偽りのサンクチュアリ
第二章:偽りのサンクチュアリ ― 琥珀の秒針 ―
1
その夜、志保は一睡もできなかった。
目を閉じれば、雨のホームに立つ遥斗の、透明なほどに空虚な瞳が浮かんでくる。
彼がノートをめくる指先。そこに書き留められた、他愛もない日常の断片。かつて二人が分かち合った、あの熱い夜も、潮騒の音も、絶望の叫びも、そのノートのどこにも存在しなかった。
(忘れられることは、死ぬことよりも残酷だわ)
翌朝、志保は会社に一週間の休暇を届け出た。
有能なマーケティング部員としての彼女は、理由を問う上司に「家庭の事情」とだけ告げ、完璧な引き継ぎ資料を残してオフィスを後にした。
彼女が向かったのは、昨夜、遥斗が乗り込んだタクシーの行き先――彼が身につけていたストラップのロゴから割り出した、郊外のケア施設だった。
『青瑠璃の森』
その施設は、豊かな雑木林に囲まれた、静謐な場所に建っていた。
最新の設備と、行き届いた庭園。入居費は、一般的な会社員の年収を遥かに上回るはずだ。
志保は、ロビーのソファに座り、窓の外を眺めていた。
なぜ、彼はここにいるのか。
十八年前、彼の父・瀬尾卓也が志保の父を裏切り、巨額の横領事件を起こして失踪したあと、残された遥斗もまた街から消えた。
加害者の息子と、被害者の娘。
その宿命が、二人の恋を無残に引き裂いたはずだった。
「……あ、昨日の方」
柔らかな声に、志保は肩を震わせた。
ロビーの回廊から、遥斗が歩いてくる。
今日は雨が上がり、柔らかな冬の陽光が彼の白いセーターを照らしていた。
彼は志保の前に立つと、昨日と同じように、戸惑ったような、それでいて人当たりの良い笑みを浮かべた。
「昨日は失礼しました。駅で僕を助けてくれた方……でしたよね? ええと、お名前は……」
彼は再び、ポケットからあのノートを取り出そうとする。
志保は、それを制するように手を差し出した。
「いいの、瀬尾さん。覚えなくていいわ。……私は、野上志保。今日からこちらで、ボランティアとしてお手伝いをさせていただくことになったの」
嘘が、滑らかに口から零れ落ちた。
嘘をつくたびに、胸の奥で何かが壊れる音がする。
けれど、彼にとっての「初めまして」であり続けるためには、これしかなかった。
「ボランティア……。そうなんですか。わざわざ僕のような者に」
「ええ。瀬尾さんに、お話を聞かせてもらえたらと思って」
遥斗は、少しだけ照れたように目を細めた。
その表情は、十八歳の頃の彼そのものだった。
時間は、彼の中だけで止まっている。あるいは、積み重なることなく消え続けている。
2
それからの数日間、志保は「ボランティア」という名目で、毎日のように遥斗の元を訪れた。
施設の庭を散歩し、温かいお茶を飲み、他愛もない会話を交わす。
彼は数時間ごとに志保のことを忘れ、そのたびに志保は「初めまして、野上です」と挨拶を繰り返した。
それは、世界で最も孤独なルーティンだった。
彼は志保に、自分の病について淡々と語った。
「前向性健忘、というらしいです。十八年前のある『事故』を境に、新しい記憶が長く保てなくなりました。眠れば、その日の出来事はすべて消えてしまう。だから、このノートが僕のすべてなんです」
彼は、愛おしそうにノートを撫でた。
志保は、その「事故」という言葉に反応した。
「……事故、だったの? その病気の原因は」
「担当の先生はそう言っています。でも、どんな事故だったのか、僕自身は思い出せません。……ただ、時々、夢を見るんです。酷く波の音がして、誰かが泣いているような……そんな夢を」
志保の心臓が、早鐘を打つ。
あの日。
卓也の横領が発覚し、志保の父が自ら命を絶った、あの嵐の夜。
遥斗は、父と共に逃亡する車の中で、崖から海へ転落したのだ。
父は死に、遥斗だけが助かった。
だが、その代償として、彼は「現在」を失った。
(あなたは、忘れることで自分を守っているの? それとも、神様が与えた罰なの?)
志保は、震える手で自分のカップを握りしめた。
彼がすべてを忘れて幸せそうに笑うたびに、志保の中の「十八歳の少女」が、血を流して泣き叫んでいた。
ある午後、遥斗が席を外した隙に、志保は彼がテーブルに置き忘れたノートを手に取った。
中をめくる。
そこには、ここ数日の志保との交流が、簡潔に記されていた。
『野上さんという女性が来た。とても落ち着いた、綺麗な人だ』
『野上さんは、僕の話をよく聞いてくれる。なぜか、懐かしい香りがする』
『野上さんは、時々とても悲しそうな目をする。どうしてだろう』
文字を追うごとに、視界が滲む。
彼は、覚えていなくても、志保の存在を心で感じていた。
だが、ノートの最後のページ、表紙の裏側に、小さな封筒が貼り付けられているのを見つけた。
それは、古びて変色し、封印が固く閉じられていた。
表書きには、彼の文字ではない、歪んだ筆跡でこう書かれていた。
『遥斗へ。お前がすべてを忘れても、これだけは読んでおけ』
志保は、それが遥斗の父・瀬尾卓也の遺言であることを直感した。
3
「野上さん、何を見ているんですか?」
遥斗の声に、志保は飛び上がるようにしてノートを閉じた。
彼は、いつの間にか後ろに立っていた。
その瞳には、一瞬だけ、鋭い知性が宿ったような気がした。
「……あ、ごめんなさい。つい、中が気になって」
「いいですよ。どうせ、僕が忘れてしまうことばかり書いてあるんですから」
遥斗は志保の隣に座り、ノートを手に取った。
そして、先ほどの封筒に指を触れた。
「それ……、開けないの?」
志保が震える声で尋ねると、遥斗は困ったように微笑んだ。
「施設の方には、開けない方がいいと言われています。これを読むと、僕の『今の平穏』が壊れてしまうからって。……でも、野上さん。僕は時々、怖くなるんです。何も知らないまま、琥珀の中に閉じ込められたみたいに生きている自分が」
彼は、窓の外に広がる冬の空を見上げた。
「僕の時間は、十八年前で止まっている。でも、肉体は年を取っていく。鏡を見るたびに、知らない男が立っているような気がして……。野上さん、あなたは知っているんでしょう? 僕が誰なのか。僕が、何をしたのか」
志保は言葉を失った。
36歳の大人として、彼に真実を告げるべきなのか。
あなたの父親は人殺し同然の詐欺師で、私の父を死に追いやった。そして私たちは、愛し合っていたけれど、憎しみ合うべき運命にあるのだと。
けれど、それを告げたとして、彼は明日にはまた忘れてしまう。
残されるのは、志保が放った言葉の毒だけだ。
「……いいえ。私は、ただのボランティアよ」
志保は、自分に言い聞かせるように答えた。
「瀬尾さんは、瀬尾さん。それだけでいいわ。……明日も、また来てもいいかしら?」
遥斗は、満足そうに頷いた。
「ええ。お待ちしています。……きっと、初めまして、と言ってしまうでしょうけれど」
4
その夜。
志保は一人、宿泊しているホテルで、遥斗のノートの裏にあった封筒を思い出していた。
施設の職員が「開けない方がいい」と言ったのは、そこに何が書かれているからか。
志保はスマートフォンを取り出し、かつての事件を検索した。
十八年前。瀬尾卓也の横領事件。
当時のニュース記事には、衝撃的な一文が添えられていた。
『共犯の可能性。被害者の野上氏と、瀬尾氏は、密かに連絡を取り合っていた形跡あり――』
「……え?」
志保の指が止まった。
父は被害者だった。瀬尾に裏切られ、すべてを失って死んだはずだ。
なのに、共犯?
志保の記憶の中の父は、厳格で、潔癖な人だった。
だが、あの日。
父が死ぬ直前、志保に向かって言った言葉を思い出す。
『志保、すまない。……すべては、お前の未来のためだったんだ』
あの言葉の意味は何だったのか。
志保は、闇の中に引きずり込まれるような感覚を覚えた。
もし、自分の父もまた、罪を犯していたとしたら。
もし、遥斗が記憶を失ったあの事故が、ただの不運ではなかったとしたら。
志保は、琥珀の秒針が刻む音を、自分の鼓動のように感じていた。
真実を知ることは、彼を救うことではない。
二人を、永遠の地獄へと繋ぎ止めることかもしれない。
それでも、志保は止まれなかった。
36歳の冬。
彼女は、偽りのサンクチュアリの扉を、自分の手で壊そうとしていた。




