寄せてはかえし
2ch「SF新人賞総合スレ」にて開催された「第8回SS祭り」の参加作品です。
天文講座は毎回子供達が良い質問をする。今回の鋭い質問。
「宇宙の果てのその向こうはどうなってるの?」
講師の先生(研究者)の答えは「考えちゃいけない」。
うひょー。考えるときっと黒服サングラスの男たちが
やってくるのだ。
※ 2011年6月11日
藤あさや(@touasa)氏のツイートより
「寄せてはかえし」2011年8月28日 のばな
パパが死んだ。
ママは、ジュニアとリトルに物心が付くよりずっと前に死んでいたから、二人が人の死を目にするのはこれが最初だった。
「パパが目を覚まさなくなって、息もしていなかったら、それは死んだってことだ。そうしたら土に埋めてくれ」
生前のパパがそう言っていたのを思い出し、二人はパパが死んだのだという事を理解した。
二人ともしばらくは事態をよく飲み込めなかったが、もう二度と話したり、遊んだりできないのだとわかって、やがてリトルが泣き始めた。
ジュニアは言いつけを思い出し、パパを埋める穴を掘り始めた。土は柔らかかったけれど、小さなジュニアがパパの全身が入るだけの穴を掘るのは大変だった。リトルはいつまでも泣き止まず、あまり手助けにならなかった。
汗まみれになってなんとか穴を掘り、二人でパパの体を運んで埋めた。土を被せてしまうと、リトルが大きな石を持ってきて埋め跡の上に置いた。
「だって、こうしないとパパの居場所がわからなくなるじゃない」
ジュニアにはリトルの言うことがよく理解できなかった。しばらくすればこの下のパパの体は分解されて消えてしまうのだし、仮に消えなかったところで、もう何かを話したり教えたりしてはくれないのだ。
「他の棚へ行こう」
ジュニアが言うと、リトルはきょとんとした。
「いつ戻るの?」
それが最初の返答だった。生まれ育った棚の外の場所を見てみたい一心だったジュニアは言葉に詰まった。
他の棚へ行くことは、パパに禁止されていた。パパの体が弱っていて遠出ができなかったし、子供たちだけで知らない場所へ行き、迷って戻れなくなったら大変だというのが理由だった。
「外へ出るのは充分に大きくなってからだ。その頃には、パパはもういないかも知れないが」
パパはそう言っていた。どの道これからはすべてを自分たちだけで決めないといけないのだし、自分では充分に大きくなったと思っていたから、ジュニアは今が外へ出るときだと判断していた。
「戻るかどうかはわからない。他の棚でも食べ物と水が見つかったら、もう戻らなくていいんじゃないか」
そう言うとリトルは険しい目をした。
「戻れないんだったら、わたし行かない」
妹の説得に失敗したジュニアは、日暮れまでに戻るという条件で、単身で隣接する棚の様子見をすることにした。
棚、つまりこの世界の空中に浮いている地面は、互いに黄色い巨大な棒で繋がっていた。棒の上には土が積もり、木や草も生えて、その「橋」を通れば隣の棚へ渡ることができた。棚はジュニアたちの生まれた棚の周囲にも、頭上にも、また棚の端から見下ろした下にも無数に彼方まで連なって見えた。
棚にはその表面に幾つもの「光窓」と呼ばれる何か硬い透明な物質でできた部分があって、それが明るい側から入った光を反対側へ通していた。それで、無数に連なる棚に遮られることなく、昼間はどこか遠くから発せられる光が届いていた。
棚を渡って先の先まで行くと何があるのか。あるいは一番上まで、下まで行くと何があるのか。
自分たちの他に人はいるのか。
そんなことを以前にパパに聞いたが、はっきりとは答えてくれなかった。
「自分で探して、見つけることだな」
だからジュニアは、旅立ちの日が来ることを心待ちにしていた。
一つだけ、パパが教えてくれたことは、「海」の存在だった。
この世界をずっと下に下りていくと、信じられないほど広い水面に出くわす。その様子を想像しただけでジュニアは興奮した。一刻も早くその光景を目にしたかった。
探索には乗り気でなかったのに、いざ出発の当日となると、リトルは食べ物やミルクの木から集めたミルクを袋に詰めて準備をしてくれた。
「気をつけて、必ず帰ってきてね」
見守るリトルを背にして、ジュニアは隣の棚へ渡った。目新しい景色に心ときめかせながら進んでいくと、いくらも行かないうちに、自分たちの棚と同じように樹上や地面に食べられる実や作物がなっているのを見つけた。これなら最低限の荷物だけでどこまでも旅できそうだ、とジュニアは思った。
戻る道がわからなくならないよう、「紙の木」の表皮をはがして、通ってきた道を書き付けた。そのうちに、同じように棚同士の繋がりも書き留めておけば、どれだけ遠くへ行っても最初の棚へ戻れるということに気付いた。
その日一日で、ジュニアはいくつもの印象的な景観に出会った。棚の端の断崖が大きく内陸まで窪んで、下方の棚の連なりが眼下に見通せる場所。遥か上空の棚から水が流れ落ちてくる大瀑布。戻ったらリトルに話して、連れてきて見させよう。こんなものが他にも見られるとしたら、彼女も考えを変えて一緒に旅をしてくれるかもしれない。
戻って話すと、目論見の通り、リトルはまだ見ぬ光景の話に目を輝かせ、また、地図を作れば帰ってこられるということにも納得した。翌日から二人は、隣接する棚の探索を始めた。目新しい綺麗な景観にいくつも出合って、リトルはジュニア以上にはしゃいだ。どこまで行っても、食べ物は簡単に見つけられた。
元の棚へ戻ることに執着するリトルが地図の記録を買って出てくれたので、ジュニアは探索に集中できるようになった。
隣接する棚を一通り巡った頃には、リトルも「遠出」に賛成してくれた。
「遠出」とは、世界の果てまで到達するということである。一つの方向へ向けて棚を渡り続けたら、最後にはどこへ、あるいは何に辿りつくのか。
パパの待つ棚に戻れるのならとリトルが賛成して、旅立ちは決定した。特に準備もいらなかった。翌日から二人は、ひたすら棚を歩き続けた。気が急けば歩き続け、疲れたり気に入った場所があったりすれば、好きなだけ留まっていられた。
日ごとに触れる目新しい景色に刺激されて、リトルはすっかり上機嫌になっていた。夜になると、これまで書き記した地図を並べて悦に入っていた。
無数の棚を渡り、その地図の枚数が増え、リトルのかつぐ袋が膨れ上がった頃、二人は世界の果てに辿りついた。
その数日前から、二人は様子が変わったことに気付いていた。
空気に霞んで見えなくなるまで連なっていた前方の棚の数が減っていた。白く霞んだ空間から、その「壁」が近づいているのがわかった。
辿り着いて見ると、それはとてつもない巨大な壁だった。見上げる遥か上方まで、見下ろす限りの眼下まで、また左右にも霞んで見えなくなるまで続く、光を発する平面が、二人の行く手を遮っていた。
昼間のこの世界を照らす光は、この壁から発しているのだった。その壁面からは、二人のいる棚に繋がる棒が突き出していた。
これまでの「橋」と同じように渡っていくと、壁の目の前まで行くことができた。
壁面には何の手がかりも無く、完全に平らだった。大きな石で殴りつけてみたが、傷もつかなかった。
長旅ではあったが、思ったよりはあっけなく終点に辿り着いて、二人は拍子抜けしていた。
壁の直前の棚で数日をだらだら過ごしてから、ジュニアは上へ行くことを決めた。
どのようなものかは分からないが、下へ行くと「海」があることは聞いていたから、何もわからない上へ行きたいと思った。
左右へ回っていく道もあったが、どこまでも同じ壁が続く可能性が大きいと思った。
上方へ繋がる傾斜した橋を幾つも渡るうちに、リトルが不平を言うようになった。あまり体力のない彼女には、登攀は苦行だった。
なだめすかし、休憩を増やしてなんとか登っていくと、人の住んでいた跡に出くわした。
遥か昔に捨てられたようで、今では人がいる気配もなかったが、家具の棚にたくさん並べられた器のようなものを目にしてリトルが色めきたった。それらをいじり始めたリトルは、根が生えたようになって、そこから動かなくなった。
ジュニアがいくら言っても無駄だった。彼は、この先を一人で行くことを考えざるを得なかった。
ジュニアを一人で行かせることにも、二人で先へ進むことにもリトルは苦渋を示したが、結局は前者に納得した。
「何があるかわかったら、すぐに折り返して戻ってくること」
そう約束させられて、ジュニアは出発した。
寂しくないと言ったら嘘になるが、移動できることの方が嬉しかった。
すっかりリトル任せになっていた地図を自分でつけるのは面倒だったが、身軽になったのは助かった。リトルが坂を上るのはずいぶんと遅かったのだ。
それでも、これまで見たことのない新鮮な景色に出会うと、後でリトルを連れてきて見せようと思って地図に記録した。何日も逗留したくなるような場所を幾つも見つけながら、その楽しみはとっておく事にして、ジュニアは先を目指した。
平坦路と違い、登りには時間がかかった。簡単には進めない場所も増えてきた。困難にぶつかるたびに、リトルの顔を思い出した。早く天井を見て、戻ってリトルに会うのだと思い、自らを励ました。ずっと一緒だったから、離れていることが辛いとは想像していなかった。
上方の棚へ繋がる傾斜した橋を懸命に渡っている途中で、ジュニアは妙なものを見つけた。上方にある棚の一つで、その側面に大きな虫のようなものが止まっていた。生まれて初めて、自分たちより大きな動くものを見たので、ジュニアは興奮した。
それはお椀のような丸い甲羅を背負い、何本も生えた足で棚につかまり何かをしているようだった。
「虫」はジュニアに気付いていないのか、それとも気付いていても関心がないのか、自分の作業に没頭し続けていた。
最初ジュニアは、「虫」が棚の側面を食べているのかと思った。その棚の側面には大きく削れたような跡があり、虫はその跡の端の部分にいたからだ。しかし、橋を上りながら観察してみると、実際はその逆だった。虫は削り跡の方へと向かって移動しており、その動いた跡は塞がれたようになっていた。虫は、棚の欠落して損なわれた部分を補修していたのだった。
この世界で時間が経って損なわれた地形は彼らが直しているのだろう、とジュニアは考えた。
虫のいる場所を過ぎて、ジュニアは登り続けた。
登っても登っても先が見えず、いい加減にして今回は引き返そうかと思いだした頃、ようやく異変があった。
上方に、何か巨大な黒いものが見えてきた。同時に、世界が狭まってきていることがわかった。
水平方向に並ぶ棚の数が減っているのだ。今や、すべての方向に壁が見えた。壁は、上へ行くほど狭まっているようだった。
また、登るにつれ熱気が感じられるようになっていたが、ここへ来て急に肌寒さを感じるようになっていた。
数日後、ジュニアは、世界の一番上の棚に立っていた。
白い霧が立ち込めていた。その霧をすかして、頭上に圧し掛かるように近く、見渡す限り広がる黒い天井があった。そのそこかしこから、瀑布となって水が流れ落ちていた。
棚から斜めに延びる橋の一つを辿り、ジュニアはその天井のすぐそばまで登った。実際に手が触れられる距離まで、近づくことができた。触ってみると天井の黒い材質は硬く、冷たかった。その表面をびっしりと水滴が覆っていて、その微々たる流れが集中していき、下方へ突き出した突起状の場所から流れ落ちているのだ。
ジュニアは、この世界の水源に辿り着いたのだった。
何日でも眺めていたいような壮大な光景だったが、リトルとの約束があったのでジュニアは帰途に着いた。
下りは格段に楽になったとは言え、一日や二日で済まない距離である。
何日か降りた頃、ジュニアは、夜になると下方に小さな光の点が見えることに気付いた。幾多の光窓を通して、その数だけ光の点が見えているのだ。
リトルが燃やしている火に違いなかった。
遥か距離を置いて、それでも人の存在を感じられてジュニアの胸は熱くなった。
彼は急いで、夜ごとに見えるリトルの火を目指し、橋を下った。
棚まで辿り着き、逗留地を目指す途中の森で、思いがけずジュニアはリトルと出合った。
「……ただいま」
なんとなく気まずく、照れ笑いしながらジュニアが言うと、驚いていた顔をくしゃくしゃにしてリトルが飛びついてきた。
思いがけない体当たりでバランスを失ったジュニアは、リトルを抱いて尻餅をついた。
「ばか馬鹿、遅いよ」
「ごめん」
謝りながらジュニアは、こうして抱き合うのも、小さな頃以来ずいぶん久しぶりだということに気付いた。
二人で逗留地に戻る途中、ジュニアは変わった匂いがすることに気付いた。
「わかった?」
笑いながら、リトルはジュニアを卓へ案内した。
ジュニアが天井を目指している間に、リトルは自力で「料理」を開発していた。
この場所に放置されていた器のいくつかは、持ち手があって食材を火にかけるための調理具だった。
リトルは食材の切り方や加熱の仕方を考えて、器に盛り、料理の形にすることを覚えていた。
リトルが楽しげに勧める料理は確かにおいしかったが、木や土の上になっているものがそのままでも食べられることを考えると、こんな手間をかけなくても、とジュニアは内心思わないでもなかった。
それでも、人が自分のために食べるものを用意してくれるのは感じがよかった。しばらく離れていたせいか、そんなリトルの姿はずいぶん印象が違って見えた。
食事をしながらジュニアはリトルに、自分が見てきたこと、巨大な虫や天井の水源の話をした。
「いつか一緒に見に行こう」
そう言うジュニアに、リトルは微笑んであいまいに頷いた。
「で、次は海を見に行きたいんだ。今度は、二人で一緒に」
今度の提案には、リトルも納得してくれた。下りの行程は負担が少ないし、二人一緒なら戻りは急ぐ必要もない。
懸念と言えば、リトルが絶対必要と言って譲らなかった食器と調理器が、二人で分けてもそれなりにかさばったということくらいだった。
下りの道すがら、リトルはジュニアに問いかけた。
「あの壁の向こうには、何があるのかな」
答えようもなかった。壁を破る方法はなさそうだし、抜け道も見当たらない。
「この世界のどこかには、抜け道があるのかも」
リトルはそう言ったが、壁のすべてを調べるためにどれだけの距離を旅しなければならないかを考えると、ジュニアはぞっとした。
時間はあるのだし、いつかは探し出せるのだろうか。そうだとしても一大事業になりそうだ。
下方への旅は特に困難もなく続いた。
ある夜にジュニアは、単独行の途中でリトルの火を見たことを思い出して言った。
「この世界には他に人はいなさそうだ。誰かが夜に火を燃やせば、遠くからでもわかるから」
注意して見ても、上方に光を出すものは認められなかった。光窓や棚の外縁から見下ろしても同じだった。
その話を聞いてリトルは落胆したようだった。壁の向こうが気になるのも、自分たち以外の人間に会いたかったからだろうか。
一緒にいるのが自分だけでは不満なんだろうか、などとジュニアは思った。
下り続けるうちに、下方の棚の連なりのさらに下から黒い陰が見えるようになってきた。
日を追って、それははっきりと見えるようになった。すべての棚のその下側に、真っ黒なとてつもなく広い平面があるのだ。
坂を下りる二人の足取りが知らずのうちに速まっていた。
壁がやはり狭まってきており、遠方の空気に霞みながらも巨大な円形の黒い平面が認められた。
「海」の直前の棚まで来ると、その表面に微かに波立つ様子が見て取れ、それが水面であるとわかった。
その棚から続く傾斜した橋を降りると、そこは水面とほぼ同じ高さの棚で、一端は壁面と繋がりその反対側は緩やかに水面下へ潜っていた。そこは、いわゆる浜辺になっていた。
二人ははしゃぎ、浅瀬で水をかけ合い、沖まで泳ぎ、疲れると戻って波打ち際で並んで横たわった。
壁際の植生からは目新しい果実や野菜が採れ、リトルは張り切って新しい料理を考案した。
上方の棚から落ちる水を源流とした川があって、真水にも不自由しなかった。
夜になって、浜辺で火を焚くと、上方の棚にある無数の光窓に反射して満天に光の点が映った。
無限の広がりから繰り返し打ち寄せる波打ち際で、二人で並んで座っていると、何かおごそかな気持ちに包まれるのを感じた。
ジュニアは、傍らのリトルに自分が強く惹かれているのを認めざるを得なかった。
単独行から戻って再会した頃から、リトルは以前とは違って見えるようになっていた。
顔は花が咲いたように綺麗になっていたし、ジュニアとは違うその体つき、柔らかい曲線のなす造型、それに胸の膨らみ。
泳ぐために裸になっていた今日に至っては、それらに注視せずにいるのが難しくなっていた。
そんなジュニア自身も、視線に気がついてそちらを見ると、リトルがあわてて目を逸らすというようなことが何度もあった。
すぐ隣に座っているリトルを抱きしめたい。そんな衝動が押さえがたいほど膨らんだそのとき、二人の眼前の水面が持ち上がって割れた。
「きゃあっ」
何か巨大なものがすぐ近くに浮かび上がってきたのだと分かって、思わず後ずさりしたジュニアに、リトルの方から抱きついてきた。
「何、あれ」
未知の存在への恐怖と、密着したリトルの感触の心地よさの板ばさみで動けなかったジュニアは、しばらくその巨体を見つめてから気付いた。
その丸い甲羅は、あの棚の側面を修繕していた虫のものに違いなかった。
その虫の特別大きな奴が、海中から浮上してきたのだ。
虫はしばらく二人を見ていたようだったが、やがて満足したのか、少し沖の側へ移動してそこで止まった。
「話しただろ。棚を直していた虫だよ」
「悪いことはしないの?」
「人をとって食うようじゃなかったな」
いきなり低く響く音がして、二人はまたすくみ上がった。
やがて、それが目の前の虫から聞こえてくることがわかった。
何のためかはわからないが、水面に浮かびながら、吼えるような声を発しているのだ。
リトルが、いきなり立ち上がった。波打ち際まで走ったかと思うと、海中へ飛び込んだ。
「おい、何を」
あわててジュニアも立ち上がった。
リトルは、以前からこうだった。普段は臆病な癖に、何かに興味を持つと驚くような大胆さを見せる。
そのまま虫のところまで泳ぐと、あろうことかその甲羅によじ登った。
虫の方は、知らぬ顔で変わらず声を出し続けるのみだった。
上まで登ってしまうと、リトルは笑顔で手を振ってきた。
「ったく、何考えてんだか」
仕方なくジュニアも泳ぎ、おっかなびっくりで虫の上に上る。
リトルが伸ばしてきた手を取り、並んで頂上に立った。
「おい、危ないだろ。何かされたらどうするんだ」
「いいから、いいから」
楽しげに言って、その場に座った。ジュニアも倣う。
「いい声だよね」
甲羅から振動が伝わって感じられた。言われてみれば、その低音は聞いていると落ち着くような気がする。
「うわっ」
ジュニアは驚いて声をあげた。虫の周囲に、一つ、また一つと、より小型の仲間が浮かび上がってきた。
リトルがおかしそうに見ているのに気付き、すねた顔を逸らす。
唐突に、リトルがハミングを始めた。虫の歌に合わせて、声を出していた。
ジュニアはただあっけに取られていた。
リトルがその音程を変えると、驚いたことに、虫たちが合わせてきた。
原始的なハーモニーが、時を忘れて流れ続けた。二人がこの世界で聞く初めての音楽が、その時奏でられていた。
二人が岸へ戻ると、それを見届けるように待ってから、虫たちが海中へ姿を消した。
「危ないだろ、無茶すんなよ」
ジュニアがたしなめると、リトルは声を立てて笑った。
ジュニアはリトルの体を抱きしめた。笑い声が止んだ。つかの間、間近で見つめ合った。
それが自然だというように吸い寄せられて、二人は唇を重ねた。
砂浜でジュニアに押し倒されながら、リトルはかすれ声で言った。
「ジュニア、わたし、怖いよ」
夜が明けた。ジュニアはすがすがしい気持ちで目覚めを迎えた。
傍らで、リトルも目を覚ましていることに気付いた。
「おはよう」
リトルは、寝乱れた髪の下から、恥ずかしげな笑顔で返した。
「おはよう」
たまらずに抱きしめてキスをする。
それからしばらくは、楽園の日々が続いた。
好きなだけ泳ぎ、疲れたら寝る。リトルの振舞う料理を味わう。心ゆくまで愛し合い、虫たちの来た夜には、彼らとリトルの歌に聞きほれる。
しかしある日、リトルが神妙な顔をして言った。
「パパの所に戻ろう」
二人がこうなったことを報告しなきゃ。そう言われているような気がして、ジュニアも頷いていた。
荷物をまとめて、二人は海を後にした。
リトルに負担をかけないよう、登りのペースは低く抑えた。
道中で小休止しながら、ジュニアはリトルに尋ねた。
「世界の外側に何があるか、気になる?」
「ちょっと、ね。目の前の壁の向こう側に何かあるんだったら、知りたいでしょ」
苦しげに息をしながら、リトルは答えた。
以前にも増して、最近の彼女は運動が苦手になっているようだった。
パパを埋めた最初の棚へ戻り、ジュニアはこれからのことを考えた。
これまで見つけた綺麗な景色を、リトルを連れて行って見せたかった。あるいは、もっと他の場所を探したかった。
それとも、彼女が知りたがっている世界の外側を目指して、壁の探索をするか。
しかし、もっと大きな懸念は、リトルの体調がすぐれないことだった。
この棚へ戻ってからリトルは具合が悪くて、立っていられずに座り込むことが何度もあった。
最近は、食べたものを戻してしまうことが多かった。
ジュニアには背中をさすってやることくらいしか出来なかったが、そんな彼女を一人置いて旅に出られるわけもなかった。
しばらくしてリトルの具合が落ち着いてきたころ、彼女の腹部が膨らみ始めた。
「赤ちゃん、できたみたい」
言われて、ジュニアは狼狽した。当のリトルの方が、かえって落ち着いていた。
「大丈夫だよ。ママだって、ちゃんとわたしたちを産んだんだから」
それでも、そのママは長生きできなかったのだ。ジュニアは心配したが、それを本人の前で言うことはできなかった。
日が経つにつれリトルの腹はどんどん膨らんで、やがて破水する日を迎えた。
苦痛に喘ぎ呻くリトルの手をジュニアは握り、汗を拭いてやり、無事を祈り――それだけが彼にできることだった。
リトルの小さな手にものすごい力で握りしめられ、ジュニアは指が折れるかと思った。それでも握った手は離さなかった。
遂に頭を出した子供を、彼は恐る恐る引き出した。元気に産声をあげた赤ん坊の臍の緒をナイフで切ると、もう一人の頭が出てきた。
先に生まれたのが女の子で、後の方が男の子だった。二人とも、元気な声で泣いていた。
リトルの方は、目に見えて容態が悪かった。顔色は真っ青で、血が止まらなかった。
ジュニアは出血を止めようとして、リトルのその部分に布を押しつけ、手を握ってやり、時折汗を拭ってやり、後は彼女の具合がよくなるようにとひたすら祈った。
リトルは、熱に浮かされてうわ言を言い続けた。
ほとんどの言葉は聞き取れなかったが、たまに意味が通じる言葉が聞こえると、ジュニアはすかさず返事をした。それがリトルに通じている様子は認められなかった。
突如として、リトルがはっきりした言葉を発した。
「気にしないでね」
「うん」とジュニアは答えたが、どういう意味なのかはよくわからなかった。
それきりしばらく黙っていたリトルが、再び唐突に言った。
「また、海に行きたいな」
泣きそうな顔で笑いながら、ジュニアは答えた。
「ああ、元気になったら行こう。それで、子供たちが大きくなったら、また泳ぎに行こう。あの連中を見たら喜ぶよ」
リトルが微笑んだような気がしたが、はっきりとはわからなかった。
またしばらくして、リトルは海へ行ったときのハミングを始めた。
口から漏れでるようなかすかな声は、しかしジュニアには美しく聞こえた。
夢見るようなその歌声は、穏やかで綺麗だった。リトルも、彼女が背にした夜の光景も綺麗だった。子供たちはすやすや眠っていた。その静謐の時間は、後になるまで、ジュニアの記憶の一コマとして特別な位置を占め続けることになった。
何もかもが綺麗で、ジュニアの頬をいつの間にか涙が伝っていた。歌声が途切れてしまった後も、彼は涙を流し続けた。
ジュニアはリトルを、パパの隣に埋めた。その体は小さくて、パパのときと比べると、埋葬は驚くほど簡単に済んだ。
ジュニア自身が成長したこともあっただろうが、それだけ彼女が苦しんでやせ細ったのだと思うと、彼は再び涙せずにはいられなかった。
ジュニアは、とびきり立派な石を探して、彼女を埋めた場所に置いた。
リトルを失くした悲しみは大きかったが、それでも彼は、子供たちの世話に忙殺された。
ミルクを取りにいき、暖めて飲ませる。下の世話をし、寝かせつける。
旅をしたい気持ちはあったが、子供たちを置いていけるわけもない。
それに、新しい景色を見つけたところでどうなるのだろう。
リトルに見せて、その喜ぶ顔を見られないのでは、あまり価値はないと思えた。
それよりも、彼女が命と引き換えに遺した子供たちを育て上げるほうがずっと重要だ。
しばらくして、ジュニアは困難と直面した。
子供たちが、ミルクをやっても泣き止まないのである。
考えて、これはもうミルクだけでは足りないのだろうと思った。固形の食事を与える時期になったのだ。
しかし、ジュニア自身が食べているようなものを小さく切っても、彼らは食べようとしなかった。
悩んだ末に思いつき、ジュニアは、リトルがやっていたことを思い出し、その真似をして食材を加熱した。
柔らかくなったそれらを潰して、冷ましてから与えると、子供たちは食べるようになった。
一安心して、ミルクと合わせてそれらを作り、子供たちに食べさせながら彼は思った。
リトルがあれだけ頑張って料理を作って、ジュニアにやり方を見せていなかったらどうなっただろう。
そこで気付いた。その腕に抱くことすら無かった子供たちのために、リトルはあんなに懸命に料理を作っていたのだ。
知らずのうちに、ジュニアの頬を涙が伝っていた。
「リトル、ありがとう」
彼女は、まだ生まれていない子供たちのために料理を作り、そしてその本人がいなくなってしまった今でも、その想いだけは生きて子供たちに糧を与えている。
そう考えると、リトルがまだ傍にいて、一緒に子供たちを育てているような気がした。
ジュニアは、子供たちが大きくなることだけに満足して、その世話だけで日々を過ごせるようになった。
彼の気持ちを知ってか知らずか、子供たちは無事に育っていった。
這い回り、立って歩き始め、言葉を覚えていくその度に、彼は無上の喜びに浸った。
もう、ジュニアという名は返上すべきだった。
ジュニアとリトルという名前を子供たちに譲り、彼はパパと自称した。
もちろん、死んだリトルのことはママと呼んだ。
子供たちが大きく丈夫に育つにつれ、引き換えるように彼の体は急に衰えていったが、それを悲しむこともなかった。
特に小さなリトルは活発で、じっとしていることができず、常に走ったり木に登ったりと忙しかった。
そんな彼女がある日、彼に言った。
「ねえパパ。この世界を、ずっと先まで行くとどうなるの? わたし、隣の棚まで行ってみたいな」
小さなジュニアがたしなめた。
「何言ってるんだよ。パパを置いて、そんな遠くまで行けるわけないだろ」
リトルはすねた顔をした。
おやおや、とパパになった彼は思った。
今度は、ジュニアの方が料理を始めるかも知れないぞ。
ある日彼は考えた。
この世界のどこかには、リトルが求めた外の世界への通路があるのかもしれない。
でも、それを見つけるには、壁をくまなく調べるしかないだろう。
自分には、もうそんな探索をするのは無理だ。
子供たちでも、生きている間にそれだけのことはできないだろう。
しかし、世代に渡って地図を引き継ぎ、未探査の箇所を調べるようにしたら。
子供たちのそのまた子供たちの、ずっと先の世代ではもしかしたら、通路を探し当てられるかもしれない。
そんなことを考えて、リトルと自分で作り貯めた地図を広げてみた。
長い間持ち歩いて古くなった紙は、ところどころが破れたりかすれたりして、読めなくなっていた。
あわてて書いたので、今読み直すとよくわからなくなっているところもあった。
彼は、地図をすべて破き、土に埋めた。
子供たちは、自分で自分の世界を探せばいい。そうやって見つけた世界こそが、彼ら自身の本当の世界だ。
それでも、海の存在だけは話して聞かせた。
「この世界をずっと下に下りていくと、信じられないほど広い水面に出くわす。いつかは二人で行ってみるといい。特にリトルは――いや、ジュニアかも知れないが、きっと楽しいだろう」
時は過ぎた。
彼の体はさらに衰え、歩くこともままならず、ほとんど寝そべって日々を送るようになっていた。
それでも、子供たちは元気に育ち、自分で食事も用意して、彼にも食べさせてくれていた。
だから、彼は嘆くことは無かった。
もっと旅を続けたかったと、思わないと言えば嘘になる。
しかしそれは、リトルを一人にする時間がもっと多くなったということだ。
自分は、この世界の綺麗な姿をもっと見つけて、リトルに見せてやりたかった。
そのことは満足するまでできたとは言えないが、それでもリトルの産んだ子供たちは無事に育てることができた。
もっと旅をしていたほうがよかったのか、そのことは今となってはわからない。
結果としての現状に満足するしかなかったし、子供たちを見てさえいれば不満の気持ちは消えた。
続けて、何度も繰り返し考えてきた「世界の外側」について思いを馳せた彼に、突然の閃きが訪れた。
世界の外には「何もない」がある。パパもママもそのまた両親も、みんな「何もない」から来た。小さなジュニアもリトルも、その子供たちも、みんな「何もない」に還っていく。
「何もない」にこそすべてがある。自分もこれから「何もない」に還って、自分のリトルと一緒になれるだろう。そう考えたら、ずいぶんと安らいだ気持ちになった。
ふと、はしゃいでいた子供たちの声が、耳から遠のいた。