で追い続けると馬人が一つの屋敷へと入っていく。乙仲町では比較的小さな規模の蔵を三棟抱えるその屋敷には、幌付きの荷車が四台と、手押し車が五台ほど停められている。敷地の中に荷車を曳く為の馬の姿は見えない。
馬人が手押し車を蔵の前に停めると、蔵の中から鍵番の猫人が出てきて淀みない動作で手際よく羊皮紙を蔵の中に運び込んでいく。あれよと言う間に馬人の手押し車が空になると、馬人は空になった手押し車を母屋の脇に並んでいる他の手押し車の並びに停めて、母屋に入って行った。
通りは未だ往来が多い。服を脱いだ魔狼の姿を晒して歩くと、ひと騒動起きるのは確実だ。これから馬人の背景を捜査しなければならない時に、無駄に騒ぎを起こすわけにはいかない。
尤も、あの馬人を丸ごと喰ってしまえば、奴の記憶もなにも全て俺のものになる。調査も終わって手っ取り早い。
そこまで考えて、ふん、と鼻で笑うと同時に口許が歪む。俺もまだ赤い月を御しきれてはいないようだ。魔物の感覚がいつの間にか俺の心に滲んできている。そんなことをすれば、俺はたちまち王国軍から追われる身になってしまう。
仕方ない。
鰭の蹴りを緩めてゆっくりと高度を下げる。木の板を張り合わせて強風対策に大きめの石を置いただけの安普請な母屋の屋根が大きくなって、手足が届くところまで近づく。そっと関節を使って衝撃を殺して屋根に着地。みしりと屋根板が軋んだが、この手の屋根は四六時中ミシミシ言っているはずだから、これで合格点だ。
両手両足四点で屋根板を掴んで、足の鰭を消すと、四肢にかかる体重がぐっと増える。
さて、こいつらは何を話して居やがるか・・・
鰭に振り向けていた経絡を、今度は掌に集める。
室内の音が、掌越しに聞こえてくる。
「昨日ハメた女郎が持っていたらしくてよ、何だか痛ェんだが・・・」
「ガハハハ、だからあの女はやめろって言ったのによ」
「在庫が合わねえ?知るかそんなの」
「竜王国からの船が沈んだって話はマジだったのか?」
「猫耳見ていかねェわけにはいかないだろう?!」
「もう切り上げて呑みに行こうぜ」
「おう、お疲れ。」
「まだ確定したわけじゃありませんが・・・・可能性は否定できませんね。」
「はいー。仕入れて来ましたよ、ざっくりですが一万二千。」
こいつか。
さざめく音の驟雨の中から拾う会話を絞る。
「あの気狂いのとこだろ?よくやるなおまえも」
「楽しい仕事じゃありませんけどね。船が沈んだって噂は本当だったんですかね?」
「予定より一ヶ月遅れてる。可能性は高いな」
「それなら、なおさら確保できるものはしておかないといけないですよね。羊皮紙一万二千程度でも、ちょっとは数字の足しになるでしょう?」
一万二千?先刻は五千五百と言っていたのに?
たしかに一万二千なら俺の目算ともずれないが、ならばなぜこいつは五千五百などと言ってキムと取引したのだ?
「今となってはそうだな。殆どリスクなく在庫を確保できる。まったく、筋の違う話だと思っていたのだが、背に腹は代えられないしな。」
「いや、僕みたいなのが役に立てることがあってうれしいと思っています。僕は売ってくるのがうまいわけではありませんから。」
「どんなに売るのがうまくたって、売るモンがなけりゃ宝の持ち腐れだ。できることで貢献してくれれば何だっていいのさ」
「そう言っていただけるんで、やってられるんですけどね」
「それにしても、あの気狂いはまだあの商会でやってられてるのか?」
「みたいですね」
「ただの犯罪者だろ?」
「売上実績として申告しているようで、特別報酬までもらっているらしいですよ」
「いや、だって確実に損が出るだろ?それに特別報酬まで出してるのか?」
「どうやってるのかはしりませんけどね。いいとこの女郎を買いに行くって今日も鼻息が荒かったですよ」
「いや・・・だってよ?毎週こんなことやってるよな?月六万程の羊皮紙を・・・半額以下の金しか払っていないから、実質三万からの羊皮紙を無駄にしてることになるよな?」
・・・・無駄にしているだと?
それは我々のことか。
「そうなりますね」
馬人の言葉が俺に相槌をうったように聞こえて、イラついてくる。
「バレたら、消されるんじゃないか?」
「可能性はないとは言いませんが。我々には関係ない話です。正規の手段で、その商会の担当に、お金を渡していただいてきているんですから。別に、先方さんの倉庫に侵入して奪ってきているわけではありません。」
「そりゃそうだ。むしろそれをやってるのは、その気狂いだよな。」
「奪ってきて、私たちにはした金で売っているんですから、その通りですね。」
メリッと右肩が疼いた。
怒りで経絡の流れが乱れていた。慌てて経絡の流れを整える。魔狼の頭が生えそうになったのだ。右肩に頭を生やしたら、そのまま怒りに飲まれて左肩の頭も生えるところだった。今の状態で魔狼の頭を解放したら、怒りを抑えきれずに、女郎宿に突入して女郎ごとキムを食い殺していただろう。それでは王国軍に狩られてしまう。
しかし、これでよくわかった。キムが最近業績を伸ばしたのは、この馬人を相手に大口契約をしていたからだ。さっき五千五百と言っていたのは実績上の数字で、実際は一万二千を提供していた。差分の六千五百はいうなればキムに盗まれたも同然だ。
しかも、ここは。
屋根を腕で突き飛ばして宙に再び浮きあがり、慎重に周囲を見回して人通りの少ない裏道に降りる。殆ど裸だが飛んでいるよりはましだ。今なら体毛が全身に生え揃って、熊人とも見まがう姿だろう。そのまま表通りに回ると、看板がかかっていた。
『疾風海運団』
くそったれ。うちの商会が羊皮紙を仕入れている貿易会社だ。海路での物流を得意としていて、仕入れの三割程度がここからの仕入れだったはずだ。
ここの倉庫に入った荷は、顧客のもとに卸される。つまり、うちだ。
ムタリカ商会は全商会で売上実績が上昇しているから、仕入れも増やしている。仕入れ元に存在する荷はすぐに買い取っている。つまり疾風海運団は販売先には困らない。ムタリカ商会は十万枚単位で仕入れているので、一万や二万を仕入元に還流させたところで、すぐにほかの支店が捌いてしまうから、仕入元は一切困らない。キムが自分の実績をやり上げるための販売先としては条件はない。
そう、ただし。それは販売額がまともであればの話だ。
一万二千枚を金貨47枚で売れば、おそらく羊皮紙二枚で1ザムルを優に下回る。うちの仕入れ額以下の価格だ。疾風海運団自身の仕入額を下回っているかどうかはわからないが、ムタリカ商会がその値段以上で買い取ることが確定している以上、疾風海運団にとっては多少薄利であったとしてもノーリスクだ。
さて、どうする。
キムの犯罪はほぼ確定だ。この犯罪はキム自身によるものだが、これは支店を預かるこの俺自身の責任ともいえる。
女郎街でキムを探し出し、誰と知れぬところへ連れ出して行方不明とするか。それとも会司に報告して懺悔するか。
数字に厳しい会司のことだ。報告すれば俺への信頼は地に落ちるだろう。支店長の立場も剥奪されるかもしれない。ならば、やはりキムは失踪したことにしてしまおうか。
俺の中で、赤い月の光に唆された魔力が慌ただしく波打っている。怒りにまかせてキムを喰い殺してしまいたい。そんな欲望が身体を支配しようと暴れているのがわかる。
ふと眼をあげて、赤い月を見る。
ぞくぞくとするほどに心地よい光。目から入った月の魔力が体中を駆け巡る。
やはり俺も狼人だな。
ふん、と笑ったところで、目の前を慌てふためいて走っていく亜人がいた。
今の俺がすこしでも笑うと、牙が露出して殺気を放った魔物にしか見えないだろう。そろそろここを退散しなければ軍がやってきて面倒なことになるかもしれない。
久しぶりに駆けるか。
四肢に経絡を集めて、前足をつき、駆けだした。
二蹴り程で上位種の魔物でもなければ目に留めることもこともできない速度に達し、乙仲町の街道を山に向かって駆ける。そこらの亜人には魔力を濃く帯びた黒い風程度としか感知できないだろう。
ほんの数瞬で、俺は乙仲町から影のように走り去り、人気のなくなったところで再び宙に舞いあがった。
■ □ ■ □ ■ □ ■ □
いつもにもまして、昨夜のミイは最高だった。
朝日を背中に浴びながら、家への道を歩く。
全身が弛緩して、歩みにも力が入らない。いや、力を入れたくない。限界まで抜き切った時の感覚はいつもこうなる。
さすがにミイだ。この俺様を受け止められるのはやはりミイ程の女でなければだめだ。
俺もミイにあらゆる手管を駆使させた。なんと、俺は、昨晩あのミイに口を使わせたのだ。
ミイの口の感触と言ったら最高だった。猫人特有のザラついた舌。あの女の舌を味わえたのは、このアインツに俺だけだろう。「もう、特別ですよ」なんて言いながら俺のモノを咥えたあの姿には、いま思い出すだけでもいきり勃ちそうだ。いや無理か。いくらこの俺様でもさすがに昨晩は抜きすぎた。
何回抜いたんだったか。五回から先はもう覚えていない。一心不乱に快楽に身を任せたまま気絶して、朝になっていた。ミイの閨房術に溺れて失神し、そのまま朝を迎えるとは、俺様のような選ばれた者に相応しい、勝者の生き方だ。
ああ、まさにこの朝の為に俺は生きている。
体中の澱りが洗い流されて、血や気の巡りが軽やかになっている。今日も生産性の高い活動ができそうだ。俺のような優秀な者に高品質な命の洗濯を施し、さらに無駄を排除した活動をさせる。これこそが正のスパイラルという奴だ。今日は着替えて、適当に出社した後に仕事したフリをして自宅に帰って寝よう。失神して寝たとは言え、十分な睡眠が採れているわけではない。昨日既にムンシクに相手に五千五百の実績を計上してあるから、日割進捗は二日以上上回っている。さっさと家で寝るに限る。成果がろくに挙がらない仕事をするくらいなら、休息する方がよほど有意義だという真理を見出したこの俺様はやはり天才だ。
城壁を潜って立ち並ぶ工房の狭間に産まれた迷路のような路地を通り、農家を二・三件抜けると俺の自宅が見えてくる。さすがに喉が渇いた。景気づけに氷室の葡萄酒を呷るのが待ち遠しい。
玄関の扉をあける。鍵がかかっていない。昨晩はミイのところへ急ぎすぎていて鍵をかけなかったらしい。迂闊だった。泥棒が入っていなければいいが。
薄暗い我が家。リビングの扉をあけると、酒の匂いがした。リビングの揺り椅子がゆらゆらと揺れている。背もたれ越しに焦げ茶色の髪が覗いて、誰か座っている奴がいる。居直り強盗か。
いかん。この家にある武器と言えば鉈だ。その鉈のある蔵はリビング奥の氷室の横。武器を手にするには侵入者の脇を通って蔵まで到達するか、リビングを迂回し、玄関から庭を通って蔵へ回るかしなければならん。
しかし背に腹は代えられん。玄関へ戻りかけたその時、揺り椅子から声がした。
「戻ったか」
ゆらりと侵入者が揺り椅子から立ち上がった。「待ちくたびれたぞ」
そいつは、俺の知っている奴だった。
「店長」
「よう、キム。お楽しみだったそうだな?」
ラウル・エリセ。ムタリカ商会アインツ本店長で、俺の上司。なぜこいつがこんな処に今いるのか。
「ここは俺ん家ですよ。店長。出社はされないんですか?」
俺の足元にも及ばない無能のくせに。せいぜいが毎日出社して、あの緑の低脳に傅いていればいい。そんな皮肉ですら、犬畜生の頭脳では理解できないんだろうがな。ほら、ちょっと口を引いて牙が出た。畜生はこれだから低脳だというのだ。
「出社?ああ、そうだな」
頭の毛をバリバリと掻きむしって、「今日はこれが仕事なんでなァ」と弛そうに言った。二日酔いなのか?こいつは?しかも揺り椅子の横のローテーブルには白葡萄酒が一本丸々空いている。氷室にとっておいた俺の秘蔵酒だ。こいつ俺の酒を呑みやがった。確定だ。こいつは密告して窃盗で王国軍に挙げてもらおう。そうすれば俺がすぐに店長だ。
「いや、店長。ここは俺ん家だって言ったじゃないですか。もう俺は出社しなきゃいけないんで、出てもらえますか?」
今酒の話はしない。後で密告して軍にパクらせる。
「あ?お前まだ出社する気でいるのか・・・ああ、まぁお前にとっちゃそうなんだろうな。」
ダリィ・・・とか呻いている。弛いのはこっちだ。
「もうお前、本店に出社する必要はねえンだ。本日から君、ホウン・キム君は生産部に配属だ」
ハァ?いきなり何言ってんだコイツは。
「寝ぼけてんすか?困りますね。ちょっと目を覚ましてくださいよ。上半身裸ですよ。服はどうしたんですか?」
酔っぱらってラリるんなら街道でやれや屑が。
「ああもう面倒臭せェ」
唐突に、店長は顎を上げて天井を見たかと思うと、俺の視界から消えた。
次の瞬間俺は喉元に強烈な衝撃を受け、木の天井がいっぱいに俺の視界を埋め尽くした。
「ああいけねェ。これでも殺しちまう。」
俺の右腰のあたりから店長の声がして、すこしだけ、俺の喉元にかかる圧力が弱まる。
それでも苦しい。殆ど息ができない。何かが俺の首を掴んで持ち上げている。これは店長の腕か?野蛮な狼人が。
「放せ・・・この野郎・・・」
右拳を振りおろしたが、ダン、と家の壁が大きく響いて拳に痛みが走る。壁を叩いたか。
「アァ?放せだと?俺に命令できると思って・・・いや、仰せのとおりにしようか」
狼人が言い終わらぬうちに、俺の視界がごちゃ混ぜに攪拌され、耳元を豪と強烈な風斬り音が擦過した直後、一撃、強烈な衝撃が背中から全身を貫き、その後体中が何かに鑢に削られるようなザラザラとした感覚が襲ってきた。
目を開くと強い光が俺の網膜を焼く。次に視界に入ってきたのは一面の青灰色の壁。いや、これは空か?土の匂い。全身の痛み。息が!息ができない!!
「ご気分如何かなぁ?サル。」
俺は玄関の外に転がっているようだ。狼人は俺をここまで投げ飛ばしたのか。奴は俺の家の玄関から出てきて、その歩みの勢いのまま俺の腹を蹴った。
突き上げる悪寒と痛みに翻弄されるがままに、俺は腹の中のモノを吐いた。吐くのと同時に息ができるようになったが、強烈に咽て、胃液が鼻まで逆流する。視界が涙で歪む。
「だ、誰か・・・ゴハッ・・・助けてください!狂った・・ゴホッ・・狼人に殺されます!」
殺す。こいつは現行犯だ。王国軍が駆け付けるまで持てば、俺の勝利だ。しかしまだこのあたりは人通りが少ないはずだ。誰か通りがかってくれれば・・・!
「ルセェ、屑。」
狼人は俺の頭を掴むと、俺の耳元にその野蛮な顎を寄せた。
「手前ェ、馬とツルんで随分と好き放題やりやがったらしいな。おまけにダーンさんのところにまで不義をやらかしやがったな。」
・・・・・・・・・・・!ムンシクの野郎!!!
「ネタはもう挙がってるんだ。ごちゃごちゃ御託を並べるのはもういいんだよ、サル。いいからこいや。」
反射的に俺は身体を翻して地面を四肢で掴み、力を込める。昆虫のように這って脱出さえすれば・・・こんな狼人なんざ簡単に振り切って・・・・
「逃がすかよ」
またも耳元で狼人の声がして、後頭部を衝撃が貫き、俺の意識に帳が落ちた。
■ □ ■ □ ■ □ ■ □
後頭部からずきりと痛みが響く。それで、俺はまた目が覚めた。
「やあ、優秀な営業社員のキム君。目は覚めたかね。」
すこし音程が高めで、しわがれた男の声。しかし頭を動かそうとしても頬が何か固い壁のようなものに押し当たって容易に向きを変えられない。なにか、硬い丸太のようなものを両手両足で抱きかかえたような体勢になっている。手足を動かそうとしても丸太の先に回っている手足が動かない。右の手首を引くと左の手首が引っ張られる。右足首と左足首も同じ関係だ。強く動かしてみると何かが手首足首に身体に喰いこむようで痛みが走る。これは、縄か何かで縛られているようだ。
家畜の糞尿のような悪臭が鼻腔を蹂躙する。俺はむせ返りそうになるのを堪え、目を眇めて痰を吐くように言った。
「誰だ?店長ではないな」
その声はすぐ近くから聞こえて来るが、視界に入らないので確認ができない。どこかで聞いた声のような気がするのだが・・・
「君は生産部門に転属になったのでね。せっかくだからその姿を見ておこうと思ったんだよ。」
その声はキムの問いを無視して話し続けるようだ。「色々とやってくれた君の姿をね。」
うちの商会の関係者であることは確実のようだ。しかし店長でないとするならばワンチャンスくらいはあるかもしれない。そう考えたキムは、口を開いた。
「どなたかは判りませんが、なぜ私はこんなことになっているのでしょうか。これまで商会の実績を引っ張ってきたのに、このような謂れのない仕打ちを受けるのは心外です。」
「ほう。謂れのないことなのかい?どんなところが?」
話に乗ってきた。こいつはちょろいかもしれない。
「私にもよくわからないのです。朝、商会に出勤しようとした所、なぜか店長が私の家にいて・・・気づいたらここでこんなことになっています。転属になったとのことですが、生産部門ですか?なぜ私が生産部門なのでしょう。私の得意分野とはかけ離れていると思うのですが。」
キムがそう言うと、さっきの声とは違う方向から、ヘッと嘲るような声や、クツクツと噛み殺しきれなかった笑い声が複数聞こえてきた。この場には他にも何人かいるようだ。こいつらも関係者なのだろう。
「なんでキム君が生産部門かって?」
しかし、話をする相手は変わらないようだ。「それは簡単な話だよ。『生産して貰う為』だ」
「はぁ、生産ですか。何を?」
「うちが何屋なのか、いまさらトップセールスの君に教える必要はないよね?」
「羊皮紙屋です。」
「そ~~~~~~うだ。」
パチパチと手を叩く音が聞こえる。「正解!簡単すぎだよね。」
だからなんだというのか。羊皮紙は皮を剥いだ後、何かの薬に漬けた後乾かして、色々加工して乾かすとかなんかいろいろやって、できるはずだ。細かいことは知らない。そんな程度の俺に羊皮紙の生産ができるはずがない。
「私に羊皮紙を生産しろと?」
できるわけないだろう。そんなことより売るほうが俺の天職のはずだ。従業員を適材適所で配置するのは原則だろう。
「他に生産部門でやることがあるかい?」
しかし、残念ながらこいつはそんな簡単な原則も知らなかったらしい。
「いやあの・・・そうではなくですね。向き不向きの話をしているのですよ。」
「ならば問題ない!」
そいつは興奮したのか、一層声色を上げて言った。「この仕事は君にしかできない!いや、君しかやってはならないんだ!」
頭おかしいのかコイツ。俺が誰だかわかっているようだが、その先が完全にぶっ飛んでいる。まぁいい。相手がバカなら逆手にとってそれを俺の利益の為に使でばいいだけだ。
「そこまで高く評価されてしまっているのですか。仕方ありませんね。では私も微力ながらお手伝いいたしましょう・・・そこでで、ですが。」
「なんだい?」
「手足が何かで結ばれているようなのです。これでは羊皮紙の生産作業などできませんので、外していただかないと。見えていますよね??」
俺からはまだお前は見えないがな。まったく失礼な奴だ。
周囲から、「ぷっ」だの、「くすくす」だのと失笑が漏れる。他人が不当な扱いをされているときに笑うとは、モラルのかけらもないと見える。この屑どもめ。いずれ地獄に落としてやる。
「何を言っているんだい?君に生産作業などできるわけがないじゃないか。」
いや、お前は一体何を言っているんだ。
「いえ、さっき羊皮紙を生産しろと言ったのはアンタですよね」
チッ。と舌打ちをする声が聞こえた。
「ああそうだよ。この私だ」
声が、後ろから近づいてくる。カツカツと乾いた、軽い音。奴がこの丸太もどきを抱かされて寝ている俺の頭の脇を通り過ぎると、奴自身の姿が視界に入ってきた。
体格は人間族の子供のよう。短い脚に、子供のようなズボン。
着ている服や靴は、それなりにまともな生地があしらわれ・・・そして、苔のような肌の色。バナナのように長く伸びて曲がった鼻に、山羊のように横長の瞳孔の目。
・・・ゴブリンだ。
「・・・棟梁」
なんで棟梁が?!店長はどうした?店長の上にはカズトとかいう人間族もいたはずだ。全てすっ飛ばしてなぜ棟梁?
「君、随分と好き勝手にやらかしてくれたようだね?」
「いえ、それは先刻も申しあげたように・・・」
「ルセェ。屑。手前にはきっちり奪った分の羊皮紙を返してもらうからな。」
そういって、棟梁は視線を上げて「入れろ」と、俺の背後の誰かに指示を出した。ぎい、と扉の軋む音がして、のしのしと重い足音が遠ざかっていく。
「安心しなよ。商会は、お前を殺したりはしない。懲戒処分で、奪った分を返してもらうまでは給料なしだが、食事も提供してやろう。ダーンさんから決闘の申し入れもあったのだが、これも大切な従業員をみすみす殺し合いに出すわけにはいかないので、これも商会として、丁重にお断りしてある」
ダーンが俺に決闘?何を血迷ったんだ。そんなもんお上にあげたって通るわけがない。
「それでこそ棟梁です。」
「尤も・・・」
棟梁はその平べったい瞳孔で俺の目を下から覗き込み、「決闘のほうがましだったかどうかは、わかんねぇけどなァ?」不揃いな歯をむき出しにして、にいっと醜悪な笑顔を作ると、
「ガブゴブァ?」
「ゴフゴバビババァ、ゴブァ」
「ボブハブゴホファ」
意味不明な話し声とともに、パタパタノシノシと、複数の気配が近づいて来た。そいつらは列をなしているようで、後から後から次々と続いている。数はどんどん増えて、5や6ではなくなって、それ以上・・・・もういくつなのか判断がつかない。話し声も、どんどん増えてワイワイガヤガヤと喧しい騒音になった。
「オォラ、来たな」
棟梁が視線を俺から外し、喧しい気配のほうにむけた。
「キム君、紹介しよう。今日から君の同僚となる、生産部門のみんなだ。最も、これで全員ではないんだがね。見りゃわかるだろうが」
扉が開き、ゴブァ、ゴブゴブ、ホボァ!という意味不明な大合唱がワァっ室内に広がった。
入ってくる入ってくる。次から次へと。そいつらは、俺を取り囲むように群がった。苔のような緑色の肌。横長の瞳孔、知性を感じさせない薄く開いた口と、そこから垂れる涎。粗末な衣服。こいつらはゴブリン。それも群れだ。棟梁と見た目は同じだが、どいつもこいつも決定的に知性の絶対量が不足している。魔物の底辺層と言われるだけのことはある。
「ホバァ、ゴボボボボゴブァボゴバ、ガバボ」
棟梁が首を捻って後方へ何か意味不明な音を発した。この音はゴブリンの言語らしい。棟梁が顔を向けたほうから、ノッシノッシと体躯のでかいやつが群れをかき分けて歩み出てきた。
「ホブ」
そいつは棟梁の隣で足を止めた。でかい。ホブゴブリンというやつか。牛頭人ほどはあろうかというその体躯は背丈で棟梁の三倍、腕回りの太さは五倍は有ろうかと思うほどに大きい。ホブゴブリンは、コブゴバと棟梁が何かを言うのを神妙に聞くと、俺の方へのそのそと歩み寄り、熊ほどはあろうかと言うその掌を伸ばしたかと思うと、俺の上衣を掴んで、一気にベリっと引き千切った。
「!!!っっ棟梁ぉぉぉ!?なんなんすかコイツは!」
しかし、棟梁は邪悪なゴブリンの笑顔をピクリとも動かさずに仮面のように貼り付けたまま、「ゴブァゴバビブァ」と別の濁った音を発した。
すると今度は群れの中から、二匹の小さなゴブリンが歩み出てきた。二匹とも見た目は普通の汚ならしいゴブリンだが、手に持つものが異なっていた。片一方は、灰色の液体が入った汚い桶、もう一匹は三日月状に湾曲して、その両端に把手のついた刃物・・・ただし、標準的な人間族の背丈ほどはあろうかと言う大きさの・・・をそれぞれ手に持っている。
桶を持ったゴブリンが桶の中に掌を突っ込み、中から灰色の汁を吸った糸瓜の実を取り出した。灰色の汁がダバダバと滴り落ちるのにも構わず、そいつは灰色汁に塗れた糸瓜を俺の肩から背中、腰、尻までにゴシュゴシュと擦り付けていった。糸瓜とその灰色汁は、ドロリとしたとろみを帯びており、気味が悪いほど心地良いものだった。
灰色汁を塗りたくり終えたそのゴブリンは、まだ灰色汁の入っている桶に糸瓜の実を戻すと、もう一匹のゴブリンが持っていた刃物の把手の一方を掴み、「ギギャボ」などと喚いたのを合図に、ゴブリン二匹でその大きな刃物の両端を持ち、丸太を抱かされたまま寝転がされているの俺の左右に一人ずつ立つように動いてきて、両手を上げてその刃物を持ち上げ、あろうことか俺の首筋の上にヒタリと当てやがった。
この刃物がそれなりの業物であれば、このゴブリンどもが少し力を加えただけで俺の首と胴は盛大に血の噴水と共に永遠の離婚をすることになる。
「と、棟梁!コイツらこんな勝手なことしやがってますよ!なんかいってやってくださいよ!」
ゴブリンといえばこの俺とは対照的にあまりの低脳さで世界的に定評のある種族だ。いくら棟梁が突然変異の優良種であるとは言え、この危険性が理解できていないようだ。しかしそれで俺の首が胴体から切り離されるのは容認できないので、教えてやったことに対する棟梁の返答は、もう既に会話になっていなかった。
「うっせーな。彼らはその道のベテランさんなんだから、グダグタ騒ぐんじゃねえよ。」
言うが早いか、二匹のゴブリンは、俺の首筋にその刃をヒタリと当たると、皮膚の表面を掻く様にザクザクと小刻みに動かし始めた。
「棟梁!削ってる!削ってるってェェェェェェェェ!」
「まだ痛くねえだろ?」
痛くなってからじゃ意味ねえから今言っているのに、何を言っているのか。やはり棟梁も所詮ゴブリン。俺と会話が成立させられる程の知能を持ち合わせてはいないのか。
しかしどうする。この俺様を生産部門に転属させるとか言いながらこんな丸太に括り付けて、衣服を剥ぎ取って灰汁塗ったり、でかい刃物で背中を引っ掻いたり、何をしたいのかさっぱりわからない。如何にもゴブリンらしいと言えばらしい狂痴ぶりだが、こんな低脳共の相手をこの俺様がしてやる義理はないはずだ。
そんなことを考えている間に、刃物で俺の首筋を削り始めた二匹のゴブリンは、ぞりぞり刃を背中から腰の下まで進めていった。
「「ゴブァ」」
腰の下まで刃を当てて皮膚を削った二匹が、揃って棟梁に完了報告をすると、回れ右をして群れの中に戻っていった。あいつらに削られた皮膚は、スースーとした涼感を感じるものの、痛みは全くない。
「いや、あの、棟梁?」
もう辞めだ。こんな訳のわからん仕打ちをするところにいてやる義理はない。俺を生産部門に配置するなど適材適所の原則に反する愚行だというのに、配置した俺に何の生産もさせずに丸太を抱かされて刃で背中を削られるなど、意味が分からない。もう辞めてどこぞの別会社でさらなる実績を上げてやればいい。そうだ。ムンシクのところなら完璧だ。俺が行ってやるといえば断る理由は奴らに一切ないだろう。この俺様のおかげでうまい飯が食えているうえに、さらにこの俺様という稀代の天才を従業員に迎えることができるなど、経営者にとっては天の恵みといえる。断る経営者は愚かというものだ。
「ルセェな。これから本番なんだ。ちょっと待てや」
「うるせえだ?誰に口を利いてるんだゴブリン風情が。辞めだ辞め。今現在をもって、俺は退職する。さっさと俺の縄を解きやがれ。」
「ほぉ。謳いやがったな」
取り巻きのゴブリンの群れに向かって何か言おうとしていた棟梁は首だけ振り返って、心底見下した目線を投げかけてきた。
「そんならテメェ、俺ンとこからギッた羊皮紙分の代金、すべて耳そろえて返してもらおうか。軽く10万はやらかしたんだろう?もううちのモンじゃねえんなら、遠慮はいらねえってことだよな」
何を言ってるんだこのゴブリン。
「ふざけんな下等種族が。もう手前の下じゃねえんだからさっさとこの縄解きやがれ!」
「そうはいかねえ。手前のケジメは俺がとるっていうんで、ダーンさんには退いてもらったんだ。俺はテメェのケジメを、うちの者共と、ダーンさんの両方のために取らなきゃなんねえんだ。」
「おうとも」
棟梁の反対側、俺の背中のほうから、しわがれた声が響いた。「しっかりと見届けさせてもらうぜ。アーツさんよ。」
「・・・・っ!部外者がいるのか!」
ダーンがこの俺様の無様な姿を見ているのか!
そう思うと、怒りが湧いてきた。
「もう、従業員辞めるんだって?そんなら容赦なくケジメ取らさせてもらうぜ」
何事か、棟梁がゴブゴバと言い放つと、群れの中から別の二匹が出てきた。両方とも背丈は標準的なゴブリンと同じだが、一匹は極彩色の布を張り合わせたフードを全身に纏って手に何やら装飾のついた杖を携え、もう一匹は腰と性器の周りのみを隠した最低限の衣服と、手に包丁よりも刃渡りは小さいものの、長年使い込まれて大量の血を吸ってきた事を示す赤黒い汚れと、丁寧に手入れされている事を示す波紋の輝きが特徴的な、如何にも禍々しいナイフを握っている。
この二匹に、棟梁は「ゴバ」と指示を出す。
すると、手にナイフを持ったほうが摺り足で俺の背中まで歩み寄り、ナイフを握りを持ち替えると、
躊躇なく、俺の首筋に差し込んだ。
「おおぉがああぁぁああうぇあああさええでえああああ!!!!!」
最初はひやっと冷たい感覚が首筋に走り、次に刃物で斬られる鋭い痛みが脳髄に突き刺さり、暴れまわる。
ゴブリンのナイフは、首筋だけでは止まらない。首筋から右肩を通って、背中よりの脇を一直線に腰まで下がり、右腰から左腰へ走るとこんどは腰の左側から左肩にかけて一気にその刃を走らせ、左肩をぐるりと回って最初に刃を差し込んだ首筋まで戻って来た。
猛烈な激痛とともに、切り込まれた傷口から血液が流れ出て腕を、足を伝っていくのが感じられる。
言葉にならない叫びを発しながら、のたうち回ろうとするも、丸太に手足をがっちり括りつけられた状態では筋肉に力を入れて肩や腰を少しねじる程度のことしかできない。
涙が、冷や汗が、よだれが、胃液が、小便が、大便が、ありとあらゆる穴から噴き出してくる。
この俺にここまでのことをしておきながら、ナイフを持ったゴブリンは、何の感情の揺らぎもない顔で俺の肩脇に立って刃を逆手に持ち替えると、ざくり、と、肩口に斜めに刃を寝かせて刃を差し込み、丁寧に擦るように刃を動かし始めた。
剥いでいる!こいつは俺の皮膚を剥いでいる!!
ナイフ使いのゴブリンは、ザクザクと俺の皮膚を片手で剥き、反対の手でナイフを動かして俺の背面全体の皮膚を剥ぎにかかっている。
叫ぶ。吠える。嘔吐する。次元の異なる苦痛に、なにをどうしたかはもう俺自身知覚できない。只々、苦しんだ。その永遠とも一刻とも二刻とも思える地獄の皮剥を、俺は兎にも角にも耐えきった。
俺はありとあらゆる穴から出るすべてのものを垂れ流して、息を吸い込むのにも吐くのにも激痛が走っていたが、未だ俺の意識はあった。そして、見た。見てしまった。
俺の皮を剥いだゴブリンが、ナイフを腰の鞘に収め、剥いだばかりの血塗られた俺の皮を両手で吊って舐めるように眺め、納得したのかウンウンと一人で頷くと、俺の皮をほかのゴブリンに手渡した。俺の皮を渡されたゴブリンは、足元に置いてあった盥にばしゃんと投げ込むと自分も盥に入って、何やらバシャバシャと水飛沫を上げながら足踏みを始めた。
なにをしているのか。まともじゃない。
直感した。
俺は今すぐここから逃げなければならない。しかし、両手両足を縛りつけられた俺にできることはほとんどない。どうすればいい。このあまりの苦痛の前にはもう悲鳴を発するのも辛い。
バダバタと脂汗が湧き出て顔を伝う。俺はゴブリンに殺されるのか。戦場であまりの痛みに介錯を求める兵士がいると聞くが、その気持ちがよくわかる。パクパクと池の魚の様に口だけ動かしていると、極彩色のフードを被ったほうの奴が、両手で印を結んで何やらゴブゴバと呪文だか祈りだかを唱え始めた。
フードを被ったゴブリンは胸の前の印を結んだ掌を親の仇のように睨んで、肩肘を張ってプルプルと両腕を震わせながら力んでいる。と、突然「ゴブァアアアアア・・・」とまるで女郎にイカされたかのような恍惚の表情にうって変わって、両腕を扇に広げて四肢を弛緩させた。
すると、俺の体に異変が起きた。
「おっおおおおぉぉぉおおぉ?!」
最初に痛覚に蹂躙されていた俺の背中全体にひんやりと心地よい冷感が広がり、その冷感の広がった部分から痛覚が消えていく。冷涼感はすぐにほんのりとした温かさになり、やがてちくちくとした痒みが皮を剥がれた背中全体に広がっていった。
何が起こったのかは知らないが、痛みが消えていくのは奇跡だ。
ふぅーーーーと、安堵のため息を吐くと、シャーーーーーッ、シャーーーーーッと何かを擦る音が聞こえてくる。
「一息ついちまったか?まぁ仕方ねえ。続きだ」
棟梁が擦る音のほうに一声かけるとピタリと擦る音は留まり、「ゴブァ」と再び奴が俺の視界に現れた。
「えっ・・・・?」
再び現れたのは奴だ。ナイフ使いのゴブリン。
「棟梁ぉおおおおおぉ!なんでこいつが!!俺の皮はもう剥いだろ!!!」
脳漿の絶対容量が不足しているゴブリンの棟梁にでもわかるように教えてやったと言うのに、棟梁は心底からつまらないモノを見下す目を俺に向け、
「手前ェがギッた羊皮紙が、一枚や二枚で足りると思ってんのか?!」
と言って、ナイフ持ちのゴブリンへ顎をしゃくった。すると、ナイフ持ちのゴブリンは無言でウンと頷くと、ナイフの刃に目を落とし、再び俺の首筋に刃を突き立てた。
剥いでは癒し、剥いでは癒しを何度繰り返したかわからなくなった。一瞬なのか、それとも永遠なのか知覚すらできない苦しみの中、突然にその時は訪れた。
「コゴブゥア?」
ゴブリンシャーマンが棟梁に向かってなにか言った。それはもう何度目かわからない大癒がかかった直後。ぼやける視界の奥で、棟梁が
「あ?ブラグボウァド」
と、つまらなそうに何事か吐き捨てるように言うと、周囲を取り囲むゴブリンたちの気配から今までになかった別の気配が歩みでた。
大癒の直後なので身体を苛む痛みはない。しかし、幾度となく皮を剥がれた時の痛みは疼くように頭蓋の奥にこびりつき、俺の意識を朦朧とさせていた。そんなぼやけて寄る辺なく浮遊していた意識が、突如として鼻に突き刺さった強烈な悪臭によって地面に叩きつけられて覚醒した。
腐臭と死臭と家畜の糞便と、その他何か生理的に嫌悪感が先立つ酷い生臭さ、それらが入り乱れた悪臭。瞬間的に嘔吐がこみ上げ、反射的に鼻腔での呼吸を遮断し、頭の位置をずらすと、そのゴブリンが視界に入った。
背はゴブリンとしては標準的なのか、棟梁と同じくらい小さいが、顔は標準的に醜いゴブリンのもので、他と見分けがつかないが、ぼさぼさで何か月も洗っていなさそうな縮毛を大量に生やしているのが他のゴブリンと異なる。皮膚の色は緑色だが、胸のあたりに薄汚い布が巻き付いているので、どうやら雌のゴブリンのようだ。雌ゴブリンと思われる個体は他にもいるが、クシャクシャと縮れた毛が頭の上にこんもりと乗っかって、頭の大きさを三倍から四倍大きく見せている。左手には小さな木桶を提げて、平たい羊の眼をギョロリと動かして、俺をじっと凝視している。何なのか。俺が美味そうに見えるのか。
「ゴブゥア・・・」
ゴブリン共通の意味不明で知性のかけらも感じない鳴き声を上げ、雌ゴブリンはその口角を引き上げた。ぞわりと背筋をうすら寒い嫌悪感が駆け巡る。すると、
「ウヒャヒャヒャヒャ!」
突如として棟梁の嗤い声が響いた。
「よかったなぁ!キム!お前気に入られたぞ!」
腹を抱えて身を捩り、もうすこしで石畳の床に転がりそうな勢いで棟梁はウケている。何処がツボにはいったのかわからん。思考する力ももう残っていないのでぼんやりとその雌ゴブリンを眺めていると、そいつは左手に提げていた木桶に右手を突っ込むと、中から灰色の泥、いや、泥よりも粘度が高そうなペースト状の何かを掴んだ。そして、その何かを俺の顔のほうへ近づけ、そのまま口の中へ捻じ込んだ。
舌に広がる苦み・渋み・甘味・鮮味・そして猛烈な悪臭。力など残っていなかったはずの俺の内臓が、全力でその灰色の異物を排出しようと最後の抵抗を開始する。胃は水からあげた川魚のように捻転して収縮し、肺は一切の呼吸を拒否するように残っていた空気をすべて吐き出そうともがく。あらかたその灰色の異物を吐き出しても、米粒程の残滓が喉の奥に少しのこびりつき、それをなんとか吐き出せないかと体が本能的に極端な反射行動を繰り返す。
雌ゴブリンは俺の吐き出した灰色のそれを、はたと眺めると、少し悲しそうに眉を下げたが、すぐに何か思いついたのかまた口角を上げ、再度桶に右手を突っ込んだ。
そして、先ほどよりも大量の灰色のペーストを掴みだし、
「やめてくれえ!!それは、それは無理だあああああ!!」
俺は身体の底から湧き上がる拒絶感から反射的に叫ぶと、言葉が通じたのか、雌ゴブリンはその灰色ペーストを自分の口に放り込んだ。
「なんで・・・?」
究極の不味さを極めたらかくやとも思えるそれを大量に口した雌ゴブリンは、しかし嘔吐する気配も見せず、もしゅもしゅと咀嚼すると、ずい、とその醜い顔を俺の顔に近づけた。そして、桶を床に置くと、ペーストで汚れた両手で俺の口を上下に無理やり押し開くと、紫色の唇を俺の口の直前に持ってきた。
そして、かぱり、唇が上下に割れ、紫色の口蓋の中から、筒状になった舌がぬるりと口から這い出てニョロニョロと伸び、こじ開けらた俺の口から喉の奥を伝い、胃の奥までたやすく侵入すると、そいつは脈打つように蠕動して何かを直接俺の腹の中に送り込み始めた。
温かい何かが俺の腹の中に入ってくる少し幸せな感覚はほんの一瞬。それは先刻の灰色ペーストそのものだった。毒物の再度の侵入にまたも胃が悲鳴を上げ、のたうち回って排出しようとするも、雌ゴブリンの舌で栓をされて吐き出すことができない。猛烈に吐きたいのに一切吐けない。内臓だけがのたうち回る絶望的な苦痛の中、俺は身をよじることもできずにひたすら雌ゴブリンに口から喉まで犯されながら、毒物を腹の中に送り込まれ続ける羽目になった。
雌ゴブリンは、俺の口に舌を差し込んだままの状態で、口蓋の隙間から器用に次から次へと灰色ペーストを自分の口に流し込む。そして、こいつは牛のように一度自分の腹の中で咀嚼してからストローのような舌を使って、それを再び俺の腹へ戻している。毒物を間断なく送り込まれて膨らみ続ける俺の内臓は、嘔吐は無駄と悟って次の行動を選択する。
上から出ないのなら下。
横隔膜は引き攣りながら胃を圧迫することを諦め、代わりに手拭いを絞るかの如き腸の蠕動が始まり、異物をケツから排出しようと一致団結する。ねじくれた内臓の悲鳴が、ズキンズキンと間断なく俺の後頭部まで響く。
通常であれば厠へ全力疾走しなければならない事態だが、今の俺は丸太の上に括りつけられたままだ。俺はさっさと肛門に汚物の濁流に抗うことを止めるよう指示すると、温かい汚物がバタバタと俺の股間を濡らしていった。
「旨かろう!思う存分食えや!」
可笑しそうに嗤いながら、棟梁が叫ぶ。喉に雌ゴブリンの舌を突っ込まれたままで何も話せない俺を文字通り見下して。
「ゴブリンに伝わる特製シチューは旨いだろ?森の昆虫どもと、お前用に特別にトッピングした雄ゴブリンの精液のペースト入りだからな!栄養満点だ!ゴブリンが討伐されちまって久しいこの時代、いまや王国じゃこの里でしか食えねえぞ!」
棟梁はいつもより饒舌になっていた。
「アーツ棟梁。儂ャ、もうええわい。」
ダーンの声が聞こえる。正直、決闘でコイツと生き死にの勝負で白黒つけておいたほうがよかったのかもしれない。
「ああ、ダーンさん。色々とご迷惑お掛けいたしまして申し訳ありません。コイツからは10万枚の羊皮紙を採らないとケジメがつかないところでした。譲っていただきましてありがとうございました。」
「ゴブリン流のケジメちゅうんがここまでとは思わんかったわい。いや儂自身がゴブリンを侮っておったのか・・・なんにせよ、コイツは儂に両断されるよりよほど悲惨な目に遭いそうじゃの。いやもう遭っておるかな。」
「はい。そこは間違いなく。今後も我々の流儀でやらさせていただきます。昼も、夜も。」
「・・・夜も?」
「はい。我々は性欲が旺盛でしてね。しかもその性欲解消の手段には雌雄種族一切関係ないんですわ。」
「猿人でも、夜のお楽しみになるンか?」
「もちろん。彼らにとっては、最高の夜の供となるでしょう。なぜなら、彼らは」
雌ゴブリンの目が俺を凝視し続け、気のせいかさっきより潤んでいる。口から食道までを犯し続けるのは疲れるのか、ハアハアと呼吸も荒くなってきている。それなのに雌ゴブリンは、舌を抜こうとせず、俺の胃の内壁まで舐めるかのようにぬとりと蠢めかした。
「ゴブリンなんですから。」
棟梁が胸を張ると、ダーンは、はあ、と寄る辺のない溜息を吐いた。
「わあった。もうええわ。儂の負けじゃ」
俺の魂は永遠の闇の底へ向かって転げ落ちていった。




