わだいがない 4
白石君の場合
友人が、学生時代に言っていた。
「恋はつかまえるもんだ、降ってくるもんじゃねぇ!てめえは別だ!」
そんな昔のセリフを思い出して、僕はこっそりため息をつく。
「なんで、僕は別なんだよ!」と、そのときはかみついた。
「お前はなにもしなくても、モテモテだろうが!」
その言葉は間違ってはいなかったが、30代手前になった自分が考える現実は「モテても、自分が好きな相手に好かれるかどうかは別」が正解である。
中学時代、好きでもない女性からは好かれ、好きだった女性とつきあったものの、最終的に「優しくない」と振られた。
高校時代、「ほかに好きな人がいるの」と断られた。ほかのやっとつきあった彼女には、浮気をされた。
大学時代、つきあった彼女は「バイト先でほかに相手ができた」と振られ、もう一人は、「就職で田舎に帰る」と言われ、この間、結婚式の写真がはがきで届いた。
就職先で好きになった女性の一人目には、もうすでに彼氏がいた。好きでもない年上の女性には好かれているが、一目ぼれで好きになった二人目は、話したこともない。
「おはようございまーーーす。」
「おはようございます。」
営業用のにこやかな笑顔を朝から頑張ってふりまいている。この笑顔使用時間をできるだけ少なくしたいとの思いからか、無意識に会社にはギリギリに到着している。
洋服もできるだけ無難なものにして、靴も歩きやすいものを、カバンもファッション性ではなく、持ち運びやすさを重視して、だんだんサラリーマンになるとはこういうことなのかと思ってくる。
「おはようございますー。」
まったく名前の知らない顔見知りだけの人物たちが大量に自分に声をかけてくる。が、誰ですか?とも聞けずに、微笑みながら挨拶をするのである。こればっかりは、しかたがない。僕の営業相手は、200人以上いるフロア全員なのだから。
もちろん、覚えている人もいる。なんども、なんども足を通っていれば、自然と覚える顔と名前もある。営業に来る前からの知り合いもいる。そんなに仲良くなる前に、営業に来てしまったせいか、敬語のまましゃべる相手たちではあるけれど。
そんなフロアの中に、彼女がいる。もちろん顔も名前も憶えているのだが、営業相手ではないからか、とにかく声をかけられない。逆に、話したこともない相手から急に名前を呼ばれたら、ただの怪しい人である。
どうにかならないものかと思っているうちに、会社の閉鎖が決まった。
「閉鎖?」
「ああ。」
「な、なんで。」
衝撃のあまり、敬語も飛んだ。
「どうやら、予算の問題らしい。このセンターが継続できないんだ。」
「でも、ここの人たちは?」
「できるひとは、次の派遣先を紹介するが、それ以外は全員解雇になる。明日、全員に発表する。」
「解雇……。」
「あ、お前は、移動な。」
「そうなんですか?」
「ああ、まだ正式に決まったわけじゃないが、ここに残るなら、移動だ。手始めに今度は南センターに行くからな。」
「そう、ですか……。」
そうは言われたものの、心は上の空だった。彼女はどうするのだろう。と、いうかどうなるのだろうと、そればかり考えていた。
「皆様の雇用にかかわる重大な---------」
発表が行われたが、自分も出席しろと言われて、並んだ場所から彼女の様子は見えなかった。その日の夕方、混乱をする人は少なくなく、営業はひたすらスケジュールの調整に追われていた。結局、この日。彼女の様子はわからなかった。
翌日。
彼女は、いつも通りに出勤していた。彼女だけではなく、ほとんどのフロア内のメンバーがいつもと変わらないように、出勤をしていた。彼女はどうするのだろう。
しかし、まったく話したことがないのに、「閉鎖ですね、今後、どうします?」と一体、どんな心臓の持ち主なら聞けるというのか。いや、閉鎖したら、会えなくなるのだから、いまのうちに恥はかき捨てで話すべきだろうか。
それとも、このまま縁がなかったということであきらめるべきだろうか。
しかも、自分も同じように解雇なら、「僕も解雇なんでー。」とか話題がありそうなものの、移動ということでは、話も始まらない。いや、そんなことのために解雇されたいわけではないのだが。
「あの。」
「はい?」
彼女が目の前にいた。わざわざ前の人のスケジュール調整が終わってから話しかけてきたようだ。急に心臓がバクバク言い出した。顔にそれを出さないように必死だ。ぐるぐる頭をフル回転させる。
「すみませんが、5階のスケジュールの紙の更新はいつになりますか?」
まともに、目も見られずに、慌てて、書類を引っ張り出した。
「えーと、土曜に更新で、火曜に張り出されます。」
「火曜……ですか。」
そっと彼女のほうを見ると、ちょっと困っているようだ。
「あの、確認したい日付がありましたら、確認してお知らせしますが?」
「いえ、お知らせはいりません。13日の変更だけ確認をお願いします。火曜の朝から、南のセンターのほうへ行くので。」
「ああ、そうですか。じゃ、お名前をいただけますか?」
もちろん名前は知っている。漢字も憶えている。しかし、ほとんど話したことがないのに、「――さんですよね?」と、フルネームで言える自信はない。というか、そんな自信が欲しい。
「――です。」彼女が言う。
「下の名前もお願いします。」
僕の記憶の中で、同性の人はいない。それでも、彼女の声が聞きたかった。
「――です。」
「漢字はこれでいいですか?」
「はい。」
「じゃ、確認しておきます。」
僕は、少しでも心象を良くしようと最大級のスマイルを作った。が、彼女は、「お願いします。」と、頭を下げていた。
そして、そのまま去って行ってしまった。僕はため息をついた。
お知らせしたかった。ついでにもうちょっと声が聴きたかったなぁ。
しかし、このとき、僕は同時に気が付いた。
南のセンターにいくってことはしばらくいないってことじゃないか!
と、いうことに。とくに、話したことのない相手である。いなくても、営業には支障がない。生活にもとくになにか変化が起きるわけではない。ただ、自分の心がちょっとだけさみしいだけだ。救いは、今回の南センターでの研修日程が少ないことくらいか。
ん? ……南センター?
慌てて、自分のスケジュール手帳を引っ張り出した!
自分も行く! 自分も南のセンターに行くのだ!
このときの気持ちを表現するのなら、手も足も心が温かく、頭に花が咲き、高揚し、幸せとはこういうものではないか、という象徴的な気分だった。
話しかけよう!たくさん話しかけよう!お知らせもいらないって言っていたけれど、伝えられる。ああ、楽しみだ!楽しみだ!うれしいぞ!
だが、三日後。その幸せな思いは、萎むどころではなく、真冬の湖の突き落とされたかのような痛みと寒さと悲しみに襲われた。
彼女が。僕が見つめているように、ほかの社員を見つめていた。僕が彼女を見つめるように。動けば、目で追いかけて。好きな気持ちを前面に出して、見つめている。失恋だ。いや、付き合っているわけではないようだが、彼女を彼以上に振り向かせられるだけの手がないのだ。
挨拶もしないし、話したこともほとんどないし、友人でさえもない自分は、恋愛相談にも乗れず、アピールする手立てがない。恋愛は、惚れた方が負けなのだと知っている。だが、チャンスがなければ、ただの一人相撲でなにもなかったことと同じことなのだ。
はぁ。明日から、休みたい。
そんな願いが許されるはずもなく、先輩からは毎日の出勤が命じられている。仕事に確実に影響が出そうだ。そして、惚れこんだ相手とすぐに結婚できた先輩には、この湖の底で漂っているようなこの気持ちはわかってもらえないに違いない。
好きだ。でも、好きにはなってもらいない相手だ。嫌いだ。自分のほうを見てくれないとは。好きだ。笑顔が好きだ。彼は彼女に振り向くだろうか。振り向かなかったら、慰めて、自分を……見てくれないだろうな。好きだ。まだ好きだ。ゆっくり、ゆっくり、湖から出よう。まだ、まだ湖の底だ。ああ、笑顔がやっぱり好きだ。