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さようなら、私の愛した、琥珀の秒針  作者: 久遠 睦


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忘却のハイウェイ

第四章:忘却のハイウェイ ― 琥珀の秒針 ―

1

 深夜の国道を、志保の駆るステーションワゴンが東へと走っていた。  車内のラジオからは、行き先も分からない深夜放送が低く流れている。街灯の光が規則正しくフロントガラスを横切り、助手席で微睡まどろむ遥斗の横顔を、琥珀色の光で一瞬だけ照らしては過ぎ去っていく。


「……あの、すみません」


 不意に、遥斗が目を開けた。  志保はハンドルを握る手に力を込める。今夜、これで何度目になるだろうか。この十数分間に一度、彼の世界はリセットされ、志保は「見知らぬ女」へと戻る。


「はい、瀬尾さん。どうしました?」


「僕は、どうしてここに……。あなたは、どなたですか?」


 志保はルームミラー越しに、自分の顔を確認した。泣き腫らした目は隠しようもないが、声だけは落ち着かせる。


「私は志保。あなたの恋人よ。……私たちが昔、よく行った海に行こうって、あなたが言ったの」


 嘘だ。彼はそんなことは言っていない。連れ出したのは志保の独断だ。  だが、こう言うことでしか、彼の不安を鎮めることはできなかった。


「恋人……。僕に、こんなに綺麗な恋人がいたんだ」


 遥斗は少し照れたように笑い、窓の外を流れる闇を見つめた。 「すみません、なんだか頭の中が霞がかっていて。……でも、志保さんの声を聞いていると、とても安心します」


「そう、よかった。……少し、眠っていなさい」


 その言葉が彼の耳に届く頃には、彼はすでに「恋人である志保」という情報を、記憶の淵からこぼし始めている。  志保は、胸の奥が焼けるような痛みを感じていた。  三十六歳という年齢は、嘘を上手に、そして残酷につけるようになる年齢だ。  一分前の自分を忘れ、一分後の自分を見失う男に対して、彼女は「永遠」を演じ続けている。それが、彼に対する冒涜なのか、それとも最後の手向けなのか、彼女自身にも分からなかった。


2

 午前三時、車は海沿いの無人駅に到着した。  十八年前、二人が最後に待ち合わせ、そして永遠に引き裂かれた場所。  潮騒の音が、冷たい冬の空気と共に車内に流れ込んでくる。駅舎は当時のまま、時を止めたようにそこに佇んでいた。


「……海だ」


 遥斗が、ゆっくりと車を降りた。  彼はすでに、志保が「恋人」だと言ったことさえ忘れているようだった。だが、目の前に広がる夜の海を見て、彼の体が微かに震えた。


「瀬尾さん、覚えている? ここ」


「……分かりません。でも、胸が苦しいです。悲しい場所のような気がする」


 彼の魂は覚えているのだ。この海の底に、自分の父と、彼女の父が沈んでいることを。


 志保は懐中電灯を取り出し、父の手紙にあった「三番目の柱」を探した。  古い木造のホーム。潮風にさらされて腐りかけた柱が、闇の中に並んでいる。  一、二……三。


 志保は、柱の根元の砂を素手で掘り始めた。  三十六歳の彼女が、冬の深夜の駅のホームで、泥だらけになって砂を掻く。その姿は狂気そのものだったかもしれない。だが、そうせずにはいられなかった。父が最後に隠した「宝物」が、この地獄のような連鎖を止める唯一の鍵だと信じたかったから。


 やがて、指先に硬い感触が当たった。  それは、小さなプラスチック製の缶だった。


 震える手で蓋を開ける。  中から出てきたのは、一束の札束でも、横領の証拠書類でもなかった。  それは、一台の古いボイスレコーダーと、一枚のICレコーダー用のメモリーカード。そして、志保宛ての短い手紙だった。


『志保へ。 お前がこれを読んでいるなら、私はもう罪を償っているだろう。 瀬尾に誘われ、私は一度だけ道を踏み外した。お前に不自由をさせたくないという一心だった。 だが、瀬尾は直前で私を止めようとした。あいつは、私よりもずっと善人だった。 このレコーダーには、すべての真実が録音されている。 私たちが何をしようとし、そして何が起きたのか。 これを聴いて、お前は自分の道を選びなさい。 愛している。最後まで、醜い父親で済まなかった。』


「……お父さん」


 志保はレコーダーの再生ボタンを押した。  ノイズの向こうから、懐かしい父の声と、瀬尾卓也の声が聞こえてくる。


『野上、やめろ! 志保ちゃんにこんな汚れた金を残して、あの子が喜ぶと思うのか!』 『うるさい、瀬尾! お前の横領を黙っていたのは、このためだ! 俺は、あの子に……!』


 激しい口論。そして、車の急ブレーキの音。  衝撃音と共に、レコーダーの音声は途切れた。


3

 真実は、志保が想像していたよりもずっと残酷で、そして悲しいものだった。  父は、被害者ではなく、瀬尾卓也を脅迫し、無理心中へと追い込んだ張本人だったのだ。  瀬尾は、志保の父を救おうとして、そして遥斗を守ろうとして、海に消えた。


「……志保さん」


 背後から、遥斗が声をかけた。  彼は、レコーダーから流れる父たちの声を聴いていた。  その瞳には、今までになかった「光」が宿っていた。


「……思い出したの?」


「……全部じゃ、ないです。でも、あの夜の海の暗さ、あの冷たさ……。父さんが、僕の手を必死に握ってくれたこと……」


 遥斗の頬を、一筋の涙が伝った。  加速する忘却の中で、父たちの「真実の声」が、彼の脳の奥底に眠っていた記憶を一時的に呼び覚ましたのかもしれない。


「志保さん。……君は、僕のことを、ずっと恨んでいたんですね。僕の父さんが、君の父さんを殺したんだって……」


「……違うわ、遥斗くん。逆だったの。私の父が……」


 志保は、泣きながら彼に寄り添った。  十八年。  二人は、互いの父親の罪という、重すぎる鎖に繋がれてきた。  けれど、その鎖は、本当は愛という名の間違いから生まれたものだった。


 遥斗は、志保の肩をそっと抱き寄せた。  その手のひらの温かさは、十八年前のあの夏の日と、何も変わっていなかった。


「……志保。……愛しているよ。思い出したんだ。僕たちが、この駅で約束したこと」


「遥斗くん!」


 志保は彼の胸に顔を埋めた。  奇跡が起きた。  彼は、私を思い出した。  今、この一瞬、琥珀の秒針が、十八年の時を超えて重なり合った。


 だが。  遥斗の体が、不意に崩れ落ちた。


「……あ、……志保、さん……?」


 彼の瞳から、先ほどの光が、急速に失われていく。  まるで、最後の一滴の油を使い切ったランプのように。


「……あなたは、誰、ですか? ……どうして、僕は泣いているんですか?」


 琥珀の秒針は、無情にも再び、回り始めた。

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