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選択科目の美術の授業で教師が面白い話をしたらしい。
静橋は当然のことながら美術を選択していたが、まなかの場合は音楽だった。したがってその時は音楽室で授業を受けており、直接見聞きすることはなかった。
以下の話は放課後、静橋が語ってくれたものだ。
◇
きっかけは静橋の描いている絵を教師が目に留めたことにあった。初老の、どこか枯れた雰囲気を持つ美術教師は言った。
「静橋君は大学へ進むのですか?」
「はい。美大を考えています」
「やはりそうですか。基礎はある程度できているようですし、しっかりと技術を伸ばすことですね」
そのやりとりを耳にした生徒の一人が絵筆を持ったまま肩をすくめた。
「でも先生。美大なんて行っても就職ないっしょ?」
「それは誤解ですね。むしろ、自分が望む仕事に就きやすいと思いますよ」
「は? なんで? 画家ってそんなに簡単になれるの? てか、食っていけるの?」
あり得ないだろうという顔の生徒に美術教師は枯れた笑顔で応える。
「君たちは持っている情報が多くないようですね。情報が少ないと精度の高い判断ができません」
「え? 先生、よく分かんないんですけど」
別の生徒が首を傾げる。
「美大に行く人のみんながみんな画家を目指すわけではないんですよ。そもそも私も美大出身ですしね」
「あ、そうなんですか」
「私の通っていた時代と違って、いまの美大ではさまざまな表現方法を学びます。そしてそれは幅広いジャンルで活用が可能です。イラスト、アニメーション、デザイン、映画、写真などが分かりやすい例でしょうか。美大で学ぶ人たちは、そうした方面の仕事に就きやすいということです」
「でも、アニメとか映画とか作ってる会社って有名なところが多いじゃないですか。そういう会社に入るのって一流の大学に行ってなきゃダメですよね」
「美大を一流ではない前提で言っていますね」と美術の教師は苦笑する。「そもそも一流の定義が異なると思いますが、そこは措いておきましょう。簡単な例を出しますよ。テレビ番組を作りたいと思ったら、どんな会社に入ればいいですか?」
「そりゃテレビ局ですよね」
「テレビ局も間違いではありませんが、それ以外にも選択肢はあります。もしテレビ局に入っても、経理や総務の部門に配属されたら番組は作れませんね」
「じゃあ他にどんな選択肢があるんですか?」
「制作プロダクションがありますね。テレビ局から番組制作を請け負う会社です。この制作プロダクションも大手から中堅、零細までさまざまな規模がありますが、番組制作を専門としているだけあって番組を作りたい人にとっては希望が叶いやすいわけです」
「そういや、アニメは割と制作会社が話題になったりするよな」
「どこが作ったとかいうやつな」
生徒たちのやりとりに美術教師がうなずく。
「そうですね。アニメ番組を作りたい人はテレビ局に入るのではなく、アニメの制作プロダクションに入ったほうがずっと早く夢が叶います」
「先生。それって本にも言えますか? 出版社以外の会社が本の編集をすることもあるんですか?」
手を挙げて質問をしたのは女子生徒だった。細いフレームのメガネをかけていて知的な印象があった。
「その通り。出版業界にも編集プロダクションがありますね。書籍や雑誌の編集に関して実務的な作業を行うのは編プロのほうが多いと考えていいでしょうね」
「私、編集者になりたいんですけど、だったら出版社を受けるより、その編プロを受ければいいんですか?」
「どちらも受けていいと思いますよ。入りやすいのは編プロでしょうね。ただし、待遇はよくありません」
「待遇ってお給料のことですか?」
「それだけではありません。残業は多いですし、休みは少ないです。ごくごく控えめに言ってブラックですね」
「それでも好きなことを仕事にできるなら」
「そうですね。基本的にはこの業界はそういう人ばかりです」
「先生、詳しいですね」
別の生徒の言葉に教師が片方の眉をひょこっとあげる。
「私はもともと編プロで働いてましたからね」
「え、そうなんですか⁉」
生徒たちは詳しく聞きたそうな顔をしたが、教師はあっさり無視して話題を戻す。
「美大の就職についてですが、たとえばいま話に出た制作プロダクションや編集プロダクションの存在は一般の人にはほとんど知られていません。そのぶん採用に関する情報も得られにくいことになります。テレビ局や大手出版社なら名前が知られていますし、こうした大手は就活用のナビサイトに採用情報を掲載します。学生はナビサイトを使ってエントリーをすれば、就職試験は受けられることになっています。ただし、並大抵の競争率ではないようですが」
「制作プロダクションとかの就職情報はナビサイトには載らないんですか?」
「ほとんど載ることはないですね。理由はお金がかかるからです。そこまでコストをかけられないという事情がありますね」
「お金? なんのお金ですか?」
「掲載料です。就活のナビサイトは広告ですから、企業がお金を払って紹介記事を作ってもらっているんです。だから大前提としていいことしか書いていません」
「えー、知らなかった」
「ちょっとズルっぽくない?」
あちこちで生徒たちが首を傾げたり眉をひそめたりする。
「いいことしか書かないとは言っても、当然ながらウソは許されないので、その点は大丈夫みたいですけどね。誇大広告はないということです」
美術教師は生徒たちの不信感をなだめようとする。
「もしナビサイトがないとなると、就職活動は大変面倒なものになります。世の中にどんな会社があって、そこが何をしていて、自分がどのような仕事ができるか、さらには給料がいくらで休みは何日とれるか、といったことを自ら調べなければなりません。採用を行っているかどうかも含めてです。それを考えると、ナビサイトは有用なツールと言えます。これも情報の一つです」
そこまで言ったあと、美術教師は壁の時計を見上げて頭を掻いた。
「おっと、肝心な話ができていませんでしたね。どうも私は脱線ばかりするので、最後には収拾がつかなくなってしまいます」
「あ、大丈夫ですよ。僕たち、脱線した話を聞くの大好きなんで」
男子生徒がおどけた調子で言い、美術教室に同意を示す笑い声が湧く。
「なぜ美大に行くと自分の望む職業に就きやすいかという話でしたね。それは制作プロダクションや編集プロダクションとのつながりがあるからです。こうしたところは、お金のかかるナビサイトで採用活動はしていません。必然的に一般の学生の目にふれることも少なくなります。その情報にふれやすいのは、美大生たちなんです。というのも制作プロダクションや編集プロダクションは美大に対して採用情報を提供するからです。美大生は専門的な知識や技術を学んでいるので即戦力として活用しやすい。だから一般の大学に在籍している学生よりも採用の点で優先順位が高いということです」
美術教師は生徒たちを見まわして付け加える。
「絵がとても上手だけど、人と話すことが苦手な学生がいるとします。一方で、絵は描けないけれども性格は明るくて誰とでも仲良くなれるコミュ力の高い学生がいるとします。一般企業が欲しがるのは後者です。でも、絶対に前者が欲しいというところもあるのです。コミュ力など関係ない、という世界ですね。そのことを情報の一つとしてみなさんには知っておいてほしいと思います。コミュ力はあるに越したことはありませんが、なくても通用する世界はあるのです」
ちょうどその時、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「無理に他者の物差しに合わせようとせず、自分のしたいことを前面に出すことも大切です」
美術教師が授業の終わりを告げた時、静橋は恵弥が自分のほうを見るのを目の隅にとらえた。恵弥もまた美術を選択していたのだ。
静橋はしかし、恵弥と視線を合わせることなく、先に教室を出た。
◇
「へえ、そうなんですね。テレビ番組ってテレビ局が作ってるんじゃないなんて知りませんでしたよ!」
こはくが目を丸くして、さも感心したようにうなずく。
まなかはそれよりも編集プロダクションに興味があった。本を読むことが好きなまなかにとって書籍の編集は魅力を感じる仕事の一つだった。編プロでの仕事は作家としての修業にも役立つかも知れないと思った。編集者から作家になった人もいたはずだ。
「私も美大、受けてみようかな」
編プロに入りやすいというのなら、そういう手段もありだと思って深く考えずに口にした言葉だったが、こはくが「おう!」と食いついた。
「それって静橋先輩と同じ大学に行くってことですか⁉ 楽しそうでいいですねっ!」
「あ、別にそういうつもりでは」
なぜかうろたえてしまった。顔が赤らむのを感じて自分でも困惑したほどだ。