エピローグ:数年後の物語
第六章(エピローグ:数年後の物語)
志保は、その文字を何度もなぞった。
三年間、一度も会いに行かなかった。会いに行けば、自分がついた「最後の嘘」が壊れてしまうような気がしたからだ。彼は、志保が書き換えた「幸せな過去」を信じ、穏やかな忘却の中にいるはずだ。
行けば、また琥珀が割れてしまう。
分かっていながら、志保の指先は、すでにスケジュール帳の土曜日の欄にペンを走らせていた。
2
週末、志保は再び『青瑠璃の森』を訪れた。
雑木林は青々と茂り、三年前よりも木々が逞しく成長しているように見えた。施設の一角にある小さなギャラリー。そこには、遥斗がこの三年間で描き溜めたという、数十点の絵画が並んでいた。
志保は、息を潜めるようにして中へ入った。
壁に掛けられた絵は、どれも抽象的だった。激しい色彩が混ざり合い、光と影が複雑に交差している。
彼にはもう、具体的な形を描くための記憶はない。自分が何を見たのか、誰と話したのか、それを形にする前に、像は霧散してしまうのだろう。
だが、その絵の一枚一枚に、志保は圧倒された。
そこには、名前も言葉もない「感情の純粋な爆発」があった。
「……野上さん。いらしてくれたんですね」
声をかけてきたのは、当時の主治医だった。彼は少し老け、白髪が増えていた。
「瀬尾さんは……?」
「今は、奥のテラスで絵を描いています。……彼の症状は、もはや医学の常識を超えています。現在の保持時間は、十秒を切りました。描いている途中で、自分が何を塗ろうとしていたかさえ忘れてしまう。……それでも、彼は筆を置きません」
医師は、ギャラリーの最深部にある、ひときわ大きな絵を指差した。
「これだけは、彼が三年間、毎日少しずつ書き加え続けている作品です。タイトルはありません。……いえ、つけることができなかったのでしょう。彼にとって、これは『今』そのものですから」
3
志保は、その絵の前に立った。
それは、深い群青色の背景の中に、無数の金色の粒が舞い散る、不思議な絵だった。
中央には、歪んだ円が描かれている。その円は、どこかで見覚えのある形をしていた。
「……時計」
志保の口から、小さな呟きが漏れた。
琥珀色の文字盤。そして、その中心から伸びる、一本の細い、真っ直ぐな線。
それは、今にも動き出しそうな「秒針」だった。
そして、その秒針の先には、微かな、本当に微かな一筋の「光」が描かれていた。
その光は、朝日でもなく、街灯でもない。
誰かの瞳に宿る、温かな光。
志保の目から、溢れるように涙がこぼれ落ちた。
彼は忘れている。
自分が誰なのか。
志保が誰なのか。
あの日、海辺の駅で何が起きたのか。
けれど、彼の魂の最も深い場所には、あの瞬間の光が、琥珀の秒針が重なったあの三秒間の奇跡が、消えない傷跡のように刻まれていたのだ。
脳が拒絶しても、記憶が砂のようにこぼれても、彼の手は無意識にそれを描き続けていた。
「……野上さん。彼に会われますか?」
志保は、ゆっくりと首を振った。
「……いいえ。この絵に会えただけで、十分です」
ここで会えば、彼女はまた彼を呼びたくなってしまう。自分の名前を。二人の過去を。
だが、それは彼の静かな忘却を乱すエゴでしかない。
彼は今、この光の中に生きている。
志保が与えた「嘘の幸せ」ではなく、彼自身の魂が掴み取った「真実の光」の中に。
4
ギャラリーを出ようとした時、志保はテラスに繋がる窓越しに、彼の姿を見つけた。
車椅子に座り、キャンバスに向かう遥斗。
彼は筆を止め、ふと顔を上げた。
志保と、遥斗の視線が、ガラス越しに重なった。
志保は動けなかった。
心臓が、十八歳のあの日と同じように激しく脈打つ。
遥斗は、じっと志保を見つめていた。その瞳には、かつてのような戸惑いも、拒絶もなかった。
ただ、春の風を感じるように。
あるいは、懐かしい音楽を遠くで聴いているように。
彼は、穏やかに微笑んだ。
それは、「初めまして」の微笑みではなかった。
かといって、「お帰りなさい」の微笑みでもなかった。
それは、ただ、そこに「愛」という名の光が存在することを、肯定するだけの微笑みだった。
数秒後、彼は再びキャンバスに視線を戻した。
その時、彼はもう、目の前に立っていた女性のことを忘れている。
だが、彼の筆先には、新しい金色の絵の具が乗せられていた。
志保は、深く頭を下げ、その場を去った。
5
施設を出た志保は、駅へと続く一本道を歩いていた。
三十九歳。
彼女の人生は、これからも続いていく。
独りの夕食、静かな部屋、時計の音。
けれど、もう彼女の心は空洞ではなかった。
叶わない恋。
それは、共に生きられないことではなかった。
自分という存在が、相手の記憶から消えても。
相手という存在が、この世界のどこかで、自分から贈られた嘘を抱きしめて生きていてくれる。
そして、自分の知らないところで、自分という名の光を、誰かが無意識に描き続けてくれている。
それだけで、人は生きていけるのだ。
志保は、駅のホームで電車を待つ間、自分の左胸に手を当てた。
チク、タク。
琥珀の秒針が、ようやく、現在という場所を指して動き始めた。
志保は、カバンから一冊の新しい手帳を取り出した。
最初のページに、彼女はペンを走らせる。
『私は、野上志保。
かつて、琥珀の中に時間を閉じ込めた女。
そして今は、名前のない明日を愛する女。』
電車がホームに入ってくる。
志保は、迷いのない足取りで、その扉を潜り抜けた。
窓の外を流れる景色は、春の光に満ちていた。
さようなら、私の美しい後悔。
さようなら、私の愛した、琥珀の秒針。




