ノニの家
アラカはしばらくそのまま立っていた。
そのうち手が伸び、赤や黄色、青の長衣とズボンをそっと触ってみる。生地は柔らかく着心地はよさそうだ。
灰色の長衣を手に取ったがすぐに放し、その横にあったオレンジ色のものをじっくりと撫でた。
決意したように着ていた服を脱ぎ捨て、身に付けた。鏡の前に立ち、自分に見入る。険しい顔をした自分が派手な色の服を着ているのは、おかしかった。
強張った筋肉をほぐすように表情を和らげる。そっと鏡の中の自分に笑いかける。だが笑みはすぐに消えてしまった。
もう一着買おう。青、親に捨てられ、渡ってきた海の色。
二人が奥から出てきた時、アラカはベルトも選び島の住人と同じ格好をして立っていた。店主が微笑んだ。
「よく似合うよ。きれいな島の娘になったじゃないか。うんとおまけしてあげようね」
アラカは袋からお金を払った。
外に出た途端、眩しい日の光に一瞬あたりの景色が消え、めまいがする。
ノニは後ろも振り返らず、どんどん先を進んでいく。角をいくつも曲がって行くうちに、もう港への道はまったく分からなくなってしまった。
「まるで迷路だわ」
立ち止まり、来た道を振り返る。とうとうこんな遠い島まで来てしまった。溜息が思わず漏れる。
「ぼんやりしてないで、歩いておくれ」
角から顔だけ出したノニが叫ぶ。アラカはムッとしたがそのまま歩き出した。
石畳の路地は街外れには固い土の道へと変わり、やがてノニは一軒の家に入っていった。
「此処が私の家だよ」
ノニが表と裏の扉を開け放つと海風が通り過ぎていく。窓も大きく家の中は明るかった。
「お前の部屋はこっちだよ」
案内された部屋はベッドと椅子があるだけだった。アラカが住んでいた部屋の半分もない。その狭さとみすぼらしさに、言葉も出てこなかった。
「掃除はしておいたからね。裏の井戸で体を洗ったら、少し休むといい。今夜の夕食は私が作ろう。明日からはお前の仕事だよ」
ノニは返事も待たずに、もう一つの部屋へ消えていった。
言われた通り、裏口から外に出てみた。周りを白い塀に囲まれた、小さな庭の真ん中に井戸があった。塀に吊るされたいくつもの鉢には、名も知らぬ花が色とりどりに咲き乱れている。アラカはこの庭が気に入った。冷たい井戸の水で顔を洗い、手足に水を掛ける。
そしてメイの居る部屋に戻った。
メイに出会ったのは、アラカの三歳の誕生日だった。
沢山のプレゼントの中で、最後に開けた箱の中にメイはいた。一目で大好きになった。長い黒髪に大きな瞳の小さな人形は、淡いピンクの上着とスカートを身に着けていた。どの部分も柔らかい布で作られ、真っ直ぐに自分を見つめていた。そっと抱き寄せると、メイはアラカにだけ聞こえる声で囁いた。
「あたしを離さないで」
それからずっとメイと一緒だった。父が贈ってくれた贈り物の中で、たった一つ大好きになった贈り物。
父はアラカに贈り物をするのが好きだった。けれど一度として、何が欲しいのか聞かれたことはない。十一歳の時、父は母と別れて家を出たが、その後も父は娘の誕生日を忘れなかった。だが父は娘の成長や好みを知ろうとはしなかった。好きになれない置物や服、安物の装身具ばかり贈ってくる父を疎ましく思った。
母は父への愚痴を言い続け、アラカの前でも嫌悪感をあらわにした。母の不機嫌な顔は忘れられない。アラカはそんな母も好きになれなかった。
母から贈られた腕輪や耳飾りは全て家に置いてきた。母を思い出す物は何一つ持ってこなかった。
アラカの部屋は、あのまま埃にまみれていくのだろうか。
「カバンの中はこりごり。息苦しいったらありゃしない。旅なんてまっぴらよ」
メイのわがままな言い方に笑い出す。いつもそうだ。メイを喜ばせるなんてできない。可愛い顔をして、言うことは憎たらしいことばかり。だからどんどん好きになる。
二人は狭い部屋のベッドに横になった。
「いつも一緒よ。メイしかいないんだから」
メイの顔に頬ずりする。
「当たり前でしょ。あんたが私をなくさないかぎりね」
シーツの匂いが心地よい。枕もふっくらしてちょうどよい高さだ。
「油断は禁物よ。明日からこき使われるんだから」
メイの言葉が遠くから聞こえる。アラカは深く息を吐き、眠りに落ちていった。