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さようなら、私の愛した、琥珀の秒針  作者: 久遠 睦


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1/2

一人分の食卓 ― 琥珀の秒針 ―

第一章:一人分の食卓 ― 琥珀の秒針 ―

1

 三十六歳という年齢は、人生という織物において、糸の色を変えるのがひどく難しくなる時期なのかもしれない。

 野上志保のがみ しほは、深夜のキッチンで独り、湯気の立つコーヒーカップを見つめていた。

 食品メーカーのマーケティング部で働く彼女の毎日は、数字と流行、そして効率という名の歯車で構成されている。かつて抱いていたはずの、胸が張り裂けるような情熱や、世界が色彩を変えるような恋心は、とっくの昔に「生活」という名の地層の下に埋もれてしまった。

 ふと、壁に掛けられた古い振り子時計に目をやる。

 父が遺したその時計は、琥珀色の文字盤の中で、鈍い金色の秒針を刻んでいた。

 チク、タク。

 規則正しいその音を聞いていると、自分の心もまた、この琥珀の中に閉じ込められた太古の虫のように、身動き一つ取れずにいるのではないかという錯覚に陥る。

「……もう、こんな時間」

 志保は一口、冷めかけたコーヒーを啜った。苦みが喉の奥に張り付く。

 独り身のマンション。整えられたインテリア。誰にも邪魔されない自由。

 手に入れたものは多いはずなのに、時折、鏡に映る自分を見ると、中身がすっかり空洞になってしまったような気がして、怖くなることがあった。

 十八歳の夏。

 あの日、あの海辺の駅で、彼女の「本当の人生」は一度死んだのだ。

 それからの十八年は、ただその残像をなぞり、痛みを感じないように麻酔を打ち続けてきた日々に過ぎない。

 窓の外では、冬の雨が静かに降り始めていた。


2

 翌日の夕刻。仕事帰りの志保は、オフィスを出て、雨に煙る駅のホームに立っていた。

 傘を打つ雨音が、周囲の雑踏を遠ざけていく。

 冬の雨は容赦なく体温を奪い、コートの襟を立てても、心の隙間に冷たい風が入り込んでくるようだった。

 ふと、向かい側のホームに停まった電車から、一人の男が降りてくるのが見えた。

 志保は、息を止めた。

 ベージュのコート。少し長めの髪。

 周囲の慌ただしい人々の中で、その男だけが、別の時間が流れる場所から迷い込んできたような、不思議な静寂を纏っていた。

 傘も差さず、雨に濡れるのも厭わずに、彼は呆然と駅の看板を見上げている。

(……まさか)

 心臓が、耳元で鐘を打った。

 ありえない。そんなはずはない。

 十八年もの間、夢の中でさえその顔は霞んでいたはずなのに。

 なのに、なぜ一瞬で分かるのか。

 なぜ、名前を呼ぶよりも先に、全身の血が激しく波立つのか。

「……遥斗くん?」

 喉の奥で、震える声が漏れた。

 志保は、無意識に階段を駆け下りていた。パンプスのヒールが濡れたタイルを滑り、転びそうになる。傘を放り投げ、人混みをかき分け、線路を跨ぐ通路を走る。

 なりふり構わず、彼女は彼を追った。

 三十六歳の分別の良さも、プライドも、すべてが泥のように剥がれ落ちていく。

 向かい側のホームに辿り着いた時、男はまだそこに立っていた。

 降り注ぐ雨の中、彼は自分の手のひらを見つめていた。まるで、そこに書いてある何かを確認しようとしているかのように。

「……遥斗くん」

 志保は、彼の数メートル手前で足を止めた。

 肩が激しく上下する。雨と汗が混じり、視界が滲む。

 男がゆっくりと、こちらを振り返った。

 十八年前の面影。

 優しく、どこか悲しげな目元。真っ直ぐな鼻筋。

 彼だ。間違いなく、瀬尾遥斗せお はるとだった。

 志保が世界で一番愛し、そして世界で一番憎むべき相手の、息子。

「遥斗くん……私よ。志保よ。野上志保」

 志保は、祈るような気持ちで一歩踏み出した。

 ようやく会えた。

 この十八年、死ぬことよりも辛かった「空白」が、今、埋まろうとしている。

 彼が私の名前を呼び、あの日の続きが始まる。たとえそれが地獄の続きであったとしても、彼がそこにいれば……。

 しかし。

 遥斗の瞳は、志保を捉えながらも、そこには何の色彩も宿らなかった。

 彼は不思議そうに首を傾げ、濡れた唇を微かに動かした。

「……あの、すみません。どなたですか?」

 世界から、音が消えた。

 雨音も、電車の騒音も、人々の話し声も。

「……え?」

「僕と、どこかでお会いしましたか? ……すみません、今、少し混乱していて」

 彼は困ったように笑った。その笑顔は、かつて志保が大好きだった、太陽のような輝きを失っていた。

 ただ、見知らぬ人に向ける、礼儀正しくも冷ややかな「拒絶」だけがあった。

 志保は、自分の指先が、指先から順に凍りついていくのを感じた。

 彼は、覚えていない。

 あんなに深く愛し合い、あんなに激しく引き裂かれた、あの夏の日のことを。

 共に逃げようと誓い、そして、彼の父が私の父からすべてを奪った、あの血塗られた真実のことを。

「……初めまして。……ですか?」

 志保が掠れた声で問うと、遥斗は自分のコートのポケットから、一冊の小さなノートを取り出した。

 彼はそれを開き、雨に濡れないように庇いながら、ページを捲った。

「ええと、今日は一月十七日……。あ、すみません。僕、記憶が少し長く持たないみたいで。このノートに書いていない人は、僕にとってはみんな『初めまして』なんです」

 彼は、ノートの中身を志保に見せた。

 そこには、震える文字で、今日一日の行動がびっしりと書き込まれていた。

 

『午前十時、朝食を食べる』

『十一時、散歩。公園に猫がいた』

『午後、電車に乗る。理由は……思い出せない』

 志保は、そのノートを見て、激しい眩暈に襲われた。

 彼の記憶は、砂時計の砂のように、常にこぼれ落ち続けている。

 そこには、十八年前の海も、志保の名も、二人の間に流れた愛憎の記録も、何一つ残されていなかった。

「……野上さん、とおっしゃいましたっけ。すみません、急に泣き出したりして、どうしたんですか?」

 遥斗が、心配そうに手を伸ばそうとして、躊躇う。

 志保は、自分が泣いていることに、その時初めて気づいた。

 

 残酷な再会だった。

 忘れられずに、三十六歳までその重みを背負って生きてきた自分と。

 すべてを忘れ、真っ白な世界で「初めまして」を繰り返す彼。

 叶わない。

 どんなに手を伸ばしても、彼の心の中にある「私」に触れることは、もう二度とできない。

「……なんでもないの」

 志保は、涙を拭い、精一杯の微笑みを作った。

 

「……道に迷ったのかと思って。……初めまして、瀬尾さん。私は、野上志保。……ただの、通りすがりの者です」

 彼女は、自分自身の心を、もう一度琥珀の中に閉じ込めた。

 今度は、永遠に開かないように。

 けれど、雨は止まず、琥珀の秒針は、残酷に時を刻み続けていた。


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