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さようなら、私の愛した、琥珀の秒針  作者: 久遠 睦


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夜明けの海辺

第五章。夜明けの海辺


 志保は、これまでのページを何枚も破り捨てた。

 そこにあった、自分との再会の記録。

 自分を「懐かしい」と感じた彼の心の震え。

 そして、父たちの罪を暗示する不穏な言葉たち。

 

 それらを全て、夜の海の底に沈めるように破り、捨てた。

 彼が目覚めるたびに、自分が「罪人の息子」でもなく、「復讐者の対象」でもない、ただの「愛された人間」として世界に出会えるように。

「……僕の過去は、そんなに温かいものだったんですか?」

 遥斗が、ノートの文字を指先でなぞりながら、不思議そうに尋ねた。

「ええ。そうよ。……みんな、あなたのことが大好きだったの。だから、あなたはもう、何も心配しなくていいわ。……何も、思い出さなくていいのよ」

 志保の声が、微かに震えた。

 遥斗は、ノートを抱きしめるように胸に当てた。

「よかった……。僕、ずっと怖かったんです。自分が何か、取り返しのつかない悪いことをしたんじゃないかって。……看護師さん、教えてくれてありがとう」

 彼は、純粋な感謝の笑みを志保に向けた。

 その笑顔が、志保の心に鋭いナイフを突き立てる。

 彼は幸せになった。志保が自分を消し、真実を塗り替えることで。

 これが、叶わない恋の、最終的な形だった。

3

 遠くから、救急車のサイレンの音が聞こえてきた。

 志保が事前に手配した、施設の提携病院の車両だ。

 

 もうすぐ、彼は連れて行かれる。

 そして再び眠りにつき、目が覚めた時、彼は「看護師である志保」さえも忘れ、ノートに書かれた「偽りの幸せ」だけを自分の真実として受け入れるだろう。

 

 琥珀の秒針が、最後の数分を刻もうとしていた。

「瀬尾さん。……ひとつだけ、約束して」

 志保は、彼の両手を握った。

「はい、なんでしょう」

「このノートを、ずっと大切にして。……もし、いつか、誰かがあなたの前に現れて、悲しい顔をしても……あなたは、このノートの言葉だけを信じるの。……あなたは幸せになるために、今、ここにいるんだから」

 遥斗は、真剣な表情で頷いた。

「分かりました。約束します。……看護師さん、あなたのお名前は?」

 志保は、一瞬だけ言葉を詰まらせた。

 本当の名前を言いたい。

 私を覚えていてほしい。

 けれど、それを言えば、彼はまた「野上」という名に付随する呪いを引き寄せてしまうかもしれない。

「……私の名前は、いいの。……ただの、通りすがりの者だから」

 十八年前のあの日、駅で別れた時と同じセリフ。

 

 救急車がホームの入り口に止まり、隊員たちが駆け寄ってくる。

 遥斗はストレッチャーに乗せられ、運ばれていく。

 彼は、遠ざかる志保の方を振り返り、何度も手を振った。

「ありがとう! さようなら!」

 彼の声が、朝の潮風に溶けていく。

 志保は、その姿が見えなくなるまで、立ち尽くしていた。

 

 夜が明け、太陽が水平線から顔を出した。

 黄金色の光が海を照らし、志保の影を長く、長く、ホームに引き伸ばす。

 彼女の手元には、破り捨てたノートの破片が数枚、残っていた。

 そこには、遥斗の筆跡でこう書かれていた。

 『野上さんは、僕の光のような人だ』

 志保は、その紙切れを口元に寄せ、そっとキスをした。

 そして、それを風に乗せて海へと放った。

4

 数時間後。

 志保は、一人で車を走らせ、都会へと戻っていた。

 

 三十六歳の日常。

 月曜日になれば、またオフィスに行き、数字を追い、効率を重んじる生活が始まる。

 誰も、彼女が一晩で過去を葬り、最愛の人を記憶の彼方へ送り出したことなど知らない。

 

 ふと、信号待ちで車の時計に目をやる。

 琥珀色の文字盤。秒針が、チク、タク、と音を立てて進んでいる。

 

 時間は、止まらない。

 どれほど残酷な別れがあっても、どれほど深い嘘を吐いても、世界は動き続ける。

(……これで、よかったのよね、遥斗くん)

 志保は、ハンドルを握る自分の手を見た。

 そこには、もう砂の汚れはない。

 けれど、彼の温もりが、まだ微かに残っているような気がした。

 叶わない恋。

 それは、相手と結ばれないことではない。

 相手を愛するために、自分という存在を、相手の記憶から永遠に追放することだった。

 

 志保は、アクセルを静かに踏み込んだ。

 前方の道は、朝の光に満ちている。

 彼女はもう泣かなかった。

 彼女の心の中には、世界でたった一人、自分だけが知っている「完璧な恋」が、琥珀のように固まって、永遠に輝き続けていた。


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