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さようなら、私の愛した、琥珀の秒針  作者: 久遠 睦


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3/3

「加速する忘却」

第三章。「加速する忘却」。


1

 異変は、唐突に、そして残酷なまでに静かに訪れた。  『青瑠璃の森』のサンルーム。冬の柔らかな日差しが、チェス盤の上で微睡まどろんでいた。志保は遥斗の向かい側に座り、彼が次に動かす駒をじっと見つめていた。  数分前まで、二人は十八年前の夏の思い出――ではなく、昨日彼が食べたという林檎のムースの味について、穏やかに話していたはずだった。


「……あれ」


 遥斗の手が、ナイトの駒の上で止まる。  彼は困ったように眉を寄せ、志保の顔を真っ直ぐに見た。その瞳は、先ほどまで通じ合っていたはずの温もりを失い、完全に「見知らぬ他者」を映し出す鏡へと変貌していた。


「あの、すみません。……僕たち、今、何をしていたんでしょうか。そして……失礼ですが、お名前を伺っても?」


 志保の指先が、膝の上で凍りついた。  まだ十分も経っていない。  昨日までは数時間は保っていたはずの彼の記憶が、今、目の前で、会話の途中で断ち切られたのだ。


「瀬尾さん……私よ。野上よ。さっきまで、お茶を飲んでいたじゃない」


「野上さん……。ああ、ボランティアの。……初めまして」


 遥斗は、礼儀正しい、だが完璧に距離のある微笑みを浮かべた。  志保は叫び出したくなる衝動を抑え、机の下で爪が食い込むほど拳を握りしめた。  忘却が加速している。  彼の脳内で、現在を過去へと繋ぎ止める鎖が、音を立てて千切れ去ろうとしているのだ。


 主治医の言葉が、志保の脳裏で不吉にリフレインする。 『損傷が進行している可能性があります。数時間保持できていた記憶が、数分、やがて数秒になる。……そうなれば、彼は自分の名前さえ、書き留める前に忘れてしまうでしょう』


「瀬尾さん、体調は……?」 「いえ、どこも悪くありません。ただ、少し……眠いような、不思議な感覚です」


 遥斗は力なく笑い、いつものようにノートを開こうとした。だが、その手は力なく震え、ペンを持つことさえ覚束ない様子だった。  志保は悟った。  もう、時間がない。  彼が彼であるうちに。そして、彼の中にわずかでも「私」の残滓ざんしが残っているうちに、あの封筒を開けなければならない。


2

 遥斗が午後の検査に呼ばれ、看護師に付き添われて部屋を後にした隙だった。  志保は、誰もいない彼の個室に潜り込んだ。  清潔なリネンの匂いと、微かな消毒液の香り。そこは、過去も未来も存在しない、真空のような空間だった。    机の上に置かれた、あの革表紙のノート。  志保の手は、汗ばんでいた。  ボランティアという立場を超え、一人の男の人生の最も暗い部分を覗き見ようとしている。だが、自分もまた、その暗闇の一部なのだ。    ノートの裏表紙。  あの変色した封筒。  志保は震える指で、糊付けされた部分に爪を立てた。    バリ、と乾いた音が、静かな部屋に響く。    中から出てきたのは、何枚かの古びた写真と、万年筆で綴られた、狂気と後悔が滲む手紙だった。  志保はそれを、窓辺の光にかざした。


『遥斗へ。 お前がこれを読んでいる時、俺はもうこの世にいないか、お前の記憶の中から消えているだろう。 許してくれとは言わない。俺は、お前の未来を、そしてあの男……野上の未来を奪った。 だが、これだけは知っておいてほしい。 十八年前のあの嵐の夜、崖から落ちたのは事故ではなかった。 俺は、野上に頼まれたんだ。 「自分を殺して、保険金を志保に残してくれ」と。 野上もまた、俺の横領の共犯だった。あいつは娘に、泥のついた金ではなく、清らかな死を選ばせようとした。 俺はあいつを救いたくて、あいつを連れて逃げようとした。だが、あいつはハンドルを奪った。 俺たちは二人で死ぬつもりだった。……お前を、後部座席に乗せたまま。』


「……嘘よ」


 志保の膝から力が抜けた。  床に座り込み、手紙を持つ手が激しく震える。  父は、被害者ではなかった。  自分を遺して死んだのは、瀬尾卓也に殺されたからではなく、自分自身の罪に耐えかね、娘に金という名の「遺言」を遺すために選んだ、身勝手な結末だったのか。    そして。  遥斗がすべてを忘れてしまった理由。  彼は、父たちの無理心中に巻き込まれ、海に沈んだ。  彼は、すべてを見ていたのだ。  二人の父親が、自分を道連れに死を選ぼうとした、あの絶望の瞬間を。


(だから、あなたは忘れることを選んだの? あの夜の海が、あまりにも冷たくて、暗かったから……)


3

 背後で、ドアが開く音がした。  志保は慌てて手紙を胸に隠し、立ち上がった。


 そこに立っていたのは、検査を終えた遥斗だった。  車椅子に座った彼は、ひどく顔色が悪く、その瞳は焦点が合っていない。  看護師が去ったあと、彼は志保をじっと見つめた。


「……あ、野上さん。……でしたっけ」


 今度は、数分ではなく、一分も持たなかった。  彼は、自分が先ほどまで志保とチェスをしていたことさえ、もう思い出せない。


「瀬尾さん、大丈夫よ。……私はここにいるわ」


 志保は歩み寄り、彼の冷たくなった手を握った。  遥斗は、自分の手を握る志保の顔を、不思議そうに覗き込んだ。   「あなたは、どうして泣いているんですか? ……そして、どうして僕の、そんなに悲しい……けれど、懐かしい目をするんですか?」


 彼の脳細胞が、現在を認識することを拒否しても、魂の奥底にある何かが、志保の存在に共鳴していた。   「遥斗くん……聞いて。私は、志保。あなたのことが大好きな、志保よ」


「志保……。シホ……」


 彼は、その音を噛みしめるように繰り返した。  だが、その瞬間にさえ、彼の記憶のフィルターは目詰まりを起こし、その名を情報のゴミ箱へと捨て去っていく。


「……すみません。僕、やっぱり眠いみたいだ。……野上さん。もし、僕が目を覚ました時、あなたのことを忘れていたら……また、『初めまして』と言ってくれますか?」


 遥斗の声は、掠れて消えそうだった。   「ええ。何度でも。何度でも言うわ。……だから、少しだけ休んで」


 志保は、彼をベッドに寝かせ、掛け布団を直した。  彼はすぐに深い眠りに落ちた。  琥珀の秒針は、今、止まりかけている。    志保は、胸の中にある父の罪、瀬尾の罪、そして二人の崩れ去った人生の重みを感じていた。  彼がすべてを忘れ、空っぽになることでしか救われないのだとしたら、真実を告げることに何の意味があるのだろうか。


 だが、手紙にはまだ続きがあった。  写真の裏側。そこには、小さな、地図のような印が描かれていた。


『海辺の駅、三番目の柱の下。そこに、野上が最後に隠した「本当の宝物」がある。』


 本当の、宝物。  それは、血に汚れた金なのか。それとも、別の何か。


4

 志保は、眠る遥斗の寝顔を見つめ、決意を固めた。    彼がすべてを失う前に。  この世界に、瀬尾遥斗という男が存在した証を、彼の記憶ではなく、自分という存在に刻みつけるために。    三十六歳の志保は、初めて「効率」でも「分別」でもない、破壊的な衝動に身を任せることにした。    彼を、ここから連れ出す。  あの海へ。  すべての終わりが始まり、そして今、すべてが消えようとしている、あの場所へ。


 彼女は、彼が大切にしていた革表紙のノートをバッグに詰め込んだ。  そして、病院の非常口へと、静かに車椅子を押し出した。    冬の夜気が、二人の頬を撫でる。  加速する忘却の中で、志保だけが、止まった琥珀の時間を逆回転させようとしていた。



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