ノニの苦悩
どのようにして洞穴を抜け聖堂の外に出たのか、アラカは覚えていない。
今ふたりは、聖堂の裏手を覆う林が終わり、その先に伸びる草地にいた。羊たちがのんびり草をはんでいる。木陰にすわり、二人は息を整えてお互いの顔を見合っていた。
「そうよ。クルアーン様は蜘蛛、人間よりずっと大きいわ。クルアーン様は何百年も生きておられるの。不思議な力を持った蜘蛛なのよ。でもこの頃、お元気がないと母様が言ってたわ」
サモラは誰にも見られずに聖堂を抜け出た安堵感でいっぱいのようだった。
「ねえ、クルアーン様はしゃべったりする?」
「まさか! 何か聞こえたの?」
「えっ、いいえ、そんな気がしただけ」
アラカは笑ってごまかした。一瞬見えたクルアーン様の姿が目に焼き付き、声が耳に残っている。ノニに話すべきではと思ったが、後ろめたい気もして言えそうもなかった。
「約束の手相を見てあげる」
アラカはサモラの手を取った。そして、広げられた手の平をじっと見つめた。
「きっと美しい布を織る人になるわ。ほら、親指と人指し指の間から二本の線が見えるでしょ。一つは生命力をあらわす線、もう一つはあなたの才能や理性、知恵を示す線。その線がずっと小指の下の手首ちかくまで長くつづいているでしょ。新しい織り模様を創りだせる人の線よ。お弟子さんに慕われる優しい先生にもなれるわ。結婚して幸せな家族を作るし、そうね、子どもは三人くらいかな」
かすかに笑みを浮かべ、サモラが言った。
「本当? きっとアラカさんはノニ様みたいな素晴らしい占い師になるのね」
アラカはちょっと眉をしかめた。ノニの一番弟子などではないと今更言えない。自分の身勝手さにしばらく顔を上げることができなかった。
「占い師なんて本当は興味ないの。今だけよ、ノニの傍にいるのは」
「アラカさんはノニ様の遠縁と言ったけど、どこか違う顔つきをしているわね。この島の生れじゃないの?」
サモラの唐突な質問に、誰にでも言う同じ話をした。
「私が生れたのはこの島よ。父はこの島の人間、でも母はミルナスの人で、ここになじめなくて私を連れてミルナスに帰ってしまったの。まだ二歳の時よ。だからここのことは何も知らない」
「そうだったのね。いいわね、色々な場所に行けて」
うらやましそうなサモラの表情に、返す言葉もなかった。
二人は立ち上がり、道行く人に挨拶しながら家路についた。
ミリアの家には誰もいなかった。サモラと別れて部屋に行き、メイを抱いてベッドに横たわった。
「あたしは大きな蜘蛛なんて興味ないわ」
メイが言った。
どのくらい経ったのかわからないまま、扉の外からの召使いの声で目が覚めた。
「アラカ様、起きられましたか? 皆様お待ちです。お夕食の時間でございます」
急いで髪を直してから置かれてある洗面器に水を注ぎ、丁寧に手と顔を洗う。
食堂にはすでにノニたちが座っていた。
「よっぽど遊びまわったんだね。私達を待たせるなんて」
ノニは待ちくたびれたのか、疲れた声で言った。
「サモラと楽しく過ごせたかしら」
ミリアが優しい目をして尋ねた。
「ええ、とても。ずいぶん歩いたから疲れたわ」
ラジャムがサモラに笑顔を向ける。サモラはあいまいに微笑んでいる。誰もあまりしゃべらない。 大人たちには何か悩み事でもあるようだった。
食事を終え、アラカは四人に頭を下げて椅子を引く。ノニも口を拭い、同じように席を立った。
「私も休ませてもらいましょう」
アラカがろうそくを持ち、二人は廊下を進んだ。
「クルアーン様に会ったの?」
アラカの問いにノニは立ち止まる。
「ああ、会ったよ」
ろうそくに照らされたノニの顔は何かに落胆しているようだった。
「クルアーン様は私に答えてはくれないんだよ。なんとか心が通じあえるようにと思っているんだけどね」
アラカは迷った。今日の出来事を話すべきだろうか。声を聞いた気がしたけれど、今は確信が持てない。でも、このままにしていいとも思えない。ノニは部屋に入り扉を閉めようとしている。
「クルアーン様は私達の言葉をしゃべれるの?」
アラカは扉を押し開けて尋ねた。ノニがいぶかしげにアラカを見つめる。
「何回もお会いしてるが、声を聞けたことはない。でも何かおっしゃりたいんだ。それはわかる。本当は解放して差し上げないといけない。けど、今の王は許すはずもない。反乱でも起こしたいところだが、そんな力は私にはないしね。王家の者は信用ならない。私は恨んでいるんだよ。クルアーン様も同じ気持ちでいらっしゃる筈なのに……」
ノニはベッドに座り込み、肩を落とした。それから不意に気づいたようにアラカに顔を向けた。
「なんでそんなこと聞く? まさか、会ったんじゃないだろうね!」
アラカは返事ができない。
「会ったんだね! ミリア様にも断りなく会うとはね。ちゃんとお言い! 何があった?」
仕方なく小さな声で言った。
「私、声を聞いたような気がするの」
ノニが目を大きく開けて、勢いよく立ち上がった。




