2-1
こはくはまなかが静橋から距離を置いたことを心配していた。
距離を縮めても開けても心配するのだから、まなかとしては苦笑するしかない。
「静橋クンにはずいぶん迷惑をかけていただんだから、これでいいのよ、こはくちゃん」
そう言い聞かせたつもりだったが、こはくは納得などしていなかった。まなかが静橋に対して罪悪感を覚えていることを気にかけていたのだった。そして、まなかのことを許すように静橋へ直談判をした。
その報告を受けたのは過呼吸騒動が起きて十日以上過ぎた月曜日のことだった。
学校から帰って机に向かっていると、こはくから電話があった。いつもはメッセージを飛ばしてくるこはくが電話をかけてきたことに首をかしげながらスマートフォンを手にする。
「あ、まなか先輩! 大丈夫ですっ! 静橋先輩は怒ってなかったですよ!」
「……どういうこと?」
「今日の放課後、静橋先輩と動物園に行ってきたんですっ!」
「詳しく話してもらえる?」
「そのつもりで電話しました!」
そしてこはくは話し始めた。
◇
放課後、昇降口で待ち伏せをしていたこはくは静橋の姿を見つけて尾行を始めた。
本当はすぐにでも声をかけたかったが、また妙なウワサをたてられても困る。こはく自身は困らないが、静橋に迷惑をかけてしまう。それがまなかの望まないことだということは分かっていた。
そのため、他の生徒の姿が見えなくなったタイミングで話しかけるつもりだった。静橋は下校時に動物園か植物園か美術館に寄り道することは聞いていたので、そこで話をすればいい。
校門から出て二十分ほどたった頃、他の生徒の姿が見えなくなった。
「静橋先輩!」
たたたた、とこはくが駈け寄ると静橋は振り向きもせずに言った。
「やっぱりお前か、橘。さっきから後を尾けてただろう」
「げ。なんで分かったんですかっ⁉」
「電柱や自動販売機の陰に小走りで移動していたじゃないか。ああいうのは逆に目立つぞ」
「むむ。不覚でした」
「何かおれに用か」
「少しお話がしたいんですが、いいですか」
「おれはこれから動物園に行く。そこで話すということでもいいか」
「いいですよ。動物園なんて久しぶりですっ!」
園内に入った二人はシマウマの折の前のベンチに並んで座った。静橋はスケッチブックを開いて鉛筆を動かし始める。
「それで話というのは?」
「まなか先輩のこと、許してあげてほしいんです。本人は大丈夫って言ってますけど、けっこう落ち込んでいます。私には分かります!」
「許すも何も、辻ヶ花がおれに何かしたか? 過呼吸のことなら、あれはおれの弱さのせいであり、あいつのせいではない。つまり、落ち込む必要はない」
「ふぇ? そ、そうなんですか? 怒ってないんですか?」
「怒る理由がない。あいつは弁当に誘ってくれた。で、おれが勝手に倒れた。それだけのことだ。なぜ怒らなければならない」
「いやいやいや、マジで? あれ? あっさり解決してるぞ。むー」
「解決したならいいじゃないか」
「だったら、まなか先輩が話しかけても問題ないってことですか?」
「問題がないことはない」
「どっちなんですかっ!」
思わず立ち上がって両腕を振り回すこはくに静橋は苦笑を浮かべる。
「そもそも辻ヶ花はなぜおれなんかに興味を持ったんだ?」
「そこ、謎ですよね〜」
再びベンチに座って意味もなく伸ばした両足をパタパタと動かす。
「確かに謎だ」
「まなか先輩って美少女じゃないですか」
「校内一と言われているな」
「そういう美少女から話しかけられることで緊張して過呼吸になったって保健の先生が言ってましたよ」
「それは違うな」
「ほほー、違うんですか」
こはくは静橋の横顔を見る。静橋の目はスケッチブックとシマウマを行き来していた。
「正直、辻ヶ花から話しかけられるのはうれしい。おれは学校ではずっとぼっちだったからな。辻ヶ花のように好意的に話しかけてくる奴はいなかった。だから怒るどころか感謝していると言っていいくらいだ」
「静橋先輩、むっちゃ素直じゃないですか」
「ただ、相手が辻ヶ花という点が少々問題で、それはさっきも橘が言った通り、あいつが美少女だからだな。どうしても注目を集めてしまう」
「中学時代からですよ」
「おれは、それが困るんだ」
「注目を集めることがですか?」
「そうだ」
「あー、なんとなく分かります。変なウワサもたてられますしね。でも気にしないことですよ。慣れです、慣れ!」
「簡単に言ってくれる」
静橋は再び苦笑を浮かべた。
しばらく二人は黙り込む。静橋の手だけが軽快に動いていた。
スケッチブックにはシマウマが立体的に描き出されている。のぞきこんだこはくが感心の声を漏らす。
「上手ですよね〜〜〜」
「まだまだたいしたことはない」
「たいしたこと、ありますよ!」
こはくは顔をあげて静橋を見つめる。
静橋は「思わず」といった感じでこはくの顔をチラッと見て「うっ」と呻き、すぐに目をそらした。額に汗がにじみ始めていた。
「静橋先輩、顔色が悪くないですか。もしかすると、また……」
「橘。反対を向いてくれないか」
「反対? あ、はい」
こはくはくるりと静橋に背を向ける。
「そのままでおれの話を聞いてもらっていいか」
「いいですけど……私、もしかして匂いました?」」
「いや、大丈夫だ。基本的にお前はいい匂いがする」
「うえー。ちょっと引いちゃいますよ、そのコメント」
「とにかく、こっちを見ないでいてくれたらありがたい」
「分かりましたっ! だったらキリンを見ておきますね」
「そうしてくれ」
「キリンって、なんであんなに首が長いんですかね」
「事情があったんだろう」
「きっとそうなんでしょうね。長い歴史のなかで」
答えながらこはくは横顔に静橋の視線を感じた。頬のあたりがくすぐったくなる。もしかすると自分のことを描いているのかも知れない。もしそうなら、言ってくれればモデルくらいするのに、と思った。
「静橋先輩、もし私で良ければ、」
と振り向こうとした時、静橋が強く制する。
「ダメだ、ストップ!」
「は、はい!」
思わず背筋がピンとなった。
「悪かった。大きな声を出して。じつはな、橘」
そこで静橋は逡巡したが、意を決したように告げた。
「おれは他人の視線にかなり敏感なんだ。ハッキリ言って怖い」
「怖い? 視線が?」
「そうだ」
「むー。何となく分からないでもないですけど」
「おれは人と目を合わせることができない。人から凝視されるのもキツイ」
「恥ずかしがり屋さんなんですかね?」
「そんな可愛いものではないと思う。どちらかというと病気に近いかも知れない」
「あ、もしかして最初に会った時に私と目を合わせようとしなかったのも?」
「そうだ。怪しいとお前は言ったが、事情があったんだ」
「そうでしたか。それはあの、ごめんなさい」
「謝る必要はないし、別に気を遣うこともない。ただ、おれはそういう人間だから、大勢の人から見られると緊張してしまうんだ。それはおれの弱さであり、決して辻ヶ花や橘が悪いという話ではないことを知ってもらいたかっただけだ」
「まなか先輩と話すこと自体はOKなんですよね?」
「基本的にそうだな」
「美少女であっても」
「顔を見て話すわけじゃないから、そのへんは関係ないな」
「あはは、それもそっか! 静橋先輩って面白いですね」
「別に面白いことを言ったつもりはない」
「あ、ごめんなさい」
「謝らなくてもよろしい」
こはくは静橋に背を向けたまま確認する。
「まなか先輩と話すことは全然OK。でも、まなか先輩は何かと注目される人だから、校内で話すと静橋先輩にも視線が集まる。そういう事態は避けたい、とそういうことですね」
「その通りだ」
「それを聞いたら、まなか先輩も安心すると思います」
「放課後なら、いつでも声をかけてくれと伝えておいてくれ。できれば、人目の少ないところがありがたい」
「分かりましたっ! あ、そだ。静橋先輩、LINEしてます?」
◇
「ということなので、友だち登録しておいて下さいね!」
こはくは静橋のLINEIDをまなかに教えたあと、通話を終えた。