1-3
翌日。
まなかが教室に入った時、すでに静橋は自分の席に着いていた。スケッチブックを開いて、せっせと鉛筆を動かしている。
「静橋クン、おはよう」
「ああ、おはよう辻ヶ花」
挨拶は返してくるが、顔をあげようとはしなかった。とりようによっては非礼な態度だが、まなかは気にしなかった。むしろ、寸暇を惜しんで描いている姿勢に好ましささえ覚えている。
いろいろと話したい気持ちもあったが、邪魔をするのも悪いと思い、文庫本を取り出す。
まなかはまなかで実践することがある。電子書籍ではなく、まわりの目を気にすることなく紙の本を読むこともその一つだった。
「静橋〜。お前、性懲りもなくまだそんなことやってんのかよ。現実を見ろとあれほど言ってやったのに」
そんな声が聞こえ、まなかは目だけをあげる。静橋の席の横にひょろっとした体型の高梨が立っていた。
「またお前か、高梨。頼むから邪魔をしないでくれ」
「ひでーな、お前。別に邪魔なんてしてないだろ。お前のためを思っての忠告だって何度言ったら分かってくれるのかなあ」
まなかはパタンと文庫を閉じて、静橋の背中をちょんちょんとつついた。静橋は半身だけ後ろを向く。
「なんだ、辻ヶ花」
「今日は植物園だったよね」
「そうだな」
「一緒に行っていい?」
「まだ用事があるのか? 昨日で済んだんじゃなかったのか?」
「いいじゃない」
「まあ、いいんだが……。では、現地集合で」
「一緒に行こうよ」
「それは申し訳ないが遠慮させてくれ」
「私、歩けるけど」
「いや、しかしだな」
「私といると目立つんだっけ? そんなの気にしなくていいと思うけど」
「……分かった」
静橋は不承不承といった顔でうなずいた。
まなかと静橋が話をしている最中、高梨は呆気にとられた顔をしていた。
まなかと静橋。意外な組み合わせとでも思ったのだろう。
だが、まなかとしては、静橋が実践していることに茶々を入れる高梨を阻止したいとの思いがあった。植物園のことを理由に話しかけたのはそのためだ。
ただ、植物園に同行したいと告げたことで、本当に自分がそう思っていることを知った。静橋との会話を楽しみにしていることに気づいたとも言える。
高梨は何か言いたそうな様子だったが、まなかは気づかない振りをして文庫本を再び開く。
じきに予鈴が鳴った。
◇
よほど目立つことがイヤなのだろう、静橋は大股で歩いて行く。そのあとをまなかは小走りについて行く。一緒に行こうとわがままを言ったのは自分なので、文句を言わずに静橋のがっしりとした背中を追う。
身体が大きいのは筋トレの成果と思える。絵を描く人は線が細いというイメージがあるが、静橋の言ったように描き続けるには体力が欠かせない。プロとして活躍している人たちは意外と身体を鍛えているのかも知れない。
(作家にもマラソンをする人が多いし)
校門を出て数分を過ぎたところで静橋は歩行スピードをゆるめた。下校する生徒たちの姿が減ったからだろう。
頭一つ高い静橋の横に並ぶ。
「辻ヶ花。一つ頼みがあるんだが、聞いてもらえるか」
「いいよ。どんなこと?」
「学校ではおれのことをシカトしてくれないか」
「シカト。つまり話しかけるなってこと?」
「有り体に言えばそうなるな」
「それは不便かも」
「放課後、学校の外であればいくらでも話してもらっていいんだが」
「私が話しかけると目立つから?」
「そういうことだ」
「どうして、」
そんなに目立つことがイヤなの? と聞こうとした時、背後からタッタッタという軽やかな足音とともに聞き覚えのある声が追いかけてきた。
「まなかせんぱ〜〜〜い! 待ってくださ〜〜〜い!」
少し舌足らずで、時々高音がかすれるこの声は一年後輩の橘こはくのものだ。振り向くとやはりそうで、小柄な身体の後輩が駈け寄ってくるところだった。
「こはくちゃん、どうしたの?」
二人に追いついたこはくは膝に手をついて「はあはあ」と息を切らしている。何か言いたそうに顔をあげるが、まだ呼吸が整っていないので、すんなりと言葉が出ないようだった。
相変わらず可愛い顔だ、とまなかは思う。
目尻がほんの少し垂れた、あどけなさの残る面立ち。柔らかそうな色白の頬にショートにした髪がかかっている。自分よりもこはくのほうがずっと美少女の愛らしさに満ちていると本気で思う。
静橋の反応がふと気になって様子をうかがってみると、スケッチブックを小脇にしたまま空を見上げていた。こはくの顔を見ても何とも思わないらしい。意外と朴念仁だ。
しかし実際はそうではなかった。これも後に知ったことだが、静橋はこの時、内心で激しく歓喜の声をあげていたらしい。というのも、こはくの顔は静橋にとって好みのど真ん中だったからだ。
「この人がそうですかっ⁉」
ようやく息が整ったらしく、こはくが静橋を指さした。口調に糾弾のニュアンスが感じられたこともそうだが、それ以前に「そうですかっ⁉」の意味が分からなくてまなかは眉をひそめる。
「どういうこと? 静橋クンがどうかした?」
「まなか先輩の彼氏さんだってウワサになっています!」
「はい?」
予想もしなかったことを聞かされて、まなかはついåきょとんとした顔をする。
「その顔、ステキ!」
こはくが抱きついてきた。以前からそうだが、こはくは過剰にスキンシップをとりたがる傾向がある。
「めっちゃ可愛い」
「そ、そう」
頬をすりすりとしてくるこはくをいなしながら、静橋に目を向ける。
「心当たりある?」
「おそらく、朝のやりとりが原因だろうな」
高梨の前で植物園に一緒に行くうんぬんという話をしたことを指しているようだ。
「あれだけのことで?」
「辻ヶ花。それだけお前は注目度が高いということなんだ」
「ホントにまなか先輩とつきあってるんですか⁉」
こはくが詰問口調で問いかける。静橋はそっぽを向いたまま答えた。
「デマだ」
「どうして目をそらしてるんですか。怪しい!」
「別に怪しくはない」
「だったら私の目を見て、まなか先輩とは何でもないって断言してください!」
初対面の上級生に対して物怖じしない態度はこはくの持ち味とも言えるが、静橋に機嫌を損ねて欲しくないまなかはひやひやする。
「ちょっと、こはくちゃん。少し落ち着いて」
「私、まなか先輩が心配なんですっ!」
「その気持ちはうれしいけど、でも静橋クンと私はそういう関係じゃないから」
「ホントに? 信じていいんですね」
「うん、信じて」
「静橋先輩もそれでいいんですね」
こはくは一歩近づいて、下から睨めあげるように確認する。
「もちろんだ」
と答えた静橋だったが、依然として目をそらしている。その態度に不満なのかこはくがじっと見つめる。
静橋の額に汗が浮かんできた。まなかは「まさか……」と思う。一般的に、目をそらして汗をかいている姿からは信憑性が感じられない。やましいところがあると全身で表現しているようなものだ。
(ひょっとすると、静橋クン……)
そう思った時、静橋の顔から血の気が失せ、蒼白になった。直後、胸を押さえて膝をつく。「ひゅーひゅー」というかすれた声が静橋の喉から絞り出される。
その症状にまなかは心当たりがあった。
過呼吸だ。
以前、テレビの健康番組で見たことがある。極度の緊張や不安にさらされた時、人は呼吸をコントロールできなくなる。空気を吸おうとしても思うように入ってこない。浅くしか空気を吸えず、そしてそれを何度も繰り返してしまうため、息苦しさと窒息の恐怖からパニックに陥る……。
テレビの番組では、過呼吸になった人はビニール袋をあてがう処置が効果的だと言っていた。まなかは咄嗟に自分の鞄を開け、こはくにも声をかける。
「こはくちゃん、ビニール袋あったら出してっ! 紙袋でもいいから」
「は、はい」
こはくも慌てて鞄を漁る。
まなかの鞄には生憎と目当てものはなかった。近くにコンビニでもあれば、と思って顔をあげた時、こはくが叫んだ。
「ありました!」
「貸して!」
素早く受けとり、静橋の口もとにあてがう。
「静橋クン、ゆっくり息をして。焦らなくていいから、落ち着いて」
言いながら大きな背中をさする。
静橋は次第に落ち着きを取り戻していった。ホッと安心したタイミングでこはくが飛び上がった。
「ぎゃあ、しまった! それ、返してください! あ、あ、やっぱりいりません! うわ〜、どうしよう!」
「どうしたの、こはくちゃん」
振り向いたまなかにこはくは顔を赤くしながら手にしている物を見せた。体操服だった。
なるほど。本日、こはくのクラスでは体育があったようだ。
そして今日は気温が高かった。汗もかいたに違いない。そのため体操服をビニール袋に入れたのだろう。
まなかに急かされたせいで焦ってしまい、後先を考えずにうっかりビニール袋を提供してくれたようだ。
「こはくちゃん。それ、早くしまいなさい」
静橋には教えないほうがいい。
その静橋は目を閉じて、うつむいたままだった。