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「お前は雇われることを前提に進学先を選ぶんだろう。そもそも、そこからが違っているんだ」
前の席から聞こえてきた言葉に、辻ヶ花まなかはスマートフォンから顔をあげた。目の前に大きな背中があり、右横にひょろっとした男子が立っている。
まなかの席は窓際の一番後ろ。いまの言葉は座っている男子が発したのか、それとも立っている男子が口にしたものなのか、すぐには判断がつかなかった。
ひょろっとした男子は「ふん」と鼻を鳴らしたあと、座っている男子を見下ろす。
「じゃあ、なに静橋。お前は就職をしないってこと? 画家にでもなるつもりなのか。てか、画家なんかになって食っていけると思ってるわけ? どう考えても無理でしょ」
その声で先の発言者がわかった。前の席に座っている男子だ。静橋と呼ばれた彼の返答が聞こえた。
「おれが目指しているのは画家じゃない。たとえ目指しているのが画家だとしても、お前のような考え方はしない」
「どんな考え方をするって言うわけ?」
「食っていけるかどうかよりも、食っていくために何をすればいいかを考える」
まなかはハッと息を呑む。
「はあ? 食えなかった時はどうするんだよ。人生、悲惨だぞ? めちゃくちゃ負け組じゃん」
「悲惨とか負け組とか、そういう言葉が最初から出てくる時点で、お前とおれとは考え方が違うんだ。互いに理解しあえないんだから、この話はもうやめにしないか」
「なんだよ、静橋。負けを認めるってことか?」
「……それでいい」
「よっしゃ論破!」
別に論破などはしていないはずが、相手に負けを認めさせることが彼には大切なんだろう……とまなかは思った。
論破男子はガッツポーズをとるが、静橋はまったく気にしていない感じだった。さっきからずっと右腕を動かしているが、いったい何をしているのだろう?
まなかは伸びをする振りをして身体を傾ける。静橋の手元に開かれているスケッチブックが見えた。
どうやら絵を描いているらしい。なるほど、だから「画家」という言葉が出ていたのだろう。
それにしても新学年の初日早々から絵を描いているとは、少々変わった人のようだ。
「なあ、静橋。悪いことは言わないから、子どもみたいな夢は見ないほうがいいぞ。もう、おれたちは高校三年生なんだぜ。現実を直視しろって」
論破男子は静橋に負けを認めさせたにも関わらず、まだ話を続けるようだ。
「おれは現実を直視しているんだけどな」
「現実を直視していたら、そんなことしてられないだろ。手にするのはスケッチブックじゃなくて参考書じゃないの?」
そう言ったあと、得意そうな顔をする。気の利いたセリフを口にしたと思っているようだ。
「なんでお前はおれのことを心配してるんだ?」
「心配なんかするわけないじゃん。可哀想だから忠告してやっているだけ」
「お前の忠告は必要ない。価値観が異なっているのだから参考にはならないんだ」
「いや、だからその価値観がおかしいんだから、そこを改めたほうがいいっていう忠告なんだって」
「お前が言う価値観を改めるというのは、夢を持たない生き方を選択しろということだろう。そういう生き方はお前自身が選べばいい。おれは遠慮しておく」
「違うって。おれは現実を直視する生き方を大切にしているんだって。お前もそうしたほうが絶対にいいと思って言ってやってるんだって」
「おれは現実を見ているし、それは夢をかなえようとすることとイコールなんだ」
「違う違う。静橋、それは違う。そういうのは現実逃避って言うんだって」
「逃避ではなく、向き合っているんだ。なぜ分からない」
「お前こそなんで分からないの? 夢なんて見る年齢じゃないだろ? そうだろ?」
静橋は溜息をついた。
「一つ聞いていいか? どうしてそんなに食い下がるんだ?」
ホントにそうだ。なんでこんなにも執拗なんだろう……と後ろの席でまなかも静かにうなずく。どうして、ここまでしつこく自分の価値観に従わせようとしているのだろう。どこか病的な印象さえ受けた。
これまでの話から判断すると、静橋という男子は絵を描く仕事を目指しているようだ。確かに、簡単にかなう夢ではないだろうが、大前提としてその夢は静橋自身のものだ。それに関して他人がとやかく言うことではない。「そんなに甘いもんじゃないぞ」くらいのことは言ってもおかしくはないだろうが、この男子がここまで何度も執拗に他人の夢を否定する態度は異常だと思わざるを得なかった。なにがなんでも「夢を持つこと」を根絶しようとしている感じだった。やや粘着質な印象を禁じ得ない。
「しつこいわけじゃない。お前のためを思って言ってやってるだけだって」
絶対に違う。まなかはそう思うが、彼がしつこく食い下がる理由は見当がつかなかった。
静橋は相手にしてもムダだと考えたのか、反応を示さなくなっていた。しかし粘着男子は気づいているのか気づいていないのか、なおも言葉を吐き出す。
「静橋。将来、お前は絶対おれに感謝するから。あのとき、画家になる夢なんて捨ててフツーに生きる道を選んで良かったなあって。おれたち、もう三年生なんだぜ? 地に足をつけて物事を考える時期なんだからな。聞いてる?」
諭すような、どこか上からの口調だった。ちょうどそのタイミングで予鈴が鳴り、教師が入ってきた。男子生徒は静橋の肩をポンと叩いて「お前のため」ともう一度念を押してから自分の席へと戻って行った。一瞬だけまなかに視線を寄越したように思えたが、気のせいかも知れない。
「ふう」
溜息をついて、静橋がスケッチブックを閉じた。その溜息は粘着男子に対してのものなのか、スケッチブックを閉じることに対してものもなのか……。
「今日からみなさんは、このB組で同じクラスメイトとして一年間を過ごすことになります。今日からみなさんは三年生ですから、進路のことをしっかりと考えなければならない時期を迎えたことになります。一日一日を大切に過ごすように意識してください」
教壇に立った教師がそんな挨拶を口にしている。その言葉通り、今日からまなかたちは三年生であり、これまで以上に大学受験が現実味を帯びてきた。いやでも進学先のことを意識せざるを得なくなる。
まだ具体的な進学先は決めていないものの、まなかが大学に進むことは既定事項だった。まなか自身もそうだが、親もその考えだ。
ただ、進学はするとしても、選択する学部はオーソドックスに経済学部か教育学部といったあたりになるだろうとの思いはあった。まなかの希望ではなく、親の意向だ。
まなかの父親は経済学部を出ており、母親は教育学部出身だ。自らの経験から娘にもどちらかに進めばいいとアドバイスをする。
「文学部の連中は就職活動では悲惨だったからな」
とは父親の言葉だ。
「教員免許を取っていたら何かと安心だし、教育学部出身は企業受けもいいのよ」
とは母親の言葉だった。
大学のことを知らないまなかにしてみれば「そういうものか」であり「だったら、それでいいか」でもあった。いずれの学部を選ぶにせよ、まなかにとって大学進学は将来の就職を視野に入れてのものだった。まなかに限ることではなく、ほとんどの者にとってそうだろう。
だからこそ、前の席の静橋という男性との発言に驚いたのだった。「雇われるために進学先を選ぶ。そもそも、そこからが違う」という彼の発言はある意味、衝撃的だった。
静橋が大学に行くのかどうかは分からないが、もし進学するとしても就職のためではないということだろう。絵を描いていることを考えれば、美術系の大学。そこで実践的な技術を身につけようとしていると考えられる。
雇われることを前提にしていないということは、絵で生きていくということなのだろう。画家志望ではないらしいので、イラストレーターとかマンガ家といったところだろうか。会社に勤めず、自身の力で仕事を切り開いていこうというしているらしい。
(私が思っていてもできないことを、この人はしようとしている……)
じつはまなかには志望する学部があった。
しかし親からは反対されるだろうし、就職にも苦労すると思えるのでは口に出してはいない。現実的なことを考えれば親の勧めに従ったほうがいいと思うものの、わだかまりがないわけでもなかった。
だからこそ、静橋の言葉が刺さったのだった。
まなかが静橋に興味を持ったのは、そういう経緯があってのことだった。
◇
「静橋クン。突然で悪いんだけど、放課後少し時間あるかな」
一時間目のホームルームが終わったあと、まなかは前の席の静橋に声をかけた。
今日は始業式ということもあり、このあと二時間目にホームルームの続きがあるだけだ。
休憩時間になった途端スケッチブックを開いていた静橋は、まなかの呼びかけに身体を半分だけ回転させ、なおも鉛筆を持つ手は止めずに答えた。
「どんな用事か教えてもらっていいか」
「ちょっとお話がしたくて」
「すまないが、おれは忙しい。話なら、いまここで頼む」
「ここではちょっと話しにくいかな」
「そう言われても困るな。申し訳ないのだが」
静橋の口調からは冷たさや警戒、拒絶といった感情は伝わってこなかった。単に優先順位の問題らしい。
「そんなに忙しいんだ。アルバイトでもしてるの?」
静橋の手がピタリと止まり、再び動き出す。まなかはその横顔を見つめる。
太い眉と切れ長の目がまず印象に残った。引き締まった口もとは意志の強さを感じさせる。髪は短く、清潔感がある。身体の大きさも含めて、絵を描くよりグラウンドにいるほうが似合っているように思えた。
「違うな。おれにはアルバイトなどしている時間はない」
「ごめん。なんか地雷だった?」
まなかは静橋が気分を害したように思えた。しかし、静橋は首を振る。
「地雷ではない。ただ、おれには日課としてしなければならないことがあるだけだ」
「画塾でも通っているの?」
「画塾には通っている。しかし今日ではない」
「じゃ、明日の放課後ならどう?」
「生憎だが、明日も用事がある。話せるとしたら、いまがベストなんだが」
「そっか。難しいか」
まなかが溜息をつくと、静橋は「ふむ」と声を漏らしたあとに一つの提案をした。
「では、こういうのはどうだ。放課後、おれはある場所へ行く。そこに来てもらっても構わない」
「どこへ行くの?」
「動物園だ」
「動物園⁉」
意外な答に思わずオクターブがあがってしまった。何人かの生徒がこちらに顔を向けた。
「できれば声を抑えてくれれば助かる」
「ごめん」
静橋は会話をしている際にも手を動かしている。いま彼は身体を斜めにしているので、まなかの場所からもスケッチブックが見えた。
白い紙に描かれているのは窓の向こうに広がる風景だった。校庭、体育館、フェンス、住宅、アパート、スーパーマーケット……粗い線だが上手に描かれているように思えた。
「動物園の場所は分かるだろうか」
「小学校以来行ってないけど、さすがに分かる」
「では、そこに来てくれ」
「え? 一緒に行かないの?」
「ん? ああ、そうか。では、そういうことで」
やっぱり少し変わった人だと思いながらもまなかは自己紹介をする。新クラスでの自己紹介は二時間目に行う予定だったので、静橋はまだまなかのことを知らないはずだ。
「ありがとう。私、辻ヶ花。静橋クンとは初めましてだよね」
「つ、辻ヶ花だと⁉ あの辻ヶ花まなかか⁉」
そこで初めて静橋が顔を向けた。まなかは目を合わせようとしたが、微妙に視線をずらされた。静橋は次の瞬間にはスケッチブックに顔を戻していた。
「私のこと知ってるの?」
「し、知らないわけがないだろう」
「でも、同じクラスになったの初めてだよね?」
「そういう意味ではない」
聞こえるか聞こえないかの音量でつぶやいたあと静橋はきっぱりと言った。
「動物園には現地集合で頼む」
「どうして?」
「どうしてもだ。これはおれの心からのお願いだ」
「あ、うん。分かったよ」
心からのお願いとまで言われたら受け入れざるを得ない。そもそもはまなかから言い出したことなのだ。
「助かる」
静橋はスケッチブックに向かったままぺこりと頭を下げる。わがままを聞いてもらっているのはこちらなんだけど……と少し可笑しくなった。
おそらく、この少し変わった男子生徒は悪い人ではないのだろう。