新しい服
「このままこうしていたら、お互い傷つけあうだけ。少しの間、離れていましょう。別れるのはとても悲しいのよ。でも父方の国を見てくるのも悪くないと思うの。ピサド島のノニは手伝いが欲しいそうよ。どんな仕事をしているのかしらね。ノニの手伝いが終わったら帰ってらっしゃい」
出発の前の日、母が言った言葉だ。アラカが口を挟もうとするのをさえぎり、母は話し続けた。
「こんな時だけ、別れたあなたの父親を当てにしてって、思うでしょうね。辛い決断だったの。でも、それをわかって欲しいなんて無理だわね。私達、いい親とは言えないもの」
そっと悲し気に頬を撫でようとした母の手を、アラカは振り払った。小さな溜息をもらし、母は部屋を出て行った。
ベッドに横になっても眠りはやってこなかった。追い出されるという現実に向き合うのは、十四歳のアラカにとって、生易しいことではなかった。「いつか」というのは、いったいどのくらい経った時間を言うのだろう。「いつか」という時が来ても、母の気持ちなど分かりたいとは思わない。天井を見上げながら、捨てられる怒りを胸に、じっと目を開けていた。
けれどふと、心の何処かで囁く声がする。
何故怒りが湧き上がるのだろう。追い出されるように仕向けたのは自分ではなかったか。それならば、むしろ喜ぶべき筈なのに。
アラカは体を横に向けた。開放感などみじんもなかった。こんがらがった糸でいっぱいになったような自分の心に腹が立った。枕元の小さな人形、メイがクスリと笑った。
港の賑わいは次第に収まり、人の数も減っていった。ジリジリ照りつける太陽が白い砂を輝かせ、海の色をさまざまな青で彩っている。こんなにも青色が沢山あるのをアラカは知らなかった。汗の流れるまま拭いもせず、ぼんやり海岸を眺め続ける。
「今日も海は荒れているねえ。待たせたかい?」
建物の横から誰かが声を掛けた。見上げた目に白い長衣の老婆が写った。老婆はニコリともせず、ただアラカを見つめ返す。
「ノニお婆さん?」
「お婆さんは余計だよ。ノニと呼んでおくれ」
背丈はアラカの方が高かった。背筋は伸びているが顔には皺がいく筋も刻まれ、思っていたより年取っているように見える。
「その格好じゃ暑いだろう。父さんからお金はもらってきたかい?」
アラカが頷くと、ノニはついてくるように顎で指し示した。
海岸から離れて行くにつれ、白い壁の店や家がくっつくように建ち始め、その間を細い路地があちこちへと伸びている。道はいつの間にか砂から石畳に変わっていた。買い物客はそれほどいなかった。多分、今が一番暑い時間なのだろう。
ノニが水筒を差し出した。立ち止まりグイグイと飲む。
どの建物も扉は閉まり、看板が掛かっているのは店であるらしい。アラカは看板の絵や文字を見上げながら歩いた。この島の文字は読める。父親はアラカが小さい時から、厳しくピサドの読み書きを教えた。
ピサドの言葉を習うことは嫌いではなかった。けれど何処へ行っても、故郷の言葉で話しかける父親に苛立った。通う学院の生徒たちからよくからかわれたものだ。父親の真似をして、でたらめな音をまるで意味のある言葉のようにアラカにぶつける生徒たち。石を投げつけてやりたい気持ちを抑え、いつも黙って通り過ぎるようにしていた。
母に追い出されたおかげで、勉強させられた言葉が役に立とうとは思いもしなかった。アラカはフンと鼻で笑った。
一軒の小さな店の前に着き、ノニが中に入るよう声を掛ける。
「知り合いの服屋だ。自分で選ぶといい」
中は外より少しひんやりしていた。壁や床は木で出来ており、長い台の上には服が何枚も畳まれ、置かれている。店主の女が笑顔で出てきた。ノニと親しそうに挨拶を交わし、アラカの前にやってくる。
「ここは初めてかい? きっと気に入るよ。こんないい所は他にはないからね」
顔や服を珍しそうに見つめながら店主が言った。新しい場所ではいつもこんな表情に出会う。目鼻立ちからは、どこの国の人間か見当がつかない。南国に育った父は浅黒く縮れ毛で彫りの深い顔立ちだったが、母は白い肌に切れ長の目と薄い唇を持っていた。アラカの顔つきはその両方が微妙に混じり合い、不思議な雰囲気を漂わせていた。
「何を考えているのかわからない」とよく言われたものだ。アラカは自分の顔を好きだと思ったことはない。好きになれないのは父と母のせいだ。遠慮ない視線にさらされると、余計に自分の顔が嫌いになる。
「おばさんは違う場所に住んだことあるの?」
アラカは意地悪い視線を店主に向けた。
「ないよ。でも此処が一番さ。そうに決まっている。分かるんだ」
屈託のない笑顔で店主は返事をした。アラカの手を取り鏡の前に連れて行くと、台の上の長衣をいくつか取りあげてみる。
「服くらい自分で選べるわ」
ノニが何か言おうとしたのを、店主は手をあげて押しとどめた。笑顔は消えておらず、それが余計に苛立たしい。
「では奥でノニとお茶でも飲んでいようね。ゆっくり選ぶといいよ」
不機嫌な顔をしたノニの背中を押しながら、二人は奥へと消えていった。