四 二人の距離感
07
何回も逃げようとした。
何回も殺されそうになった。
そんな険しき紆余曲折を経て、オレは大きく息を吐いた。今更ながら、静かな時を過ごしている。ガチャガチャと動くことで生じる鎧の音は聞こえないし、肌を撫でる風もない。
今、オレがいるのはとある一室だ。喜ばしい事に、ようやく身の安全を得た。だが、自らを取り巻く状況に着いていけない。頭の中を整理する為に、少し思い出して見る事にした。つい、一二時間程前の事である。記憶は鮮明に残っていた。
牢屋に入れられると分かっていて、大人しくしている奴がいる訳がない。ゆえに、オレは何度も逃走をはかった。そしてその度に失敗し、遂にはハンナの魔術によって、体を黒いロープのようなもので拘束された。再び春巻きにクラスダウンである。その際に、ノッポの兵士には、懲りんやっちゃなと呆れた目を向けられた。
そんなオレの苦労も虚しく、上を見上げれば首に負担がかかるんじゃないか、と思う程の高い城壁が姿を現した。
そして、遂にオレは身柄を引き渡される事になる。
どうしてこうなった。
身柄を拘束されていなければ、暴れていたかもしれない。この体を締め付ける黒いロープのようなものがなければ。
だが、引き渡されようとしたその時だ。
ハンナよりも上官であろう男に、こう訊かれたのだ。
「お前よぉ」
その男はくすんだ白髪をし、盗賊のような髭をはやした巨漢だ。鍛え上げられた身体はオレに威圧感を与えた。
ひゃい、と声が裏返ってしまったのは、いたしかたないだろう。やだ、オレ萌えキャラみたい。
「名前、なんて言うんだ?」
こちらを目定めている目だと感じた。
萎縮してしまう。
そら、ヤクザみたいな厳ついおっさんに、名前を訊かれたらビビるわ。こちとら高校生である。元、になってるかもしれんが。
だが、ここでどう答えようが、何も変わらない。何も悪くないが、牢屋に入れられるだけだ。理不尽だ。
だから、息を吸い、はっきりと言った。
「義若、義若良助だ」
この世界において、初めて名乗る己の名。
それを伝えると、目の前の男は大きく目を見開いた。いや、オレだけではない。オレを抱えていた二人の兵士も、そしてハンナですらも同様の反応を見せる。
……なんだ?
疑問を抱くと、目の前のくすんだ白髪の男が口を開いた。重々しい口調だった。
「そうか、お前が──」
呟かれた言葉に反応したのは、ハンナである。
「──ガイモン、この男が嘘をついているかもしれません。信用するには早いかと思いますが」
「信用するか、どうかじゃあねぇ。なにせ、俺たちにゃあ判断しかねんだからよぉ。『四方臣』である俺ですらも。──取り敢えず、ハンナ。拘束をといてやんな」
ハンナの方を向き、そう言った。
名乗っただけで、状況が変わった。
なんだよ、ちょっとついていけないぞ。取り敢えず、オレにとって、良い方向に話が進んでいるという事しか分からない。
だが、オレの目の前にいる白髪の男──ガイモンに、ハンナは食い掛かる。
「……ですが!」
「お前はちっと真面目過ぎんなぁ。いいから解放してやんな。上官命令だ」
彼女は納得がいかない顔だったが、すぐに拘束を解いてくれた。身の自由を得た事で、いささか心に余裕が生まれた。
訊いた。
「なんで、オレの拘束を解いてくれたんだ? 」
それには。
「オレの名前が──関係あるのか?」
ガイモンは、雑草のように生えたあご髭を弄った後に。
「俺ぁ命令に従うだけよ。多少立場があると言っても……所詮は、兵士だからよぉ。お前が何をしようが、していなかろうが、上の意向に準じるだけだ」
それと。
「お前の疑問は、急ぐ必要はねぇさ。じきに分かる。望もうと、望まなくとも」
釈然としないが、こうしてオレは牢屋に入れられる事態は回避した訳だ。何が何だか分からないし、オレの預かり知らぬ所で、話が進んでいる事に憤りを感じない訳でもないが、一応喜んでおこう。
ひやっほぃ!
そして、現在である。
オレは現在居る部屋を見渡す。
思わず嘆息した。
「牢屋に連れてかれると思えば、まさかの王城の一室、それもあちら側から客人として向かえいれるとは」
あてがわれた部屋の豪華さに思わずぼやいた。
「……扱いの違いさが半端ねぇな本当」
部屋の面積が出掛ければ、天井も高い。なんだこりゃ、ドッジボール出来んぞ、この広さ。だが、部屋の調度品を見るに、そんな事は恐ろしくて出来ない。
「部屋の片隅に置いてある、さっき見たマヒロシカとか言う白鹿を模した等身大の像とかいくらすんだろう……。うっかり角の部分を折っちまいそうで超怖いから触れもできねえよ……」
動き回れば何か余計な事をしそうなので、ベッドに腰掛ける事しか出来ないとしていることしか出来ない小心者、オレである。
しかも、今のオレは服を着ていた。
この世界に着てから、初めて服を着た。
……なんか、すげえ満足感。ただの白いワイシャツと無地の黒いズボン──おそらく、この城の使用人の制服だ──を着ただけなのに、どうしてこんな感動するのだろうか。ようやく人間に戻れた気分ですらある。……って、アホか。
ぽふり、とベッドに身を預けた。
「しかも、このベッドもフカフカでどーしろと」
温かさ、柔らかさは、オレを眠りの世界へと誘惑してくる。ちょっと疲れた。このまま寝てしまおうかとも思う。
「だが、寝るわけにはいかん」
フカフカの感触を惜しみ、二三回寝返りを打つとがばりと起き上がる。まだ、やるべき事が残っている。
それは──状況の整理だ。
何かないだろうかと、部屋を見渡すと、ベッドの側の棚にメモ帳と鉛筆を発見した。選択は軽く丸みを帯びていることから、おそらく誰かが使ったのだろう。
気にする必要はない。
メモ帳に考えを整理する為に、書き込んだ。
『一、どうして異世界に来る事となったのか、その理由と原因。何者かによるものなら、その目的』
『二、オレの名前を名乗った際の、ハンナやガイモンとかいう白髪のおっさんの驚きよう』
『三、オレが王城で受けている待遇』
自分の置かれた状況を整理して、思わず唸った。
「うぅむ……一つ目は考えてもしゃあねえか。やっぱ、一番ひっかかるのは、オレの名前に反応した所か」
それが一番ひっかかる。
彼らは、オレを、いやオレの名前を知っていると見て間違いない。だからこそ、こんな扱いを受けているし、オレの名前に彼らが驚いたのにも説明がつく。
だが、それには疑問がある。
オレは異世界に来てからまだ一日も経っていない、なのになぜ名前をしっているのか。そもそも、名前を知っていたのに、どうして顔は知らなかったのか。
それと。
「……どうしてオレなのか、だ」
昨日まで高校生をやっていたオレだ。この国のヒラの兵士にだって余裕で負ける。魔術だって使えねーし。それだったら、オレ以外の腕っ節に自信がある奴の方が適格だろう。
「……どうして、オレなんだろう」
そう呟いた時、ドアが叩かれる。二度音がし、返事をする暇もなくドアが開け放たれた。
「お迎えにあがりました」
そこに居たのは、灰色の髪を持ち白い帽子をかぶった女。
ハンナだ。
08
彼女に、上の階へと連れていかれる。
オレが居た部屋は、一階だったからか、先程から階段ばかり登っている。時折慌ただしく動く城の使用人を目にするが、兵士は見かけなかった。今は、仕事がないのだろうか?
上京した田舎者のように場内をキョロキョロしていると、不機嫌そうに咎められた。
「余所見をせず、ちゃんと着いてきてください」
「あ、すんません」
彼女は、少し納得がいかなそうな顔で斜めに顔を向けている。なんで私が迎えにいく事になったのだと言わんばかりの不満顔だ。
だが、逃げたりすればどうなるかは身体で知っている。なんかエロい。気のせいか。
ともあれ、待遇が変わった今、行かない訳もない。素直についていく。
「……つかさ、迎えに来たっても、オレどこに連れてかれる訳?」
「行けば分かります」
「いやさ、あんたらそればっかじゃん。オレが知らない所で話進められてもさ、釈然としないっつーか……気分は良くねえよ、こっちだって」
「そうですか。ですが、私も理由は存じ上げませんから。私に下された命令は、最初に貴方を保護した私が、貴方を連れてくるようにと。それだけですから」
「そうか、言葉の使い方が間違ってんぞ。ありゃ保護じゃなくて、連行というんだ」
「そうですね、ではこのように」
くるりとこちらを向くと、彼女は膝を着き、次いで手をハの字につけると。頭を下げ、こう言った。
「大変申し訳ありませんでした」
「土下座⁉ ちょっと! そこまでしなくていいよ! ──あ、そこのメイドさん! 角から覗き見して青ざめないで! つか、はよ顔上げて立てぇ!」
「いえ、許していただけるまでは」
「許す! 許すから!」
「そうですか」
先程の土下座が嘘のように、ハンナはクールに立ち上がる。パタパタと膝の辺りを払うと。淡々とこう述べた。
「……私は辱めを受けました。ですので、これにて差し引きゼロのノーカウントという事で。──よろしいですね?」
「土下座した後にこんな強気な態度を取る奴初めて見たぞ、オイ。つか、あんまし気にしてねえから、一言で良かったのによ」
言うと、彼女は背中を向け、また歩き出す。
「借りは、作らない主義ですから。これで終わりです」
そう口にした彼女の表情は伺いしれない。なにせ、背中を向けているからだ。まただ、とオレは思う。あの時、彼女の赤眼について触れた時と同じだと。
きっと、彼女は隠しているのだ。
何を、と問われても答えようがないけれど、身を守る為に体を針で覆うハリネズミのように、彼女は自分自身を態度や言動で隠している。
それが、オレには分かった。
分かる事が出来た。なんとなく、だけれども。だから、彼女の中ではこれで話は終わりだ。空気を察するならば、話掛けない方がよい。
けれども、オレには彼女に対し、言わなければならない事がある。だから空気を読まずに言うことにした。
「借り、ねえ。さっきの謝罪で帳消しにはならんだろ」
「……そうですか、意外です。貴方の事は、小心者で土下座されたら取り乱し、なんでも許してしまう愚か者だと思っていましたが」
「そんな風に思われてたんだ……そっちのが意外っつーか予想外なんだけどよ」
「それで? 私に何がお望みなのですか? 貴方を拘束し、何度も魔術を使い、怪我をさせるかもしれなかった私に」
「そうだな、なら──こんなんで」
膝の力を抜き、地面へとつける。それから、頭をそのまま下ろし。
「命を救って下さり、ありがとうございました」
目には目を。歯には歯を。
そして──土下座には土下座だ。
戸惑った彼女の声が聞こえる。
「え、その、何を……⁉」
「言葉の通りだ」
頭を下げたまま告げる。
「あんたに何をされようがさ、死ぬかと思ってたオレを助けたのはあんただ。魔術? だっけか、で体を縛られたりもあったけど、命がある事には変わりない。だからオレは言う。──ありがとう、と」
少しの間がある。彼女がどのように思ったのか、オレには分からない。頭を下げているから顔が見えないのだ。
ハンナは、こう答えた。
「訂正します。小心者でも愚か者でもなく、貴方は変わった人ですね」
「礼儀と感謝は忘れるなって、母ちゃんと親父に躾けられたからな」
ため息を一つ彼女は吐く。
「顔を上げて下さい。人に見られてしまいますので」
「そうだな、またメイドさんに見られたらたまんねえもんな──」
と、頭を上げて、前にいる彼女の顔を見ようとする、だが、とある事情によりその下で視線を止めた。オレの視線と無言を疑問に思ったのか訊いて来る。
「どうかしましたか? はやく立ちなさい」
「実はな。今気づいたんだが、土下座ってすげえな」
彼女の見にまとう白いロングコートは、どうやらワンピースと同じような物らしい。暖かい気候である。服の上から羽織るものではないらしい。
ゆえに。下から彼女を見上げるこの体勢だと、見える。それは、何かと言えば。
「兵士の鏡だな。──パンツまで白いとは」
女らしく、足の先にある太ももは擦り合わせてある。内股だ。そこの先には、ばっちりと彼女が身につけている白い布が見えた。左右にある紐までも、である。そうかぁ、異世界だと紐パンが一般的なのだろうか。
これぞ、世界観……!
あまりの衝撃にそう口に出すと、冷ややかな目で見られた。
「改めて訂正しますが、貴方は最低ですね」
冷たい視線をくれるだけで、特にアクションは起こさない。プラトーンのポーズで避ける準備はしていたが、必要なさそうだ。
「蹴り上げからの、踵落としでツーコンボ喰らうと思ったが……ちょっと、恥ずかしいとか思ったりしないんだな、あんた」
「随分具体的な予想をお持ちのようで。冷静に見えるのは経験者だからですか。繰り返し言いますが、最低ですね」
い、いや妹だよ?
ノーカウント、ノーカウント!
という事をいうわけにはいかない。心象余計に悪くするだけだし。すると、冷ややかな視線を向けたまま、それに、とハンナは続けた。
「ここで魔術を発動させたら問題になりますから。それに貴方に見られた所で何も起きませんし。犬や猫に見られた所で、恥ずかしがる人などいませんから。──というか、いつまで見ているのですか、顔をあげなさい」
「いや、恥ずかしくないなら見てもいいんじゃないかなと思いまして、ええ。出来ればもうちょい太ももを開いてくれると──」
ここぞとばかりに調子に乗ると、ハンナが先ほどから無言である事に気付く。恐る恐る尋ねてみた。
「……実はなんでもないように見えて怒ってる?」
「いえ、城内じゃなかったら『ニライカナイ』で消滅させますが。便利なんですよ、あれ。発動させた相手の死体すら残りませんから」
「すいまっせんでしたぁ──!」
深々と再び土下座をした。
「日本においては土下座は謝罪の最終手段と聞きますけれど、ここまで乱発すると薄っぺらく感じますね。勉強になります」
実際に、オレは何となくだが、ハンナの言葉に違和感を感じていた。何かがひっかかる。しかし、弁明をする方が先だと割り切った。
「いや、オレは真面目にやってますってば」
また顔をあげる。
今度は、少し距離を開けられていた。ハンナもどうやら学習したのだろう。ちっ……!
「なんだか、邪念のような物を感じるのですが、私の気のせいでしょうか」
「誠心誠意謝っているじゃないっすか。ホラ! ホラ!」
「土下座をすればいいという物ではないと思いますが……先程から思っていましたが、プライドはないのですか?」
「女を怒らせたら、自分に非がない時を除いてひたすら謝れと親父からの教訓だ。マジ、しょっちゅう母ちゃんに土下座してたからなオレの親父。ついには親父から土下座の指導を受けるまであった。……小学校に上がる前の子供に何教えてんだか本当」
だが、それがこうして生きているのだから、その教育は正しいものであったと言わざるを得ない。
得心いったようにハンナは頷く。
「貴方の奇行は父親譲りですか。成る程」
「一概に違うとは言えんからたち悪いな、オイ。母ちゃん曰く、似ているらしいけど、親父はもう死んでるから、確かめようがない訳で」
「そう、ですか」
言うと、彼女は驚き、それから眉を下げた。同情してくれているのだろうか。
「それは……ご愁傷様です」
「いや、もう十年前の事だし。過ぎた事を気にしててもしゃーないし、一々悲しんでも戻ってくるわけじゃないっすから。同情されるのは──好きじゃないんで」
そう、親父が帰って来るわけでもない。
しかも、父親らしい事をしてもらった記憶もオレにはなかったのだ。ちょっと皮肉る言葉が口をついて出た。
「当時としても、ちょっと寂しいくらいで、泣くほどじゃなかったしなぁ。仕事終わって帰って来たら、酒飲んで寝てることしか記憶になかったような親父だったしな……」
「お父様の事は、お嫌いなんですか?」
その言葉に少し考えた。
どうなんだろう、と自問自答する。オレは、親父に対してどのような思いを抱いていたのだろうかと。
「どうなんだろう……嫌いではなかったとは思うけれど、何分どんな人だったとか、あまり覚えていないから」
ただ、これだけは言えた。
「それだけに、親父の事をもっと知りたかったな、とは、息子として思う」
少しの間があり、少し目を細めてハンナは言う。
「そうですね、いなくなってからでは、どうもしようもありませんから。いつだって、大切な物は失ってからその価値に気付くものです」
その言葉には共感出来た。同時に、彼女もオレと同じような経験をしているのではないかとも思う。他人と、ましてやオレとあまり関わろうとしなかった、彼女が、この事については話してくれた。興味を抱いてくれた。
その事に、少し親近感を覚えた。
「というか、早く立って下さい。待たせているのですから」
「それが……さっきから正座しているせいか、足が痺れてまして。手ぇ貸してくれませんか?」
「貴方という人は……全く、仕方がないですね。それでは匍匐前進で着いて来て下さい」
「鬼畜過ぎるよ、この女!」
少し仲良くなったと思ったが、それは勘違いだったようだ。さっさと先に行く彼女に、オレは素直に腕だけで着いていくのだった。