19章 再び沼へ
アラカは次の日も朝早くからグルアナの住む沼へ出かける用意をした。クハンの案内がなくても、沼への長い道のりは分かるような気がしている。グルアナの導きをどこかで感じているからかもしれない。ノニは反対もせず、見送ってくれた。
「クハンの言う通りなんだろう。でも、まだ何もかも承服したわけじゃないよ。ただ私は少し、自分を過信していたようだ。私だけがこの国を救えるという傲慢な考えがどこかにあったんだね。これからはアラカの出番だ。お前を助ける者がハルファかどうか、見届けるつもりだよ」
ノニが力なく微笑む。アラカはノニを強く抱き締めて、歩き出した。
ようやく沼に着くと、グルアナは頭だけ水面から出して佇んでいた。恐れず岸辺に立つアラカに、グルアナもゆっくり傍にやってくる。
「この国の皇子、ハルファを待っているの。ハルファが助け人だと、私は信じたい。でもね、王様の許しを得るために王宮にとどまっているのよ。うまくいくかしら?」
<何故そなた一人ではどうにもならぬのにここへ来たのだ?>
グルアナが静かに問うた。
「どうしてかしら? 自分でも分からないわ。私ね、クルアーン様に会った時、怖くて唯々、早くその場を去りたいって思ったわ。それになんで私がこんな大変なことをやらなくてはならないのか、承知できなかったし、したくもなかった。面倒って感じた。ノニに使命だとか、覚悟をしろと言われても、信じられなかった。納得できなかった」
独り言のようにアラカは語った。岩が無数に転がり、淡い日が照らす黒い水面が妖しく光っている岸辺はやはり気味が悪い。ましてやすぐ傍でグルアナが八本の尖った脚を小刻み動かしているのだ。昨日までのアラカだったら、とても一人で来ようとは思わなかったろう。
事態は何も変わっていなかった。けれども、今のアラカには自身がずっと以前に心の底に沈めた、あるいは背けていた大事な何かに火がともったような気がし始めていた。グルアナに寄り添い、痛みを共に分かち合ったからだろうか?
「今はね、私の為だと思えるの。クルアーン様とグルアナ様が下さったのよ。お二人を助ける為だけじゃないの。今までの私とは違う自分を見つける機会を与えていただいたのね。やっと気づいたわ」
グルアナが小さく頷いたようだった。
小屋に帰る道で、メイが話し出した。声を聞くのは久しぶりな気がする。
「すっかりいい子ちゃんになっちゃって。いい子になったからって何もかもうまくいくとは限らないからね。罠にはまるようなもんよ。あんたの傷が深くならないといいけど」
「罠って? 何が言いたいの?」
メイはクスクス笑うと、見下すような口ぶりで返事した。
「正義の味方でいるつもりなんだろうけど、払う代償は大きいのよ。誰もかれもがあんたを利用しているだけ。うまくことが運んだとしても、忘れられちゃうだろうね。それで、あんたに何が残るのかしら? 目を覚ましなさいよ」
「目が覚めたから、今の気持ちにたどり着いたの。間違っていないと思うわ」
「何の得があると言うの? この国がどうなったっていいじゃない。ハルファにはアドラルがいる。あんたがどんなに尽くしても、彼の気持ちは変わらない。全然意味のないことをしてるあんたが、あたしにはまったく分かんないわよ」
メイの否定的な考えに惑わされまいと思った。今迄は笑ってやり過ごせた。何故なら自分の抑えがたい負の気持ちでもあったからだ。それなのに、今は耳をふさぎたくなってしまう。大事なメイが遠くに行ってしまったような気がする。アラカ自身がそうしむけたのかもしれないのに。悲しみと愛おしさが重なり、アラカの心を鈍い痛みが襲った。
広場に戻ると、荒くれ者たちが集まっていた。その中に身なりのよい三人の男が囲まれている。アラカは走り出す。
「ハルファ!」
思わず声を上げる。ハルファは振り向き、笑顔になった。
「アラカ。やっと会えたね」
二人は思わず手を取り合った。ハルファの柔らかな眼差しが心に刺さる。アラカの頬は赤みが差し、鼓動が速くなった。
「待っていてくれたんだね。随分と遅くなってしまった。話したいことが山ほどある。それより、今、グルアナ様の所に行ってたと聞いたが……」
「そうなの。私にも話したい事があるのよ」
握られた手に力を込め、アラカが返事した。
「ハルファは今着いたばかりなんだ。さあ、突っ立ってないで、クハンの小屋に」
傍にいたノニが二人を促した。クハンも渋々ついて来る。ハルファの従者たちは小屋の前で見張るように立った。
ハルファがクハンに訪ねた。
「クハン殿はもうすべてを知っておられるのですか?」
「ああ、ノニが話してくれた。ブリア村のクルアーンやアラカの使命もな。わしにはどうでもよいことだ。悪いが、敬語は使わんぞ。ここに居る者たちは王に追われ、やってきた。決して居心地のいい場所じゃないのを承知してもらいたい」
クハンは不機嫌そうに言った。それでもハルファは丁寧に頭を下げ、へりくだった様子で言葉を続けた。
「分かっております。わたしはこの国を守りたいと心から願っているのです。そのためにはグルアナ様の剣を抜き、クルアーン様を解放してこの地の守り神としてあがめなくてはなりません。どうかお力をお貸し下さい。ノニさんとクハン殿が知り合いだと知り、不思議な縁を感じています」
「クハンは私以上に王家の者が苦手でね。ただ、ここの者たちは皆クハンに従うようだから心配はいらないよ。さて、王はどうしておられる? アドラルは元気かね?」
ノニが床に座り尋ねた。アラカはハルファをうながし、ノニの隣に腰掛ける。クハンはベッドに腰を下ろした。
「王は病の床に伏しておられます。アドラルと王妃がいつも傍にいて看病しているのです。アドラルは薬草にも詳しくてマサナ村から取り寄せたりと、かいがいしく王に仕えてくれています。王妃の信頼も得て、少しづつ王妃から宮廷の暮らし方を学んでいます」
アドラルが真心を込めて王に尽くしているだろうことは容易に想像できた。アラカはグッと胸の痛みを抑え、ハルファに明るく微笑んだ。
「ミリアを呼んで、ブリア村の歴史書を王に献上してもらいました。話も聞いて頂きました。けれども王はすっかり弱られて、どこまで理解してくださったのか……。私はなんとしてもグルアナ様に会わねばと思いました。それで、王の耳元でお許しを願ったのです。王はただ私の手を強く握っただけでした」
無念そうにハルファが俯く。
「お許しになったのか定かではありません。けれども私は決心しました。私の信じる正しきことを行おうと。例え、父である王が反対であったとしても。王がお元気になられ、謀反を起こしたと私を捕らえるならばそれも致し方ない。その罪は背負うつもりでここにやってきました。私に何ができるか分かりません。私は見当はずれなことをしているのかもしれない。アラカ、グルアナ様はどんなご様子か話して欲しい」
アラカはまっすぐにハルファを見つめ、口を開いた。
「グルアナ様は大層苦しんでおられます。私を助ける者はハルファ、あなたです。昨日、ノニとグルアナ様の剣を抜こうとしました。でも抜けなかった。まだ何も分かっていないとグルアナ様に言われてしまいました。私と力を合わせて剣を抜くことができるのはあなたしかいないと思っています」
ハルファがノニに目をやり、優しく腕に触れた。
「ノニさんではなかったのですね。この国を憂い、勤めを果たそうとなさっていた。その心を私はしっかりと受け止めています」
ノニは少し頭を下げてから言った。
「どうやら私は勘違いをしていたようなんだよ。年を取ると、謙虚さを忘れてしまう。ましてや、占いをしてたりするとね。クハンと同じだ」
クハンがフンと鼻をならして言った。
「アラカが正しいとはまだ分からんぞ。クルアーンとも心が通わせなかった者に、そんな力が果たしてあるのかな。グルアナを退治しようとしただけでなく、クルアーンという蜘蛛まで閉じ込めていた王家の者だぞ。権力者はいつまでたっても好き勝手をしている」
「あんたも権力を欲しがったのを忘れたかい? 挙句がここにいるんじゃないのかね」
ノニが皮肉を込めて言った。
「ハルファは今までの王族とは違うのよ。野心や権力に突き動かされてるわけじゃない」
アラカはハルファから目を背けずに言った。
部屋の中は薄暗くなっていた。外ではたき火がたかれているようだ。窓から炎がちらちら踊っているのが見える。
「明日、グルアナ様に会いに行きましょう。案内します。ノニも一緒に来て欲しいけど」
アラカがそう言うと、ノニは黙って頷いた。




