第一話 ウェルザスの姫士
――夜だった。
馬車の荷台は、走るたびに木枠を軋ませ、乾いた藁の匂いと、汗と、恐怖のこもった息を狭い闇の中に溜めていた。数人のエルフの子供たちが、膝を抱えて座っている。
誰も声を出さなかった。出せば、その声までも値踏みされるような気がしていた。
やがて、外から足音が近づいた。
扉が少しだけ開き、細い月明かりが荷台の底を撫でる。子供たちはいっせいに身を竦ませた。
「ーー様、連れてきた子供はこちらに。」
光の向こうで、男が覗き込んだ。子供ではなく、荷の出来を確かめる目だった。
「ほお。珍しいエルフが手に入ったな。次のオークションが楽しみだ。」
扉は、すぐに閉まった。月明かりも男たちの気配も断たれ、荷台の中にはまた暗闇だけが戻ってくる。
奥に座っていた少年は、意識も虚にその一部始終をただ見ていた。
泣く力も、怒る力も、もうどこかへ置いてきてしまったようだった。
――ウェルザス領、城下町エルム。
翌日、街は賑わっていた。城壁に囲まれた大通りには、布を広げる商人、焼き菓子を売る女、
馬を曳く御者、異種の旅人たちが入り混じり、石畳の上を明るいざわめきが流れていた。
小さな国の城下町にしては、人の波が厚い。
酒場の扉が開くたび、外の光と一緒に香辛料と麦酒の匂いが揺れ込んだ。
窓際の席に腰を下ろした旅人は、木杯を手にしながら、まだ信じられないというように外の通りを見ていた。
「エルムはそんなに大きくない街だと思っていたけど、人多いな。」
注文を運んできた女性エルフの店員が、慣れた手つきで皿を置いた。
耳にかかった髪を指で払う仕草には、ここで暮らす者の気安さがあった。
「いつもはこんなに多くないんだけど、新しい神官様が街まで来るんですって」
「…へえ、エルフと共生してるって本当なんだな。異種も暮らしてるし、珍しい国だな。」
「あはは!ウェルザス国王の亡くなった王妃様はエルフなのよ!旅の人には珍しいかもね。」
店員は微笑みながら、窓の外へ目をやった。声をひそめるほどの秘密ではないのに、少し得意げだった。
「運が良ければ、もっと珍しいものが見れるかもね。」
「多分、ウェルザスでしか見られないわよ。」
「?」
「何か名物の出し物でもあるのか?」
「出しもの…というか、あ!」
女店員の目が、通りの向こうで止まった。旅人もつられて振り返る
。仕立て屋の軒先で、男と店の娘が向かい合っていた。
周囲の人々は歩みを緩め、しかし近づきすぎない距離で様子をうかがっている。
城下町の者たちは、揉め事の匂いをよく知っていた。
「そのシルク、ヴァルカーンエルフの作ったものじゃないと思います」
仕立て屋のマリーは、畳まれた布を前に、唇を引き結んでいた。若いが、布を見る目は遠慮を知らない。
「私が提示した額でしか買い取れません。」
男は肩をすくめ、わざとらしく声を張った。
「あ?何?偽物だっていちゃもんつけんの?」
「いちゃもんなんてつけてません。」
マリーの返事は硬かった。そこへ、人垣の奥から澄んだ声が降りた。
「ーー何を騒いでいるの?」
振り返った者たちの表情が、ほんのわずかに変わった。見慣れている者は苦笑し、初めて見る者は息を呑んだ。
金色の髪を柔らかく揺らし、エメラルドグリーンの瞳をまっすぐに向けた少女が、騒ぎの中心へ歩いてくる。
美しい、という言葉だけでは追いつかない顔立ちだった。
だが、その歩き方は貴婦人というより、狩り場へ踏み込む若い騎士のそれに近かった。
「シルクを売りたいの?」
「エリー」マリーが呼びかけた名を、男の声が遮った。
「ヒュー、いい女。ヴァルカーンのシルク、あんたが買うかい?」
男は笑みを広げ、手にしていた布を少女の肩へあてた。距離の詰め方が馴れ馴れしい。
周囲で誰かが眉をひそめた。少女はまだ表情を変えなかった。
「あんたみたいな美人によく似合うと思うぜ、特別に安くしておくよ。」
「な?綺麗な色だろ?」
少女は肩に当てられた布を少し眺めた。指先で生地の端をつまみ、織り目を確かめる。
怒った様子はなかった。けれど、マリーはその静けさを見て、わずかに息を詰めた。
「貴方…お名前は?どこから来たの?」
「俺?俺は遠くヴァルカーンから来た、アーノルド・タリクって」
男が名前を言い終える前に、少女の手の中で布が燃えた。
乾いた音を立てて火が上がり、赤い舌が偽物の艶をなめ尽くしていく。
人々の間から短い悲鳴が漏れた。少女は燃え落ちる布を見下ろし、まばたきもしなかった。
「!!何すんだよシルクだぞ!」
「アーノルド・タリク。貴方は国外追放とします。我が国でこのような行為は許されません。」
声は高くも荒くもなかった。ただ、決まったことを告げる響きがあった。
「持ってきた荷は全て回収して、持って帰りなさい。」
男の顔に血が上った。屈辱の熱が、理性より先に動いた。彼は少女の胸ぐらを掴んだ。
「な!」
「お前!何様だよ!」
その瞬間、横合いから伸びた手が、男の腕を掴んだ。深いシルバーの髪をした若い男だった。
整った顔立ちに、すぐ騎士と知れる服装。柔らかく笑っているのに、指先だけは少しも笑っていなかった。
「あー、あんた。それはダメ。」
男の手が引き離される。骨に響くほどではない。ただ、逆らえばその先があると悟らせる力だった。
「うちの主人、これでも頑張って大人しくしてるから」
「手でつかんじゃダメ。剣で切られちゃうよ」
騎士は微笑みながら、少女のマントをそっと開いた。そこには、剣の柄に手をかけている手があった。
少女の目は、やはり冷えていない。だからこそ余計に、周囲の空気が静まった。
「ーー衛兵、早く連れて行って、そいつ。」
男の顔色が変わった。すぐに衛兵が両脇から押さえ込む。
「なっ!!」
「おっまえ、こんなシルク売り歩いてたのか?よく騙せたなこれで。他からも苦情きてるぞ。」
「はい、連行するからね。もう、あの人あんまり怒らせないでー。」
酒場の窓辺で一部始終を見ていた旅人は、手にしていた木杯を置くのも忘れていた。
「何あの子、何者?従者に…衛兵まで連れてきて」
店員は、笑いをこらえきれないというように肩を揺らした。
「お客様、本当に運が良いわね。」
「あの子はウェルザスの姫士って言われてる子で、滅多にお目にかかれないんだから」
その日、マリーの宿屋には夕方の光が柔らかく差していた。
仕立て場の布地は、棚ごとに色を分けられ、針箱の金具が灯りを受けて小さく光っている。
エリスは椅子に腰かけ、窓の外の通りを眺めていた。昼間の騒動など、もう忘れたような顔をしている。
だが、マリーは長い付き合いで、その無邪気な横顔の奥にまだ消えない火が残っていることを知っていた。
「二人とも、新しい神官様に会いに来たの?」
「うん。明日オズワルド候の家で神官様のお話会があるって聞いたからご挨拶にね」
「なるほど、それで我が家に泊まるのね。じゃあ、明日のドレスをご用意しましょう。」
マリーは布を選びながら頷いた。
エリスが城下に用事がある時は、いつもこの宿を使う。
王女でありながら、城下の幼馴染の部屋で当たり前のようにくつろぐ。
その近さが、この街ではもうひとつの名物のようになっていた。
「それにしても、オズワルド様の家かあー。最近変な話聞くんだよねー」
「ん?変な話?」
「ドレスの仕立てに行った時に、メイドの子とか、奥様達の噂でね。」
「最近、妙にお金回りが良い…とか。」
ルオは窓際に立ったまま、通りの人の流れを見ていた。
関係のなさそうな話に、関係のある気配を探している顔だった。
「人身売買オークションを夜な夜な開いてる。とかか?」
マリーの手が止まった。針先が布に触れたまま、しばらく動かなかった。
「オークション…聞いた事あるけど、そうゆうことだったんだ。」
エリスは椅子の背から体を起こした。怪訝そうな顔をして、言葉を繰り返す。
「…人身売買?」
「オズワルド候は、オークションの目玉にいつも“最高級の品物“を用意しているらしい」
「…異種やエルフの珍しい子供を出品しているらしい…と」
エリスの眼が細くなった。美しい緑が、夕暮れの陰の中で色を失っていく。
怒鳴りはしなかった。机を叩きもしなかった。ただ、その沈黙を見たルオが、少しだけ肩を落とした。
「ウェルザス領内で、なんてことを…」
「…貴族内での噂ですけどね。エリス様はまあ…大人しくしててください。」
「…わかってるわよ。」
返事は素直だった。素直すぎた。ルオは信じていない顔で彼女を見た。
「今日のことだって、城に帰ったら大変ですよ。ロアに詰られてクィンに睨まれるのは俺なので。」
その夜、夢の中で母さんが呼んでいた。
暗い牢の石床は冷たく、足首に触れる藁は湿っていた。
フェリスは膝を抱え、目を閉じたまま、小さな頃に聞いた声を必死にたぐり寄せていた。
「フェリス、泣かないで。痛くないわ。」
「おまじないを教えてあげるわ、貴方を守るおまじない」
「でも、絶対に10歳になってから使っては駄目よ」
その言葉は優しかった。優しいからこそ、今は遠すぎた。
牢の中でフェリスは涙を流した。頬を伝う涙は、冷たくなる前に次の涙に重なった。
「…母さん…助けて」
翌日、オズワルド候邸の会場は、香水と絹と笑い声で満ちていた。
高い天井から吊るされた燭台が光を落とし、壁際には飾り布と季節の花が並ぶ。
関係者と貴族たちは、互いの距離を測りながら談笑していた。誰もが穏やかな顔をしていた。
穏やかな顔を保つことに慣れた者たちの集まりだった。
「オズワルド様、本日はお招きありがとうございます。」
「いえいえ、楽しんでいってください」
オズワルドは来賓客と笑みを交わしていた。丸みのある頬、品のよい衣装、相手を心地よくさせる声。
そこへ、一際大きな声が上がる。会場の視線が入口へ集まった。
「ウェルザス王国第一王女 エリス・ウェルザス様のお着きです」
エリスとルオが入ってきた。昼間の城下とは違い、エリスは王女の装いをしていた。
上質なドレスは、彼女の金の髪と緑の瞳を引き立て、歩くたびに裾が静かに揺れる。
その後ろに控えるルオもまた、会場の視線を引き寄せた。
会場のざわめきが、入口の方からゆっくりと薄れていった。誰かが扇を閉じる音がして、次に、小さな感嘆がいくつも重なった。エリスはその視線を慣れたものとして受け止め、軽く顎を引いた。ドレスの裾は床に触れるたび、燭台の灯りを拾って淡く揺れた。ルオは半歩後ろに控えている。王女の護衛として、それ以上近づかず、それ以上離れない距離だった。
「まあ、本当に美しい王女様」
貴婦人の声には、純粋な称賛と、値踏みするような響きが少しだけ混じっていた。エリスは微笑を返したが、目は笑い声の主を追わなかった。
「後ろにいらっしゃる、ルオ様も相変わらず素敵でいらっしゃること」
その言葉に、ルオは礼儀正しく目礼した。慣れた反応だった。好意にも、好奇にも、あまり深く踏み込ませない。エリスだけが、ほんのわずかに口元をゆるめた。からかいたい気配はあったが、この場では抑えたらしい。
オズワルドが両手を広げるようにして出迎えた。彼の動きは大仰で、しかし失礼にならないぎりぎりのところで止まる。人前で王女を歓迎している姿を、誰にどう見せるかまで心得ている男の所作だった。
「これはこれは、お久しぶりでございます。エリス王女様」
エリスは歩みを止め、礼を受ける側として、自然な間を置いた。それから、王女らしい穏やかな声で返す。
「オズワルド候、お招き頂き有難うございます。」
ルオは後ろで黙っていた。視線は低く、しかし会場の四隅をすでに数えている。扉、従者、護衛、窓の位置。エリスの背中越しに、彼の意識だけが忙しく動いていた。
「いえ、国王陛下はお元気ですか?」
オズワルドの問いは滑らかだった。だが、国王の名を出した瞬間、彼の目はわずかにエリスの表情を探った。王宮の近況を知りたいのではない。王女がどこまで単独で動いているかを測っている目だった。
「はい、相変わらず本の虫ですわ。」
エリスはあどけなく笑った。父を話題にする娘の声としては自然で、王宮の緊張など少しも匂わせない。ルオはその笑顔を見て、内心でため息をつく。こういう芝居だけは妙にうまい。
「それはそれは、相変わらずですな。」
オズワルドも笑った。会場の数人がそれに合わせて笑う。だがその笑いは長く続かず、すぐに音楽の中へ溶けた。
「今回は街に宿泊されているのですか?」
問いの形をした確認だった。エリスは一度だけ横目でルオを見た。ルオの表情は何も言わないが、目だけがわずかに細くなる。余計なことを言うな、という警告にも見えたし、もう遅い、という諦めにも見えた。
「はい、久しぶりに臣下と一緒に」
そう答えた時のエリスの声は、わざと少し弾んでいた。王宮を抜け出してきた若い姫君。退屈を嫌い、目新しいものに惹かれる娘。そう見せるための響きだった。
そして、エリスはオズワルドに一歩近づいた。近づきすぎない。けれど、周囲の者には親しげな内緒話に見える距離だった。ルオの指が、わずかに動く。咎めるには遅く、止めるには目立ちすぎる。エリスはそれを知っていて、オズワルドの耳元へ声を落とした。
「…お城の中は退屈で、たまにはハメを外したくって。」
オズワルドの目元が動いた。興味を示したのではない。餌に食いついたふりをしながら、相手が本当に餌なのかを見ている顔だった。
エリスはさらに声を小さくする。頬に浮かべた笑みは、年頃の少女が秘密を打ち明けるように軽い。
「他の方に伺ったのですけれど」
そこで一度だけ息を継いだ。ルオには、その短い間がわかった。彼女は怒りを飲み込んでいる。飲み込んで、別の顔を作っている。
「貴方のところに来れば“面白い子”が手に入るって。」
オズワルドは、顔色を変えなかった。むしろ笑みの角度が、ほんの少し深くなった。客人をもてなす主人の顔のまま、その奥で何かが素早く計算されていく。
「ーーそうですか。それでは、本日はぜひ我が家でゆっくりされてください。」
彼は一礼した。その所作は丁寧で、見ている者には何の不自然もない。だが、エリスのすぐ後ろでルオが、わずかに顎を引いた。
「今日の夜は“特別な催し”もありますゆえ」
エリスは返事をしなかった。ほんの一拍、オズワルドを見上げる。緑の瞳に、少女らしい好奇心の形をした、別の何かが宿った。獲物を見つけた獣のそれではない。もっと静かで、もっとまっすぐなものだった。
「まあ、それはーー楽しそうですわね」
オズワルドは満足したように目を細め、他の来賓客への挨拶へと去っていった。彼の背中が人の輪に紛れるまで、エリスは微笑を崩さなかった。崩したのは、ルオが低く名を呼んでからだった。
「エリス」
呼び捨てにした声は小さい。だが、その短い音の中に、咎めと心配と、諦めが入り混じっていた。
「何?」
エリスは何も知らない顔で振り向く。ルオはその顔を見て、また面倒な方向へ転がり始めたと悟った。
「…俺は大人しくしていると言ったよな?」
言葉の最後に、護衛としての理性がかろうじて残っていた。臣下の立場を保ち、声を荒げない。だが目だけは笑っていない。
「…いわれたかしら?」
エリスは首を傾げた。あまりにも白々しいので、ルオの眉間に浅い皺が寄る。
「…お前…」
その先を言えば、きっと王女に向かって言う言葉ではなくなる。ルオは口を閉じた。エリスはそれを勝ちと取ったのか、少しだけ満足そうに前を向く。
その時、後ろから杖の音がした。床を叩く規則正しい音に、二人は同時に振り返った。目の前には獣人の神官が立っていた。長い旅装の裾には、城下の土埃がかすかに残っている。会場の者たちが纏う香水や宝石の匂いとは違う、遠い国から来た者の気配だった。
「お初にお目にかかります。セレスティア聖王国より参りました ヨハネス・イリーシャでございます。」
神官は深く頭を下げた。獣人であることを隠さず、それでいて礼を欠かない姿勢は、見る者に自然と居住まいを正させるものがあった。
「この度は、このような席にお越し頂き誠に有難うございます」
エリスは彼の声を聞きながら、先ほどまでの芝居を少しずつ解いた。警戒は残したまま、笑みだけが柔らかくなる。
「本来でしたら、私が王宮まで足を運ばなければなりませんのに。」
イリーシャの言葉は丁寧だったが、へりくだりすぎてはいなかった。エリスはそのことに好感を持ったらしい。返す声には、先ほどオズワルドに向けた作り物の軽さがなかった。
「私の方こそ、王宮から出る理由ができてとても嬉しいです。気になさらないで」
ルオは黙って二人を見ていた。エリスがこの神官には自然に笑っていることを、見逃さなかった。
「お心遣い痛み入ります」
二階の廊下から、会場を見下ろす者たちがいた。階下の音楽と笑い声は、厚い絨毯に吸われて少し遠く聞こえる。燭台の灯りはここまで届いているのに、廊下の空気は会場よりも冷えていた。
「よろしいのですか?王女を夜会に呼ぶなど」
従者は不安を隠せない顔で、主の横顔を見た。声を潜めても、その不安までは隠せない。オズワルドは杯の縁に口をつけた。赤い酒が唇を濡らす。彼はすぐには答えなかった。階下のエリスを、まるで出来のいい装飾品でも眺めるように見ている。
「なあに、王室育ちのただの小娘だ。気に入った臣下を売れば満足だろう」
従者の顔から血の気が引いた。けれど、オズワルドは気にしなかった。彼にとって王女の肩書きは、扱い方を間違えなければ利用できる飾りでしかない。
「あのルオという専属護衛騎士だって」
彼は杯を揺らした。酒の表面に、階下の灯りが歪んで映る。
「昔、王女が道端で拾ったという話だ。元来そうゆうのがお好きなんだろう」
その言い方には、拾われた者への軽蔑と、拾った者への侮りがあった。従者はそれ以上何も言わなかった。ただ、階下に立つ王女の背を見て、わずかに眉を寄せた。
夜になった。会場の灯りはさらに濃くなり、楽師たちの弦の音が、壁際の影をやわらかく震わせていた。昼の挨拶にあった品のよさは、酒と夜気の中で少しずつほどけている。貴族たちは笑い声を低くし、近しい者同士で輪を作り始めていた。
エリスは来賓客に笑顔を振り撒きながら、視線だけで部屋の隅々をなぞった。扉の数、従者の動き、護衛の配置。壁際に立つ者たちの足の向き。盃を持つ手。隠し扉になりそうな壁面。どこにも、探している気配はない。
「…屋敷の中にはいないみたいね」
彼女は扇で口元を隠したまま言った。声は低い。笑っているように見えるのは、扇と目元の角度だけだった。
「大方、どっかの離れた小屋と繋がってるんだろ」
ルオは隣で、同じように礼儀正しい顔をしている。だが、その目はすでにこの屋敷を信用していなかった。エリスは視線を動かさないまま、ほんの少し扇を傾けた。
「ルオ、ちょっと探ってきなさいよ」
言い方だけなら、退屈した王女の気まぐれだった。だがルオは、それが命令というより無茶振りに近いことを知っている。
「嫌です、ご主人様」
ルオもまた、礼儀正しい微笑を崩さなかった。近くにいた貴婦人が二人のやりとりを仲睦まじいものと受け取って、楽しげに視線を逸らす。エリスはその隙に、声をさらに落とした。
「エルフの気配すらしないわ。うまく隠したのね」
ルオは一度だけ瞬きをした。何を当然のように言っているのか、という顔だった。
「え?いや。してますよ。すごく弱いですけど。」
エリスはルオを見上げた。驚きが先に出て、そのあと怒りが来た。怒りといっても、ルオに向けたものではない。そこに子供がいると知った瞬間、もうじっとしていられなくなったのだ。
「ちょっと、そうゆうことは早く言いなさいよ!」
声が思ったより大きくなった。近くの客がちらりと振り向く。エリスははっとして口元に手を当てた。ほんの一呼吸のうちに、表情を作り直す。心配そうに眉を寄せ、ルオの背に手を添えた。
「体調が悪いなら早く言ってくれれば良いのに、ルオってば無理しないで」
その場にいた者たちは、王女が従者を気遣って退席するのだと思った。エリスはその視線を利用し、自然な足取りで外へ向かう。ルオは背中を押されながら、誰にも聞こえないほど小さく息を吐いた。こういう時のエリスは、止まらない。
馬車の前に着くと、夜風が会場の香水を洗い流した。御者が目を伏せる。ルオは馬車の扉の前に立ち、周囲を見張った。中では布の擦れる音がする。エリスは素早く動きやすい服へ着替えながら、扉越しに声を投げた。
「いつから気づいてたのよ!」
問い詰める声は、先ほどまでの王女のものではなかった。城下で育った幼馴染に文句を言うような、遠慮のない調子だった。
「大広間に入ってからですよ」
ルオは平然と答えた。悪びれる様子はない。
「本当、お前ってそうゆう事には鼻がいいんだから!」
馬車の中から、金具を留める音がした。ルオは周囲を確認しながら、少しだけ口の端を上げる。
「エリス様が気付けないのは、魔術の授業サボってばっかいるからだろ」
扉が開いた。出てきたエリスの腰には、使い慣れた剣があった。ドレスの王女はもういない。裾を気にして歩く必要も、笑みで相手を測る必要もない。そこにいたのは、城下町で人々が噂する、ウェルザスの姫士だった。
「で?」
エリスは手袋を引き上げ、ルオを見た。
「どっちからするのよ、その気配とやらは」
ルオはため息をついた。止めても無駄だとわかっている者の、長い諦めがそこにあった。だが、諦めたからといって、守ることまで投げるわけではない。彼は屋敷の背後に広がる森へ目を向けた。
「…後ろの森、北の方角」
二人は北の森の中へ足を進めた。木々の間は、屋敷の灯りから離れるほど暗くなる。湿った土を踏む音だけが、二人の呼吸に重なった。ルオは半歩後ろに控えながら、いつでも前へ出られる位置を保っていた。エリスは迷わなかった。怒りが、道を知っているかのようだった。
北の森の小屋では、見張りたちが退屈そうに灯りの下で動いていた。粗末な扉の向こうから、子供の嗚咽が漏れている。泣き声は押し殺されていたが、静かな森ではかえって耳についた。
「おい、そこの獣人の子供、出ろ」
見張りの一人が、泣いている子供の肩を叩いた。叩くというより、物をどかすような手つきだった。
「いつまでも、泣いてんじゃねえ!」
子供は肩を震わせた。声を上げればまた殴られると知っている泣き方だった。
「よお、こいつはいいのか?」
別の見張りが顎で牢の奥を示した。そこにいる子供だけは、他の子供たちより奥へ押し込まれている。見張りの視線にも、扱いにも、違う値段がついていることが露骨に出ていた。
「そいつは目玉商品だから、後だ後、先にこいつから連れてくぞ」
小屋の影から、エリスはその様子を見ていた。唇を結んだ横顔を、月明かりが白く削る。すぐに飛び出さないのは、怒りが足りないからではなかった。中に何人いるか、出口はどこか、子供たちを巻き込まずにどう動くかを見ている。
「…本当に屋敷と繋がってるみたいね」
声は低かった。ルオは頷かず、視線だけで小屋の裏手を示す。
「だから、言っただろ。わかりやすいんだよあいつ。」
エリスの指が、剣の柄へ触れた。まだ抜かない。抜かずに耐えている。
「…許せないわ。ウェルザスでは人身売買は禁止のはずよ」
その言葉は、法律を確認しているのではなかった。自分の国の名を、地面の下へ踏みにじられた者の声だった。
「…まあ、どんなとこにもクソはいるんじゃないですか。」
ルオの言い方は軽い。けれど、その軽さの下には、斬る相手をすでに決めた者の冷たさがあった。
地下の牢で、フェリスは両腕を抱いた。外の足音が近づくたび、胸の奥が縮む。ここから出たい。ただ、それだけだった。どこへ行くのかも、何が待っているのかもわからない。それでも、ここにいることだけはもう耐えられなかった。
「その最後の商品、連れてこいだってよ」
声が近づいた。フェリスは顔を上げることができなかった。自分のことを言われているとわかっていた。
「おう、おい。お前の番だってよ」
扉に手がかかる。鉄の擦れる音がした。逃げ場のない音だった。
嫌だ。母さん。
その名を心の中で呼んだ瞬間、遠い記憶が浮かんだ。あの時の母の手の温度。焦げつくような不安を隠しながら、それでも笑っていた顔。
「フェリス、貴方を守るおまじない」
フェリスは小さな声で呟いた。
「アルラ・カルラ」
それは、守護の呪文ではなく封印を解除する呪文だった。フェリスの眼が突然光を持ち、地下の牢屋全体が光の柱に包まれた。光は石壁を透かし、小屋をも包んでいく。森の闇が一瞬、昼のように白く浮かんだ。
「!」
エリスは反射的に小屋を見た。月明かりとは違う、あまりにも強い光だった。
「この光は!?」
ルオの顔からも冗談が消えた。彼は光の質を探るように目を細める。
「守護魔法ーー?」
言いながら、確信はなかった。守るための光にしては、あまりにも乱れている。
「かなり強い魔力だ」
エリスはその光を見た。次の瞬間にはもう、足が動いていた。
「…いくわよ。」
言葉は短い。返事を待つ気はなかった。
「おい!エリス!」
エリスは小屋へ向かっていく。ルオもすぐにその後ろを追った。追いながら、胸の奥で舌打ちする。叱る言葉は山ほどあるのに、今言っても彼女は振り返らない。
「…っ。あの、お転婆…」
地下牢では、光が暴れていた。フェリスは目を抑え、息もまともに吸えないまま助けを呼んだ。
「熱…熱い!」
左目の奥から、知らない力が溢れてくる。痛みとも熱ともつかないものが、頭の中まで満たしていく。
「助け…母さん!」
見張りたちは後ずさった。さっきまで値札をつけるように見ていた子供が、突然、自分たちの理解の外へ出たのだ。
「なんだこの光!」
「おい!お前、何やったんだ!」
フェリスは目を抑えながら、柵越しに手を伸ばした。助けてほしかった。誰でもよかった。ただ、そこから出してほしかった。
「たすけ…」
その瞬間、手に集まった光が、格子の方へ一直線に伸びた。重い音が石牢を叩く。放たれた光は格子を貫き、見張りの一人を貫いた。
「!っひ!化け物!!」
何が起きたのか、フェリスにはわからなかった。左目が異常に熱く、それを抑えるのに必死だった。ただ、投げられた言葉だけが耳に残った。石の床に倒れた人影。自分の手。光。死。すべてがばらばらに目の前へ散った。
「僕…僕は…」
人が死んだ。自分が放った光で一人。
「ばけ…」
言葉が途切れる前に、フェリスを暖かい腕が抱きしめた。血と焦げた鉄の匂いの中に、外の風の匂いが混じった。フェリスは抱きしめてきた相手の顔を見た。
「大丈夫だよ。」
その少女は、怖がらなかった。フェリスの目も、手も、そこから出た光も、見ないふりをしなかった。抱きしめる腕にためらいはなく、逃げる気配もなかった。
「大丈夫。化け物なんかじゃない。大丈夫よ。」
少女は、エメラルドグリーンの瞳でフェリスの頬を両手で包み、その眼を見つめた。フェリスの金色に光る瞳が、その緑に映る。そこに映っている自分は、まだ震えていた。けれど、少女の目は、その震えごと受け止めていた。
「…美しい瞳の色ね、まるで宝石のような光だわ。」
その言葉を聞いたところで、フェリスの意識は途切れた。体から力が抜け、その場に倒れ込む。エリスは眠ったフェリスを膝に抱え、少しの間とどまっていた。泣き叫ぶでもなく、すぐ立ち上がるでもなく、ただ子供の軽い体を抱いていた。
「エリス、ここにいる奴らは終わったぞ。」
ルオの声が近づいた。足音は静かだったが、剣を収める音がした。エリスはフェリスの髪に落ちた埃を指で払ったあと、静かに答える。ルオにはわかった。その声には、彼女の静かな怒りが満ちていた。
「ーーうん。じゃあ行こうか。」
オークション会場では、別の熱が高まっていた。覆面の客たちが席を埋め、宝石のついた指が肘掛けを叩き、香水の濃い空気の中で小さな期待が膨らんでいる。壇上の男は、その期待を煽ることに慣れていた。言葉を引き延ばし、視線を泳がせ、客席の呼吸をひとつに集めてから告げる。
「皆様、お待たせいたしました。次はいよいよ本日の目玉商品」
客席の奥で、誰かが低く笑った。隣の者が札を持ち直す。
「世にも珍しい、オッドアイのセレスティアエルフ——」
会場がざわつく。期待と、下卑た笑い。そのざわめきが、暗転によって一度断たれた。次に灯りが戻ったとき、そこにエリスがいた。壇上ではない。客席でもない。ただ、この場の中心を奪う位置に立っていた。
剣を携え、背筋を伸ばし、笑っていた。けれど、その目は笑っていない。
「オズワルド様、あれは——」
従者の小声に、オズワルドの喉がわずかに動いた。それでも彼は笑みを崩さなかった。崩してしまえば、この場の主導権を失うと知っていたからだ。
「……はは。エリス王女様。お戯れは——」
エリスは彼の言葉を最後まで聞かなかった。聞く必要もない、というように剣先を少しだけ動かす。
「あら。ずいぶん楽しそうね。」
会場の空気が変わった。王女の声は軽い。けれど、軽さの底に刃がある。
「……残念。私、そういうの壊すの得意なの。」
剣先が床に落ちた。コツ、と澄んだ音がひとつ、会場を裂いた。誰かが息を止めたのがわかるほど、広間は静まった。
「っ……!」
エリスはオズワルドだけを見た。声を落とす。その低さが、かえって広間の奥まで届いた。
「戯け者はお前よ、ロイズ・オズワルド。」
オズワルドの目が見開かれる。な……なんだ? この私が——その思考が顔に出る前に、エリスの声が重なった。
「お前、私の国で何をしてるの?」
一拍。オズワルドの喉が鳴る。言い訳の形を探して、言葉が出ない。言えば言うほど、自分の足元が崩れるとわかっていた。
「答えなさい。」
エリスが剣を床へ叩きつけた。踏み抜くような音が骨まで響く。壇上の飾り布が震え、客席の札が小さく跳ねた。オズワルドの膝が、勝手に落ちる。
「……っ!」
エリスは見下ろした。憐れみはなかった。怒りだけでもなかった。そこには、王族が自分の国を汚された時の、冷えた責任があった。
「私の国でやったことを、もう一回、言ってみなさい。」
オズワルドは声を出せなかった。呼吸だけが荒くなる。エリスは、膝の男を処理したみたいに横へ流し、そのまま視線を会場へ戻した。
覆面、マント、宝石、香水。顔は見えない。でも、同じ目だけが並んでいる。誰かがやったのではない。ここにいる全員が、この場を作っていた。
剣先がもう一度、床に落ちた。コツ、と澄んだ音が一つ、会場を裂く。
「よく聞け、お前達。」
声色が変わった。軽さが消え、熱だけが残った。
「ウェルザスの土の上で、人を“品物”にするな。」
札を持つ手が、いくつか下がった。
「札を上げる手も、値を読む目も――今この瞬間で終わりよ。」
誰も動かない。だが、誰もその沈黙の中で安全ではいられなかった。
「その帳面に書いた“値段”は、もう通らない。」
台帳を抱えていた男が、思わずそれを胸に引き寄せた。エリスの目は、その小さな動きも逃さなかった。
「この場の取引は成立しない。――私が認めない。」
エリスの声は、ひとりひとりの手元へ降りていった。札を握る指。台帳を守る腕。顔を隠す布。そのすべてを、見逃さないと言っていた。
「鎖を外せ。」
客席の奥で、従者の一人が動きかけて止まった。
「檻を開けろ。」
エリスの視線が、その男の足を射抜く。男は弾かれたように走り出した。
「“商品”って言った口で、今度は名前を呼べ。」
息を吸う。怒りが喉の奥で鳴る。
「急いで。私、気が短いの。」
奥の席で、宝石の指輪が震えた。誰かが札を落とす。乾いた音は、逃げ場のない証拠のように響いた。
「……間に合わなかった人から、手首がなくなるだけ。」
その言葉で、ようやく会場が動いた。立ち上がる者、顔を隠す者、逃げ道を探す者。だが、誰ひとりとして、王女の前を横切ろうとはしなかった。
「それが出来ないなら、ここから先は“罪人”だ。」
エリスは一歩も動かない。その場に立っているだけで、広間の出口を塞いでいるように見えた。
「王国の敵として裁く。」
その言葉が落ちた瞬間、エリスの剣に一瞬だけ光が走った。光は刃から床へ細く落ち、競り台の方へすべるように走る。札の数字のインクが、じわりと滲んで崩れた。台帳の文字が、誰も触れていないのにすっと薄れ、白く抜け落ちる。鎖に打たれた刻印がぱちんと割れて、鉄が重く垂れた。
会場が凍る。
「……ほら。」
エリスは、ようやく少しだけ笑った。けれど、それは安心させる笑みではなかった。
「終わり。従いなさい。」
光は、何事もなかったみたいに消えた。
小屋の前で、フェリスは目を覚ました。最初に見えたのは、空だった。木々の間からのぞく空は、まだ少し夜の色を残している。瞬きをすると、瞼の裏に牢の光がちらついた。体を起こそうとして、左目の奥に残る熱に息を呑む。
次に、地面を踏む大勢の足音が聞こえた。王宮騎士たちや警備隊の兵士が動き、オズワルドの臣下たちが次々と連行されていく。鎖の音、馬の鼻息、命令を交わす声。そのすべてが、フェリスには遠く感じられた。
「目が覚めた!!もう大丈夫よ、悪い奴らはみんな捕まえたから」
エリスが覗き込む。先ほど牢の中で見た顔と同じだった。けれど、今は血と光の中ではなく、朝に近い空の下にいる。そのことが、フェリスにはすぐに信じられなかった。
「ーーあ、あの、僕ーー」
何を言えばいいのかわからなかった。謝るべきなのか、逃げるべきなのか、助けられたことを喜んでいいのか。言葉の形が決まる前に、エリスが先に身を寄せた。
「体は大丈夫?」
その問いに、フェリスはかえって黙ってしまった。自分が何者なのかを問われなかったことが、怖いくらい不思議だった。
その時、エリスの後ろから静かに彼女を呼ぶ声がした。
「ーーーエリス様」
エリスは一瞬だまって振り向かない。肩だけが、ほんのわずかに固まった。その反応を見ただけで、声の主が彼女にとってどういう相手か、フェリスにも少しわかった。
「…シカトか?おいコラ。」
ようやく恐る恐る振り向いたエリスは、笑顔を作った。子供でもわかるほど、取り繕った笑顔だった。
「…早く着いたのね?クィン。城から距離があるのに」
クィンは整った顔立ちのまま、少しも笑っていなかった。怒鳴ってはいない。だが、怒鳴るより怖い沈黙をまとっている。
「私の“優秀な部下”が昨日の夜に連絡をくれましてね。」
その一言で、エリスの視線が横へ流れた。少し離れた場所にいるルオは、まったく悪びれない顔で空を見ている。
「王女様が“また首を突っ込みそうだ”と」
エリスは視線だけでルオを睨み、低くつぶやいた。
「…ルオ…裏切り者め。」
小さな声だったが、クィンにはしっかり聞こえていた。
「お前は一体、どれだけ無茶をやらかしたら気づくんですかね、自分の立場を」
叱責は、王女に向けるにはあまりにも遠慮がなかった。だが周囲の騎士たちは、誰も驚いていない。いつものことなのだろうと、フェリスはぼんやり思った。
「王女に向かって、お前という言い方は失礼だと思う!」
エリスは胸を張った。だが、その反論に力はない。形だけの抵抗だった。
「王女だからって、私は甘やかさないんですよ。今すぐ馬車に乗ってお城へ帰還して頂けますかオウジョサマ?」
冷静な顔だった。だが、いつもの通り怒りに満ちた顔だった。エリスは逆らうとこの先どうなるか怖くて、いつも何も言えない。けれど、そのままでは終われないという顔で、フェリスの方をちらりと見た。
「…じゃあ、この子も連れてっていいかしら?」
クィンの眉が、はっきりと動いた。
「ダメに決まってるでしょうが、バカ娘!」
その日、クィンの声は空高く響いたという。
後日。王宮の門前に、小さな影がひとつ、石畳に落ちていた。朝の門はまだ冷たく、兵士たちの甲冑には薄い光が乗っている。フェリスは両手で小さなものを握りしめていた。
歩いている間、何度も引き返そうと思った。ここは自分の来る場所ではないと、何度も思った。門の高さも、兵士の姿も、磨かれた石畳も、何もかもがフェリスを拒んでいるように見えた。それでも、あの時の腕の温かさが、背中を押した。
「……あの」
門番が振り向く。見慣れない子供に向ける目だったが、乱暴ではなかった。
「なんだ?」
フェリスは手の中の小さな石を見せた。エメラルドグリーンの宝石が、朝の光を受けて静かに光った。指先が少し震えていることに気づき、フェリスはそれを隠すように石を握り直した。
「……ウェルザスの姫士に、呼ばれたんだけど」
その言葉を口にした瞬間、フェリスの中で、あの日の記憶がよみがえった。クィンに引きずられていく直前、エリスが慌ただしく振り返り、宝石を押し付けてきた時のことだ。
「これ!」
あの時のエリスは、怒られる寸前の子供のように急いでいた。それでも、フェリスに向ける目だけはまっすぐだった。
「売ってもいいし――」
宝石は小さかったが、フェリスがそれまで持ったことのあるどんなものよりも重く感じた。
「もし、私の臣下になってもいいって気になったら、持ってきて」
臣下、という言葉の意味を、フェリスはその時すぐには理解できなかった。ただ、あの人は自分に行き先を渡しているのだと、それだけはわかった。
「お城の門番に言いなさい」
エリスはクィンに引っ張られながら、それでも声を張った。
「『ウェルザスの姫士に呼ばれた』って!絶対よ!」
フェリスは、その言葉を覚えていた。行く場所はない。それに、あの時、抱きしめられた暖かさが、まだ離れなかった。だからただ、それだけで、「臣下として働くのも悪くないかも」と思って、門の前に立った。
怖くないわけではない。けれど、この先が、ちょっとだけ楽しみになっていた。
「おい!」
門番の声が、奥へ飛ぶ。フェリスは思わず肩を震わせたが、逃げなかった。
「お姫様の、新しい臣下が来たってよ!」
その言葉と同時に、門が開いた。重い扉が内側へ動き、王宮の朝の光が石畳の先に広がる。
「行けよ。頑張れよ!」
フェリスは宝石を握り直した。
「……ありがとう」
そして、門の内側へ一歩、踏み入れる。ようやく理解したように、胸の奥で小さく思った。
(……お姫様だったんだ)




