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まなか>おはよう。今日は美術館の日だよね。行っていい?
静橋>おはよう。別に構わない。
まなか>じゃ、現地で。
静橋>分かった。
こはく>私も行きまーす!
まなか>じゃ、一緒に行きましょ。
こはく>はーい!
まなかはスマホをしまい、文庫本を広げる。
静橋もスマホをポケットに入れて、持ち直した鉛筆を動かし始めた。
朝の教室。
まなかは昨日までと同様、静橋には声をかけない。静橋もまた話しかけてきたりはしない。二人は視線を合わせることもない。
しかし昨日と決定的に違うのは関係が修復したことだ。いまものこのようにLINEでメッセージをやりとりをし、放課後の予定を決めた。
まなかは「仲直り」ができたことに深く安堵していた。そこまで安堵したことが自分でも意外だったが、それだけ静橋を頼っていたのだろう。今日はその理由を伝えるつもりだった。
この日、クラスでは席替えがあった。まなかは廊下側の中央寄りの席となり、静橋は窓側の一番後ろ(まなかの席だった場所)になった。物理的にかなり離れたことになる。
静橋の隣の席は少し派手な感じのする女子だった。確か、片倉という名前だった。
クラスメイトたちはまなかと静橋から関心を失っているが、これでますます二人の関係に気づく可能性は低くなるだろう。静橋にとって何よりなことだとまなかは思う。
◇
「事情は聞いた。いろいろと負担をかけていたみたいで、ごめんね」
美術館の通路を歩きながらまなかが静橋の背中に告げる。
「謝る必要は無い。橘にも昨日言ったが、怒ってもいない」
「そう言ってくれると気持ちが楽になるかな」
「むしろ気を遣ってくれたようで、逆にすまない」
「気にしないで」
まなかがまわりの視線を集めるのは何も学校限定のことではない。外でも視線を投げかけられることが多い。
一人でいる時は気にしないが、今日は静橋が一緒だ。だからまわりの注目を集めないように変装をしてきた。デザイン性に乏しい白の布マスクと黒縁の伊達メガネ。「美少女を封印しますっ!」とこはくが提案したことだった。もっとも、平日の美術館、しかも特別展ではなく常設展示の会場は人がほとんどいなかったのだが。
「でも静橋先輩、高校生男子としては異色ですよね。普通、見せびらかしたくなるじゃないですか」
静橋は壁に掛けられている絵を見ながら軽く肩をすくめる。
「まあ、おれは普通じゃないからな」
「あ、ごめんなさい。そういう意味では」
こはくが慌てて口を押さえる。
「デリカシーのない言い方でした。私、よく言われるんです。もっと考えてから口にしろって」
「気にしていない。それに、辻ヶ花のような女子と一緒なら自慢だしな」
「ですよね〜〜〜」
「それはそれとして、橘は変装しないんだな」
「私ですか? 私は変装する必要なんてないですからねっ! あ、それとも」
「なんだ?」
「私の顔がみっともないから隠せと? 人目にさらすな、とそう言うんですね静橋先輩は!」
「そんなことは言ってないだろう。それに、みっともないことはないと思うが」
「静橋先輩は私の顔を見たことがないから、そんなことが言えるんですよ」
「見たことはある」
「チラ見でしょ?」
「ま、そうだな」
人と目を合わせることが苦手な静橋には他人の顔をじっくり見る機会はないのだろう。こはくのように可愛い女子を直視できないなんてもったいないことだな……とまなかは思う。もっとも、こはくは自分の魅力にまったく気づいていないようだが。
「私なんて垂れ目で下ぶくれで、タヌキみたいな顔をしてるんですよ」
後で知ったことだが、静橋もこの時「こいつは自分がいかに可愛いかに気づいていないんだな」と思ったそうだ。「そこがまたいいんだけどな」とも。しかし照れもあって、その気持ちをストレートに口にすることはできず、ただこう言った。
「タヌキはタヌキでキャラ的にはプラスだと思うが」
しかし、そんな微妙な言い回しがこはくに通じるはずもない。
「気を遣わなくていいですよっ! あ、ていうか、タヌキ顔だから化けて見せろと? なれるものなら美少女にと? それってひどくないですか、静橋先輩っ!」
こはくは頬をぷうとふくらませる。思わず写真に撮りたくなったまなかは、ふとあることに気づく。そして、展示室に飾られている作品を見わたし、一枚の絵に近づいて行った。
それは、肖像画だった。地味な服に身を包んだ若い女性が椅子に腰を掛けている。目はまっすぐにこちらを見ていた。
まなかは静橋に手招きをし、絵を指さした。
「こういう絵は大丈夫なの?」
こちらを見ている人物の絵を鑑賞するには当然ながら、目も見つめることになる。この場合も静橋は負担を感じるのだろうか……?
「さすがに絵画は大丈夫だな」
「そうなんだ。じゃ、写真は?」
「写真も基本的には大丈夫だと思う」
「生身の人間だとキツイんだね」
「そうだな」
「こういうのって慣れの問題という面もある気がするんだけど」
「そうかも知れないな」
人の顔を見ることができないと、イラストを描く際に支障をきたしたりしないのだろうか? 画力向上には人間のモデルをデッサンすることもあるはずだ。そういう時はどうするのだろう?
「静橋クン。私にできることがあったら言って。協力するから」
「すまない」
「私もタヌキなりにお手伝いしますよっ!」
こはくがぴょんと跳ねてまなかの腕にしがみついてきた。二人は顔を見合わせて笑う。静橋はあさっての方向を見ているが、まんざらでもないニュアンスがにじみ出ていた。
まなかは自分の気持ちが満たされている実感を得ていた。一人でいることが多かったので、こういう時間は新鮮だった。ずっと続けばいいと思った。
三十分後には失意の涙を流しているとは、この時点では思いもよらなかった。