三章 ノニの決意
ノニはどんな相手にも丁寧に応対した。それが口伝えに広がっていったのだろう。毎日次から次へと人がやってくる。悩みを抱え、藁にもすがる思いで遠くから歩いてくる者もいた。
自分の生活と縁のない者の方が、打ち明けやすいのかもしれない。
勿論、興味本位だけでやってくる客もいる。土産話にと寄っていく者もいる。疑り深い眼差しで背筋を伸ばしてノニを見下ろす客、ぼそぼそ語り続ける客、当たっていると大袈裟に驚く客、無邪気に喜ぶ客。
だがノニはいつも穏やかだった。
アラカは聞き耳を立て、人々の話に思いを巡らせた。本も一心に読んだ。自分の手の平を見ながら、ノニが言う言葉を記憶にとどめた。店で過ごす一日はアラカの想像力を刺激し、退屈などしなかった。昼になると、ノニはアラカを連れて食事に出かけた。街のようすが分かってきてからは、一人で街を散歩したりもした。
サッサリはアラカの住んでいた街ほど大きくはなかったが、陽気な雰囲気に満ちあふれ、活気があった。雑踏の中に身を置くのは、なぜか居心地がよかった。散歩するたびに新しい路地を行き、迷ったりするのも楽しかった。
いつも通る道でふと立ち止まり、驚いてしまう時もある。この街に、こんなにもなじんでしまっている自分がいることに。打ち消すように怖い顔をして、また歩き始める。
ノニの店を訪れるたいていの人は、アラカに見向きもせず奥へ入っていった。
だが中には関心を示し、何処から来たのか尋ねる者もいた。言葉がわかるのか確かめるようにゆっくり話しかける人には、ぶっきらぼうに返事をした。びっくりされたり、褒められたりするのはちっとも嬉しくなかった。
珍しがられるのはミルナスでも同じだった。
六歳で学院に入学した時の、子どもたちの自分をじっと見つめる目つきは今でも覚えている。
肌の色は少し濃く、ウエーブのかかった髪は父親譲り、母からは細い切れ長の眼を受け継いだ。ミルナス人とピサド人の特徴が混じりあったアラカを、不思議な生き物でも見つめるように、無遠慮な視線を向ける。
アラカがにらみ返すと、とたんに目を泳がした。そのたびに、心の中で、目を合わせる勇気もない子どもたちをさげすんだ。だから友達などできる筈もない。
ここへ来ても態度は変わらずだった。ノニの家の近所にも子どもたちは沢山いる。だが鋭い視線に怯えたのか、誰も話しかけてくる者はいなかった。
サッサリに着いた翌日、ノニと一緒に挨拶回りに出かけたきり口を開いてはいない。ノニとだって、ここに来て以来たいした話はしていないのだ。かまわれないのは有難かった。そうである筈だった。
しかし時々、一人で此処にいることが、惨めで切なくなる。まれに客足が途絶え、店内が静まり返る時、不意にどうしようもなくミルナスが恋しくなる。ノニは奥から出てこようともしない。メイを抱きしめ、開かれた扉から午後の日差しが床に伸び、光の筋を作っているのを見つめる。
「寂しがっている自分が好きってわけね。泣いたらいいじゃないの」
メイが囁く。
「やめてよ。泣きたくなんかない」
「おやおや、強がり言って。人形なんか相手にしないで、人間とおしゃべりを楽しみたいんでしょ。それなのにつんと澄まして、みんなを見下している」
「見下しているのはあっちよ。みんないじわるな目つきで私を見るもの」
アラカはふくれっ面で返事する。
「たいていの人間はそんなものよ。いいかげんに観念したらどう?」
「偉そうな言い方するのね。メイはどのくらい人間を見てきたって言うの?」
メイは小さく笑うだけ。返事もしなかった。
「ずるいわ。都合が悪くなると黙り込むなんて。メイだって私と同じくらいしか、この世界を知らないでしょう?」
「確かにね。でもあたしはあんたより潔いの。うじうじ悩んだりしないからね」
今度はアラカの黙る番だった。
椅子にちょこんと座っているメイの手を握る。床に腰をおろし、椅子にほおづえをついてメイを見つめる。じっと見つめ返すメイの目。どんなに凝視しても、メイの表情は変わらなかった。もしかしたらメイの目は、違う何処かを見つめているのかもしれないとふと思った。目が合っていると思い込んでいるのは、独りよがりなだけ。アラカはメイの手を放し、椅子に頭を乗せた。
「あれこれ思い迷うのが人ってものよ。そこが人形と人間の違いなの。メイには分からない」
独り言のように、扉の外に目をやりながら言った。
「あら、おへそを曲げちゃったのね。可哀想なアラカ」
冷ややかなメイの言葉を、笑って受け止める。
「何をブツブツ言ってるんだい」
背中からノニの声がして、アラカはビクッと体を震わせた。ノニはゆっくり近づいてきた。椅子の上の人形に目をやる。
「父からの贈り物なの。私が小さい時のね」
そう言うなり、メイを袋に入れた。
「見せてごらん」
ノニは手を差し出した。
仕方なく、メイを引っ張り出す。
「此処まで連れてきたくらいだから、よほど大事な人形なんだね」
メイから目を離さず、ノニは言った。秘密がばれないか、不安になる。特別な力があるという占い師には油断がならないと思う。
「もういいかな、返してもらって」
それでもノニはメイを見つめていた。
心臓の音が聞こえてしまうかもしれない。アラカは胸に手をあて、きつく押さえた。
「失くさないように、せいぜい気をつけるんだね」
ノニはメイの髪の毛を優しく撫でてから返した。
「……はい」
メイをそっと袋に入れる。ノニは外に出て行った。大きく深呼吸して、そろそろ夕暮れがやってくる空を見上げている。
「もうどれくらいになるかい? 此処に来てからさ」
振り向きもせずに尋ねる。
「今日で四十六日になるわ」
ノニがアラカを手招きした。外に出てみると、ノニは空を指差す。
鳥たちが群れをなして飛んでいるのが見えた。
「渡り鳥だ。南に下っていく準備をしているんだよ。季節が変わる。此処も少しは涼しくなるよ」
「南ってサマリンドへ行くの?」
「さあて。鳥にとっては魂の憩う場所じゃないのだろう。季節が巡ると、また戻ってくるからね」
二人はしばらく空を見続けていた。夕焼けが広がり、空一面がオレンジ色に輝いている。ゆっくり藍色の雲が湧き上がってきた。空は絵筆で塗られたように色が重なり合い、アラカの孤独な心に染みとおっていく。街にはもう、まばらにしか人の姿はなかった。家路につく人が急ぎ足で歩いているだけだ。白い建物がぼおっと浮き上がって見える。
「そろそろ帰る支度をしようかね」
アラカは裏口を閉め、ロウソクを吹き消し、本を元に戻した。表の扉を閉めるのはノニの仕事だ。
「今夜は肉料理でも食べようか。お酒も買っていこう」
どうしたというのだろう。質素な暮らしをしているノニがこんなことを言うなんて。先を行くノニの背中を見つめながら思った。