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 動物園に訪れるのは小学校の遠足以来だった。

 風にのって動物園特有のにおいが園外にもただよっていた。

 バスから降りたまなかは入口付近で静橋の姿を探したが、見当たらなかった。まさか先に園内に入ったということはないだろう。乗ってきたバスにはいなかったし、もし一本のあとのバスで来るとしたら二十分ほどは待たなければならない。

「ま、いいか」

 鞄から文庫本を取り出し、動物園の外壁に背中を預けて読み始める。

 学校ではスマートフォンで電子書籍を読んでいるが、それ以外の場所では紙の本を読むことにしている。質感や匂いが好きだからだ。

 学校で読まなくなったのは、一年生の時にクラスメイトの女子から「あれって本を読んでますアピールだよね」と聞こえよがしに言われたことがきっかけだった。

 本を読む姿を目障りに感じる人がいることに驚いたが、不要な反感を買いたくもなかったので、以降はスマートフォンに切り替えた。

 スマホでの読書には何も言われなかった。おそらく本を読んでいるようには見えないからだろう。ただ、スマホは眼が疲れやすいので、なるべく紙の本で読みたかった。

「待たせたようだな」

 本を開いて五分もしないうちに声をかけられた。スケッチブックを小脇に抱えた静橋が少し離れた場所に立っている。顔は動物園の入口に向けていた。

「バスじゃなかったの?」

「おれはいつも歩いてくる」

「遠くない? けっこうあるよ」

 学校前のバス停から動物園前のバス停までは十分ほどかかった。歩くと三十分近いだろう。

「辻ヶ花。おれにとっては歩くことも大切な行為なんだ」

「静橋クン。もしかして一緒に来るのをやめたのは、私が三十分歩くのが大変だと思ったから?」

「いや、そうじゃない」

「だったら、どうして?」

 まなかの問いかけに、静橋は少し逡巡したが、やがて答えた。

「辻ヶ花といると目立つからだ」

「目立つ? 私といると? どうして?」

「……お前は自覚がないのか」

「なんの自覚?」

 首を傾げるまなかから背を向けるようにして静橋は続ける。

「辻ヶ花まなかと言えば、うちの高校で一番の美少女として評判が高い。そんな女子と一緒にいると、当然のことながら注目を集める」

「ごめん、私知らなかった。そんな風に言われてたんだ」

「自覚はなかったんだな」

「そうだね。私、ほとんど友だちいないから」

 理由は分からないのだが、まわりから距離を置かれていることは感じていた。いじめを受けているわけではなく、まなかが話しかければ大体は普通に返事をしてくれるが、それ以上のつきあいに発展しないのだ。そのことで特に不自由はなかったので、ほとんど気にはしていなかったが。

「おれも友だちはいない。しかし、辻ヶ花とおれとでは注目度が違う」

「そうなの」

「そうだ。それより話というのはなんだ」

 静橋が本題に入る。

「静橋クン、動物園で何をするの? もしかしてスケッチ?」

「その通りだ。おれは週に二回、ここに来ている」

「描きながらでも話はできるんだよね?」

 学校で話していた時、手を動かし続けていたことを思い出して確認してみる。

「できる」

「じゃあ中に入ろうよ。私も久しぶりに動物園見てみたい」

「ではそうしよう」

 二人は入口に向かう。静橋はポケットからパスケースを取り出してまなかにみせた。

「おれは年間パスポートを持っている」

「そんなのあるんだ」

「かなりお得だぞ」

 静橋の顔はどこか得意げだ。週二で来るなら充分にモトは取れるだろう、とまなかは思った。しかし自分には必要ない。まなかはチケット販売機で学割の入園料を払い、静橋と並んでなかに入った。動物たちの放つにおいが濃くなった。

 動物園は記憶にあるそれよりも狭く感じられた。自分が成長したせいだろう。よくあることだ。

 市が運営するこの動物園は地域の小学生たちにとって遠足の行き先の定番だった。まなかも何度か来たことがある。

 静橋は象の檻に向かった。付近に置かれているベンチに腰を下ろし、スケッチブックを開く。まなかは隣に座った。

「それで話というのはなんだ」

「私、静橋クンのこと知りたいと思って」

「おれの何が知りたい。そもそも、なぜ知りたいんだ」

「興味があるからに決まってるじゃない」

「………」

 静橋の手がふと止まった。象を睨みつけるようにみながら、なにやら口のなかでぶつぶつとつぶやいていたが、あがて小さく首を振ったあとうなずいた。

「よし、大丈夫だ」

「何が大丈夫なの? 私、変なこと言った?」

 後にまなかと静橋の関係はさらに深まるのだが、その時になってまなかは静橋の「よし、大丈夫だ」の意味を聞かされることになる。

 静橋は校内一の美少女から「興味がある」と告げられた時、辻ヶ花まなかが自分に気があるのかと一瞬思ったらしい。しかし、自分のような暗い人間にそんな感情を抱くはずがないとすぐに思い直し、舞い上がろうとする気持ちを抑え込んだ。自分が平静を保っていることを確認し、それが「よし、大丈夫だ」という言葉になったとのことだった。

「何でもない。それでおれの何が知りたいんだ」

「静橋クンって画家になりたいわけじゃないんだよね? 他に目標があるの?」

「おれはイラストレーターになるんだ」

 まるでそう決まっているかのような返答がまなかには新鮮だった。

「どうしてイラストレーターになろうと思ったの?」

「絵を描くことが好きだからだ。おれはずっと絵を描いていられる」

「それを言うなら画家だって同じじゃない?」

「イラストレーターのほうが活躍できる場は多いだろう」

「ま、そういうイメージはあるかな」

「それに画家は芸術家だしな。おれは芸術はよく分からん」

 まなかは静橋が手元で広げているスケッチブックに目をやる。静橋の手は休むことなく動き続けている。真っ白だった紙には目の前にいる象が映し出されていた。特徴をよくとらえているとまなかは素直に称賛する。ここまで描けるようになるまで、どれくらいの時間を費やしたのだろう?

「静橋クンって一日中描いてられる?」

「当然だな。もはや生活の一部だ」

「ホント好きなんだね」

「おれにはそれしかないからな」

「ふーん」

 まなかは空を見上げる。白い雲がぽっかりと浮いていた。鼻が慣れたのか動物園特有のにおいは気にならなくなっていた。風が温かい。

「私にもできるかな」

「ん?」

「あ、ごめん独り言。何でもない」

「そうか」

 静橋は鉛筆を握り直してスケッチを続ける。

「イラストレーターになれなかった時のこと、考えたりする?」

「しないな」

「即答ですか。自信があるんだね」

 返事はなかった。つい揶揄するような言い方になってしまったので、気を悪くさせたのかも知れない。まなかが謝ろうとした時、静橋がぽつんと言った。

「自信などない」

「そうなの? でも」

「そんなことを考えても仕方がないと思うだけだ」

「それはそうだけど」

「イラストレーターになれなかったらどうするかを考えるよりも、イラストレーターになるためにはどうすればいいのか、いま何ができるのかを考えて実践する。おれはそうすることにしている」

「強いね」

「強くない。この努力が実らなかったらという不安はある。当然だ。しかし不安を感じていても絵は上達しない。そう言い聞かせながら毎日描いている。強い奴は不安なんて感じないはずだ」

「そういうものか」

「そういうものだ」

「その実践が動物園の年間パスポートなのか〜」

 きっと、実際の動物の姿を見ながら描くことは上達につながるのだろう。

「それだけじゃないぞ。実は植物園の年間パスポートもおれは持っている」

「なんと。凄いね」

 静橋はさっきのパスケースから市立植物園の年間パスポートを取り出した。

「これで終わりだと思うなよ。こういうのもあるんだ」

 次に取り出したのは美術館の年間パスポートだ。ふと見ると静橋は少年のような顔をしていた。

「動物園のあと植物園と美術館に行くってこと?」

「いや違う。曜日別だ。月水は動物園、火木が植物園、そして金曜日が美術館だな」

「スケッチのために?」

「動物園と植物園はそうだな。美術館は模写をすることもあるが、作品を鑑賞することが多い」

「他に何か実践していることはあるの?」

「筋トレだな」

「筋トレ? 自分の身体をスケッチするために?」

「違う。それはナルシストっぽいだろ」

「確かにそうだね。絵的にも問題ありそう」

 まなかの言葉に同意するように静橋はかすかに笑った。笑うこともあるんだな……。

「筋トレする理由は?」

「絵を描き続けるには体力が必要だからだ」

「あ、それで。静橋クン、さっき歩くことも大切な行為だって言ったよね。それっていまのことと関係ある?」

「大ありだな。体力をつけるために、おれはできる限り歩くようにしているんだ」

 だから動物園にも歩いてきたということなのだろう。

「徹底してるんだね」

「まあな」

 まなかは象を見る。鼻を左右に振りながら足踏みをしていた。耳が時々、パタパタと動く。

「今日の朝、他の男子から現実を見ろって言われてたよね」

「ああ、高梨か」

「高梨クンっていうんだ。すごく説得してたね」

「あいつはおれのことが気に入らないみたいで、二年の時からあの調子で言いがかりをつけてくる。絵ばかり描いてないで運動もしろと部活に誘われたこともある。しごいてやるなどと言ってたな」

「部活? 何部?」

「サッカー部だそうだ。あんな激しいスポーツをして、腕でも痛めたら大変なことになる」

「それは言えてるね。でも高梨クン、なんでそんなに静橋クンのことを気にするのかな?」

「理由は分からないが、おれとしては無視してくれたらありがたいと思っている」

「気に入らないんだけど気になる存在なんだよ」

「勘弁してほしいものだ」

 やれやれといった口調に思わずまなかはクスリと笑う。静橋に対する親近感が増した。

「ねぇ、静橋クンは進学どうするの?」

「美大に行くつもりだ」

「やっぱりそうか」

「辻ヶ花も大学には行くんだろ?」

「たぶん、雇われることを前提の学部にね」

「聞いてたのか」

「うん、聞いてた」

「……そうか」

 静橋は特にコメントはせず、象に陰影をつけていく。立体感が増していった。

「ありがとね、静橋クン。いろいろと質問ばかりしてごめん。でも、参考になった」

「参考? まあ役に立てたのなら良かった」

「私、帰るね」

「ああ。気をつけて」

 まなかは手を振って出口に向かう。他の動物を見てまわりたち¥い気持ちもあるにはあったが、いますべきことはそれではなかった。

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