ピサドの街と王宮、そしてアラカの過去
ピサド島の皇子が行方不明、そしてこの島に陰が差してきているとノニは言う。
アラカは故郷ミルナスでの父や母との辛いやり取りが思い出され、人形メイとのおしゃべりに
寂しさを紛らわせようと……
扉を閉め、ノニは歩き出した。
メイを肩から下げた袋に入れ、後を追う。
ノニは歩くのが速い。小さな家がくっつくように建つ道の角をいくつも曲がると、大通りに出た。
突然視界が開け、行き交う大勢の人が目の前に現れる。荷馬車は道の真ん中をゆっくり進んでいた。賑わっている通りには、石造りの立派な建物が立ち並び、どの建物も白く塗られている。ヤシの 並木が通りに沿って続いている。品物の積まれた台が通りにまで置かれ、ゆっくり歩きながら人々が買い物を楽しんでいた。客を誘う声が競い合うようにあちこちの店の前から聞こえ、青い空に吸い込まれていく。
ノニが立ち止まり、街の向こう、緑鮮やかな木々の上に見える建物を指さした。円形の屋根がいくつも見え、その上に旗が翻っていた。
「このサッサリは、ピサド島で一番大きな街なんだよ。王様はあの丘の宮殿に住んでおられる。大した王様じゃないけどね」
見上げているノニの顔に軽蔑の色が浮かんでいる。
「皇太子が行方知らずという噂があるんだ。お世継ぎがいなくなるなんて、この国はどうなるんだろうね。まあ、この国は最初の国作りからおかしかったけどね」
「どういう意味?」
「大きな声じゃ言えないが、聞きたいならいずれ話してあげよう」
アラカは木々に映える白い宮殿の尖塔を眺める。興味がむくむくと湧いてきた。
住んでいたミルナスにも王がいる。昔はこの島との戦もあったらしい。だが今は交易が盛んに行われていた。
ノニがさらに言葉を続けた。
「東にクルクス、西にクダルゴ。そのちょうど真ん中にこのピサド島はある。ピサドはクルクスやクダルゴより小さい島だが、交易の中継地点なんだよ。だがあの荒波じゃねえ。そのうち、船が来なくなるかもしれないよ」
顔をしかめてからノニは、
「お前の住んでたミルナスは北の方だ。南には、死後私達の魂が憩うと言われているサマリンドがある。行って帰ってきた者は、勿論いないけどね」
と言った。
ピサドを懐かしそうに語っていた父の顔を思い出す。誰も聞いてなどいないのに、気づきもせず語り続けた父。アラカは聞いている振りをしながら、冷めた目で父を見つめていた。母もそうだったかもしれない。
母が渋りながら話してくれたことを思い出す。
初めて母がピサドにやってきたのは、香料を求めて旅をしていた父親に連れられて来た時だった。 若かった母は一目で恋に落ちた。父親に逆らい、そのまま船に戻らなかった。だがどうしてもピサドに馴染めず、アラカを連れてミルナスに戻ってしまう。アラカが二歳の時だ。ピサドでの生活を、母は何も語らなかった。
父は母を追って、半年も経たずにミルナスにやってきた。母の実家はミルナスの北方にある。母は故郷を捨てた父の姿を見て、その時は喜んだのだろう。二人は実家の傍に家を構え、父は母の両親が商っている香料や薬を売っている店を手伝い始めた。両親は一人娘である母の全ての願いを聞き入れたのだった。
「あの頃は幸せだったの。ほんのしばらくね」
アラカが十一歳の頃だったろう。父と別れた母が、独り言のように呟いたのを覚えている。父は真面目だが強引な人だった。店の経営に口を出し始めた父は、母の両親に煙たがられた。やがて行き場のない怒りを母に向けて、母の愛も失った。
母と別れても、ピサドに帰らなかった父。プライドが帰郷を許さなかったのだろうか。あるいは母への想いが断ち切れなかったのか。
それから父は小さな酒屋で働き始め、やがて店主となった。
酔っぱらった父は幾度も母の家の扉を叩いた。大声で母の名やアラカの名を叫んだ。それでも決して扉を開けようとしなかった母。イライラと部屋を歩き回っていた母。アラカがいることさえ忘れてしまったように、自分の世界に閉じこもってしまった母。そんな二人を冷ややかに見つめていた自分。
アラカは我に返り、嫌な思い出を海の彼方に追い払った。
「よくぼんやりする子だね。私を見失ったら迷子になるよ。こんなに人がいるんだから、ちゃんと目を開けていておくれ」
ノニが呆れた表情をしている。腹は立ったが、何も言わず歩き出した。