【コミカライズ】おっとり宝石姫のノーダメージ・婚約破棄騒動
「イリア・トゥール!お前との婚約は今日をもって破棄する!」
「……まあ」
イリアは、自身の婚約者の口から発せられた言葉に硬直した。
悲しみ、ではない。のんびりやのイリアには、瞬発的にそんな感情を抱くことができない。
得意ではないのだ。だから、イリアがそのとき思ったのは、「リチャードさまはなにをおっしゃっているのかしら」というごくごく普通の疑問だった。
ことんと首を傾げるイリアに、壇上のリチャード・アンドレ――マグノリア国の第二王子は眉をきゅっと吊り上げて、イリアを指さした。
「そういう高慢なところが俺の気に障る!だいたい――……」
ここでリチャードの言葉を遮るほど、イリアは空気の読めない娘ではない。
イリアは相変わらずわけがわからないまま、その桜色の唇を行儀よく閉じて、リチャードの言葉に耳を傾けた。
やさしい母は、いつも「相手がどんなに奇抜なことを言っても、まずは聞いてあげることが大切ですよ」とおっしゃっていたので。
イリアはこの少々精神年齢の幼いきらいのあるリチャードという婚約者のことを、教会の孤児たちと同じくらいかわいらしい子供だと思っていた。――もちろん、リチャードの話すことは教会の子供たちほど面白いものではないのだけれど、それも愛すべき幼い彼の特徴だと思っていた。
恋愛対象として愛してはいないけれど、お世話をしてさしあげるのはそれなりに楽しそうだとも思っていた。
そう思って、母のようなここちでリチャードを見つめていると、リチャードの目がますます吊り上がっていくのが見えた。
いけない、第二王妃さま譲りの狐のように細く愛らしい目は、そういう顔をしては本当に糸のようになってしまう。印象が悪くなってしまいますよ、と忠告したい気持ちを、イリアは手をぎゅっと握ることで耐えた。
それを、イリアが何か堪えているように見えたのだろう。
いくらか溜飲がさがったらしく、リチャードはイリアに侮るような目を向けて来た。
「お前がかわいいハリエットにした陰湿ないじめの数々、忘れたとはいわせんぞ!」
「……いじめ?」
「とぼけても無駄だ!証言もある!お前がハリエットを階段から突き落とそうとしたこともこちらは把握している!」
「あらまあ……」
いじめもなにも、おそらくそのご令嬢と会ったことはないのだが……。
イリアは、その時はじめてリチャードの背後にかばわれるような体勢で立っている少女の存在を知覚した。
染めたのかと思うほどの濃いピンクの髪に、フリルでごてごてと飾り立てられたドレス。首や手首には肩が凝りそうなほど過剰な装飾がついていて、イリアは思わず口元を扇で押さえた。
「まあ……かわいそうに……」
「な――!お前がしたことだろう!こんなにか弱いハリエットをいじめるとは、なんと陰湿な女だ!」
「いいえ、いいえ、リチャードさま、わたくし、大変にあなたさまを尊敬しておりますし、今まさにあなたさまの物語を作る才能を知って嬉しく思っておりますが、そんなことよりハリエット嬢……でしたね、彼女のあまりにも哀れな格好をはやく助けて差し上げないといけません」
「……は?」
ハリエットと呼ばれた少女が目を丸く見開く。なんとかわいそうに、何も知らないのだわ、と思って、イリアはきっとリチャードに強い視線を向けた。
窓の外をはらはらと落ちる雪のような、銀糸の髪がイリアの動きに合わせてふわりと揺れる。アメジストをはめ込んだような瞳に力がこもると、それを目にした周囲の人間は思わずため息をついた。
雪を溶かしこんだような銀の髪、宝石の瞳――宝石姫との異名もある美しい公爵家の末の姫君が、イリアだった。
イリアは壇上にかけよって、ハリエットの手をとった。
イリアの着るマーメイドラインのドレスには、最低限の飾りとして小粒の真珠が縫い付けられている。シンプルなドレスだが、これは今の流行の最先端だ。
ハリエットの着ているフリルだらけのドレスは、去年の流行。多すぎる飾りは体を壊すと早々に流行から外れている。それをこんなにつけて、まるで虐待だ。
イリアはハリエットのあまりの不憫さに目を潤ませる。
「な――イリア!」
「お静かになさいませ、リチャードさま、いくら考えのたりないあなたさまでも、公衆の面前でこのようにか弱い淑女を貶めることは許されませんわ。さ、ハリエット嬢、まにあわせで申し訳ありませんが、このショールを羽織ってくださいな。少しはましになるはずです」
「な……、あんた……!!」
ハリエットが顔を真っ赤にして震えている。
かわいそうに、こんなに人目のある場所で、流行おくれにもほどがある格好をさせられて、しかも壇上という目立つ場所にさらされたのだ。
恐怖はいかほどだろうか……。
イリアは胸が締め付けられるここちがして、ハリエットをやさしく抱きしめた。
イリアの背後でしのぶような笑い声がする。義理の弟の声だわ、と思って、イリアは唇を引き結んだ。淑女の恥を笑ってはなりません、とあとで叱っておかなければ。
――抱きしめられたハリエットは、わなわなと肩をふるわせた。こんなはずではなかったからだ。それは、公爵家の愛されし末姫が目の前にやってきたことで顕著になった。
二人が並ぶと、差は一目瞭然だった。
ごてごてと飾り立てたハリエットは確かに小動物のようにか弱く愛らしく見えるが、それもイリアがそばに並ぶまでだった。
ただそこにいるだけで透き通るように美しく、シンプルなドレスを着ているからこそ素材が秀でているのだとわかるイリア。その圧倒的な、まさしく宝石のような美貌は、ただ近くによる、というそれだけの行為で、ハリエットというただのけものを打ちのめしたのだった。
■■■
マグノリア学園、イリアの暮らす王国の名を冠した学舎において、無事な冬越えを祈願するためのパーティーが開かれている。
マグノリア国では冬が厳しく、昔は貴族であっても冬を越すことが難しかったから、命ある冬越えを祈って日もちのしない食材でささやかな宴を催していた。
だが今では国も発展し、食糧の問題も解決し、無事に冬を越すための魔道具がさまざまに発明されたおかげで春を無事に迎えられない民というのもほぼいないため、ただの歴史でしかない。
しかし、宴をして無事を祈るという文化だけが残ったため、現代になってもマグノリア国では年末にパーティーを開くことが習慣となっている。
ここ、マグノリア学園でもそうだ。
冬越えの宴、歴史の暗い部分など形骸化して久しい今では、日持ちのしない食糧、などというしばりもなく、ただ美味しいものを着飾って食べ、ダンスに興じるという楽しいだけの行事は、イリアの通うこの学園でも当然開かれる。
そのパーティーで、婚約者である第二王子の体調不良により、弟との参加を余儀なくされたイリアは、会場に入った瞬間、好奇のまなざしにさらされることになった。
くすくすと笑う誰かの声がする。
弟が周囲を睨みつけて威嚇するのを手で制して、イリアはダンスホールに足を進めた。
大きな窓から雪が見えた。はらはらと降る雪は、イリアの透き通るような銀髪と同じ色をしている。
「姉さん、あれ」
「……まあ。リチャードさま。お元気でいらしたのね、まあまあ、ダンスまで踊っていらして、あんなに無邪気に」
義理の弟が指示した先には、貴族令嬢たちに囲まれた婚約者がいた。先ほどの笑い声はここだったのね、とイリアは納得する。
にこにこへらりと笑うそのさまは、イリアの言葉がぴったり似あうほど「無邪気」だった。
自分が悪いことをしているなどとみじんも思っていない、子供のような楽しみ方。
いつものことだったので、イリアはにっこりとほほ笑んだ。
婚約者をないがしろにして、よそのご令嬢と浮名を流す王子は、もう18にもなるというのに分別というものを知らない。
それをかわいらしく思って、イリアはいきり立つ弟の頭をよしよしと撫でた。
これは王から打診された婚約。
おっとりとしてけして怒らず、しかし建国以来最高の才女と名高い、かつ公爵家の権力も備えたイリアは、まさしくリチャードの子守り役にぴったりだというわけだ。
事実、イリアはリチャードの起こした問題の後始末をしてやったり、リチャードの代わりに執務をこなしたりと、リチャードの尻ぬぐいをしてきてやった。
イリアは自分の一生がこの実にいとけない王子の乳母として終わるのだと思っていたし、納得してもいた。イリアは他人の世話をすることが好きだった。
「いいの?姉さん。あのバカ、仮病までつかって姉さんを放り出しておいて……それなのに」
「あらあら、わたくしのかわいいアレク。そんな汚いことばを使ってはいけなくてよ。それに、見てごらんなさい、アレク。リチャードさまのあのお顔……、まるで歩き出したばかりの幼児のよう。そんな幼い子のいたずらに怒ってはかわいそうよ」
「……僕は、姉さんが少しでも悲しく思うなら、あのバカを……リチャードの未来を閉ざしてやることだってできるんだよ」
バカ、と口にしたアレクをイリアが眉を下げて見つめると、アレクはぐうと喉を鳴らして頭をかいた。リチャードのよりも少しだけ明るい金髪がふわふわと揺れる。
「姉さん、本気で言ってるんだもんなあ……」
「いい子ね、アレク。わたくし、あなたが素晴らしい人間に育ってくれて、本当に嬉しいわ。きっと素敵なお嫁さんをもらえるわね。ふふ、わたくし、お嫁さんに嫉妬してしまいそうよ」
「嫉妬!?」
アレクがひっくりかえった声を出して、口を手で押さえる。
その顔は真っ赤で、イリアはどうしたの?とアレクの頬に手を伸ばした。
手に触れた、酷く熱い体温に、目を見張る。
「アレク、熱があるわ」
「違う」
「お休みしたほうが」
「何でもないったら」
「もう……。無理はしないのよ?」
公爵家の末の姫君である宝石姫と、血のつながりはないが彼女が大切にいつくしむ義理の弟。輝くばかりの銀髪のイリアと、まばゆい金髪のアレクは並ぶと一枚の絵のようだ。
周囲のだれかが感極まったように嘆息する。
そうやってじゃれる二人を、周囲の、高位貴族の令息令嬢たちがほほえましげに見つめる。
一方で、逆らえない下位貴族の令嬢を侍らせて顔をにやつかせているリチャード第二王子には、だれもが、使用人すら冷たい視線を向けた。
そうして、パーティーは進む。
楽しく食事を摘まみ、出席者と話す。ダンスは、リチャードがファーストダンスを踊ってくれることもないので他のひととは踊れず遠慮したが、イリアはそれなりに楽しく冬越えの宴を楽しんでいた。
傍らにかわいいかわいい弟のアレクを連れて。
だが、その喧騒を大きな、がなるような声で中断させたのがリチャードだった。
「皆の者!大切な発表がある!」
そう言って、リチャードが拡声の魔法具まで使って――彼は魔法が上手く使えないのだ――楽しんでいた皆の注目を集める。
これはいけないわ、とイリアは思った。なぜなら、楽しい宴の最高に盛り上がる時を騒音じみた声で中断させられた参加者たち学生は、みな一様にリチャードに対して負の視線を向けていたからだ。
相変わらず、思慮が足りない。
こんな場所で、そんな勝手なことをすれば、王子と言えど糾弾は免れまい。
これは国の名を関した学園の行事、すなわち、未来の貴族当主たちの大切な社交の場である以上に、国家行事なのである。
不勉強なリチャードは知らないだろうが、パーティーの余興ひとつひとつに儀式的な意味があるのだ。それを中断したとなれば、リチャードの代わりに役員たちが必死になって整えたパーティーが台無しになってしまう。
「リチャードさま」
フォローに入るべく、イリアは声を届ける音の魔法で、リチャードにだけ聞こえるようにその名前を呼んだ。
リチャードの視線がこちらを向く。よかった、気付いていただけたんだわ、と思って微笑んだイリアだったが、次にリチャードの口から発せられた言葉に、目が点になってしまったのだった。
「イリア・トゥール!お前との婚約は今日をもって破棄する!」
――そうして冒頭に戻る。
ショールをかけてやった、震えるハリエットの肩を抱いて、イリアはやさしく「大丈夫ですよ」と声をかけた。
こんなに震えて、かわいそうに……。
わなわなと震えるリチャードの言葉など耳に入らない。
イリアはいつだって弱者の味方だ。この場において二番目の弱者がリチャードなら、一番の弱者はハリエットだろう。こんなに脆弱で芯のない存在を、イリアはいままで見たことがなかった。
やさしくやさしく頭を撫でる。すると、その手がぱっと払いのけられた。
もっと言ってしまえば、軽い火花とともに、儚い攻撃魔法がイリアの手に放たれた。
イリアが軽く瞬きするだけでかき消せてしまうような弱弱しい魔法だ。
驚いてイリアが目を見開くと、ハリエットはどうして!と血走った眼で叫んだ。
「このおとぼけ女!あんたが今することは、リチャードさまとの婚約破棄をはいと受け入れることなのよ!?どうしてそんな、気にしてないみたいな演技を……」
「演技?いいえ、リチャードさまは大変熱心に作家の練習をしていると思いましたわ。わたくし、もしかしてエキストラに配役されていましたの?気づきませんでもうしわけありません。けれど、以前から許可なく催し物をしてはいけませんとリチャードさまには申し上げております。もう忘れてしまったのですね?リチャードさまがご迷惑をおかけしました、ハリエット嬢。ご実家のクローネ男爵家には、今度お詫びの品を持っていきますわね」
実家の名を当然のように知っているイリアに、ハリエットが瞠目する。
しかし、将来の王子妃が国の貴族令嬢の名を覚えていないわけがない。イリアとしては当然のことなのだが、ハリエットはひどく動揺したようでその顔を真っ赤に染め上げた。
「な……によ!リチャードさまがあんたのものみたいに!」
言うが、ハリエットは手の中に火球を出現させた。
イリアさま!と誰かが悲鳴を上げる。火球が大きくなり、ごうと音を立てるとイリアに向かって放り投げられた。
イリアは眼前に迫る火球を呆然と見ていた。動かないイリアに、周囲の人間が悲鳴を上げる。
――その時。
ふわり、と体を抱きしめる慕わしい体温。やわらかな匂いがイリアの鼻腔を占めて、イリアはあら、と小さく口にした。
「アレク?どうしたの」
「姉さん……、無茶をしないで、助けを呼んでといつも言っているでしょう」
「助け?」
イリアが首を傾げると、ハリエットはイリアを抱きしめたままのアレクを見て、ああ!とはしたなく叫んだ。
「だ、第一王子のアレクシス……!?隠しキャラの……!うそでしょ!条件を満たしても現れないから、バグで消えてるんだと思ってたのに……!」
隠しキャラ?バグ?またリチャードの作品の話だろうか。
イリアがリチャードを見上げると、リチャードは小動物のようだったハリエットの豹変に腰を抜かしていた。
淑女を放り出すとは情けない。あきれ返ってものも言えない。
「アレクシスは、リチャードと同日に生まれた第一王妃の子……。でも第一王妃が死んだから、後ろ盾もなく離宮の奥に住んでるはず……。だからリチャードとの好感度を上げてから何度も離宮に行ったのに、そこはもぬけのから!だから絶対バグだと思ってたのに……!」
「ハリエット嬢……?」
イリアは驚いて目を瞬いた。
だって、ハリエットが口にしているのは10年前のゴシップ誌が騒ぎ立てた内容だからだ。
10年前に終わった内容を繰り返している意味がわからない。
彼女の実家は田舎だと言っても、さすがにそこまで世間に疎いものだろうか。
疑問に思っていると、隣にいるアレク――アレクシスが、呆れた声で「は?」と口にした。
「古い、情報が古すぎる。頭に埃でも詰まっているのか?たしかに僕は10年前まで離宮に住んでいた。後ろ盾がない僕では、暗殺の危険から身を守れないから、隠されていた」
「ほら!その通りでしょ!?」
「……しかし、トゥール公爵令嬢が僕を見出し、公爵家を後ろ盾として僕を庇護してくれた。それは公式に発表された、正式な情報だ。それ以来、僕は公爵家に住んでいる。王位継承権第一位の王太子として、ふさわしくあるように教育を受けながら!」
「ハァ!?し、しらない、ゲームには、そんなこと」
「自分の不勉強を棚に上げて何を……。お前ごときが僕の大切なイリアに並び立てるとでも思ったのか」
アレクが力説するが、そこまで力を籠めることでもない。と、イリアは思った。
あの日、迷子になったイリアが偶然迷い込んだ離宮で出会ったアレクシス。イリアは、その孤独な様子があまりにも胸を締め付けたから「わたくしがずっとあなたを守るわ」と手を差し伸べたに過ぎなかった。
大げさだとは思うが、イリアと同じくずっとそのことを忘れていなかったアレクに、イリアは胸のうちがほのあたたかくなるのを感じた。
イリアがしたことは大したことではない。けれど、あの日アレクに出会ったことは、イリアの中でも大切な思い出だったからだ。
思わず微笑んだイリアを見下ろして、アレクのこわばった顔が少しだけ緩む。
しかし、そこで我に返ったリチャードが参戦してきたため、アレクはまた氷のように冷たい表情を浮かべることとなった。
「アレクシス、お前が王太子だなんて聞いていない!お前は臣籍降下したから公爵家に行ったんじゃないのか」
「リチャード、この国では産まれ順に継承権がある。たった数時間とはいえ僕が兄だ。だから僕の継承権はお前より高い。それに、お前は遊び惚けているから知らなかったのだろうが、三年前に立太子も済ませている。お前は仮病を使って儀式をさぼり、遊んでいたから知らなかっただろうがな」
知らなかっただろうが、と強調して言うアレクに、さすがのリチャードも嫌味を言われていることを理解したらしい。
背後にイリアをかばって立つアレクに、唾をまき散らしながら食って掛かった。
「そんな……の、教えてくれないほうが悪い!」
「イリアは何度もお前に忠告していたし、お前の側近も何度もそれをお前に伝えていた。くだらないと言って狩りに出かけたのはお前だ、リチャード」
「え……?あ……そ、そんな、こと」
「父上は悲しんでおられたよ。見捨てたくはないとも。しかし今しがた、通信魔法で連絡があった。王としてこれ以上は看過できない。お前を廃嫡し、罪人の塔へ生涯幽閉すると」
すらすらと口にするアレクは、ハトの形を形どった通信魔法を肩に載せたまま、リチャードを冷たく睥睨した。
「父上も、イリアも、何度もチャンスをやっていたんだ。それを無視したのはお前だ」
「そ、そんな……」
「連れていけ」
アレクが、王太子アレクシスの顔をして衛兵に命じる。
どこからともなく集まってきた彼らは、なにか言い募るリチャードを捉えて簀巻きにし、ホールを出ていった。
これでひと段落したのかしら、と息を吐いたイリアは、自分がきちんとリチャードを育てられなかったことを苦しく思って胸を押さえた。
もっと自分にできることがあったのでは、と思ってしまうことをやめられない。
「姉さん……イリアが悪いんじゃないよ。リチャードが愚かだっただけだ」
「アレク……いつもあなたはやさしいわね。思えば、弟が欲しいと駄々をこねた私のために、弟としてふるまってくれたもの……あなたは王子様なのに……」
あなたは最初からやさしかったわ、とイリアは微笑んだ。
そんなイリアを見て、アレクは顔を赤らめる。やはり熱があるのだろうか。心配になって、イリアがアレクの額に手を伸ばしたところで、背後からきんきんと高い声がやってきた。
「ちょっと!なんで悪役令嬢が幸せになって、私がこんな目に合うのよ!おかしいでしょ!」
ハリエットだ。ハリエットは子リスのような顔を悪鬼の如くゆがめ、イリアを指さした。
悪役令嬢とはなんのことだろうか、そう思ったイリアと、同じことを思ったのだろう、イリアをかばうように立つアレクシスが問い返した。
「悪役令嬢?」
「そう、そうですアレクさま!この女は悪役令嬢なの!私をいじめた罪で、悪役令嬢イリアは国外追放!公爵家はおとりつぶしになる運命なの!」
ざわ……とさざめきが広がる。当然だ。明らかに自分より身分の高い相手を、こんな衆目のある場所で侮辱することは許されない。あまりにも異常な行動に、誰も理解が追いついていないようだった。
アレクは不機嫌な顔を隠そうともしない。それはそうだ。イリアを指した悪役令嬢という言葉――悪役、という枕詞があるならいい意味であるはずがない。10年のときを家族として過ごしたイリアがそうののしられて、いい気分であるはずがなかった。
どう見ても今のアレクに話しかけるべきではない。そのくらいアレクの苛立ちは大きかった。
あんな小動物のような令嬢が、今のアレクに立ち向かうなど無謀すぎる。きっとこの子はわかっていないのだわ、と思ったイリアは、アレクを止めるためにアレクの名をを呼んだ。
「アレク、おちつい――」
「黙りなさいよぼんやり女!私は今アレクと話してるの!」
「お前にアレクと呼ばれる筋合いはないな」
ああ――……。イリアはかわいそうなものを見るときのように、ハリエットを見つめた。
ごてごてとしたドレス、けばけばしい髪色、重たげなアクセサリー。
ただでさえそんな恰好をさせられ、晒上げられたのだ。恐怖で動転していてもおかしくはない。
だからかばおうとしたのに、こうなってはアレクは止まらない。
彼が一番大切だ、と公言するイリアを悪く言われたときのアレクは、イリアでも落ち着かせるのに難儀するのだ。
「そもそも、お前は先ほどイリアに攻撃魔法を使ったな。イリアほどの魔法の技量がなければ怪我をしていたはずだ」
「それ、は」
「見間違い、などという妄言が通ると思うな。目撃者はご丁寧にリチャードが集めたここの全員だ」
なあ、と言って、アレクは背後を振り返った。
高位貴族も下位貴族も、みなアレクの「イリア至上主義」っぷりを知っているので一様に首を縦に振る。
味方のいない――いいや、そもそも彼女の味方は最初からリチャード以外にいないのだが――ハリエットは、悔しげに歯噛みする。
かわいそうに……。アレクの糾弾は度を越している。見ていられなくて、イリアはアレクの頭を胸に押し付け、ぎゅっと抱きしめた。
「いい、イリア!?」
「アレク、わたくし、あなたをそんな血も涙もない冷血漢に育てた覚えはなくってよ」
声を裏返して叫ぶアレク。抱きしめてやるといつもこうやっておとなしくなると知っている。そうして諭すように言った。
イリアの言葉に、その場のイリアたち当事者を除く全員が「アレクシス王太子殿下はその血も涙もない冷血漢です!」という考えで心をひとつにしたのだが、当然イリアは気付かない。
イリアは知らないことだが、イリアのいないところでのアレクシスはイリアに重すぎる愛を捧げ、イリアにあだなすものを絶対に許さない、かつイリアにしか心を開かぬ氷のような貴公子として有名なのである。
というのはさておき、イリアはそんなクラスメイトたちの戦慄に気づかぬまま、アレク、と続けた。
「わたくし、攻撃なんかされていないわ」
「イリア、どうしてこんな奴をかばうんだ!」
いつのまにか姉と呼ばなくなった弟に、わたくしのためにこんなに怒っているなんて、とイリアは眉を下げた。
やさしすぎるのがたまに傷なのだ、この子は。
「攻撃なんて、そんな……だって、あんなに攻撃力の低い、そよかぜのような魔法が、彼女の全力であるはずがないじゃない。ハリエット嬢だって、この学園の生徒よ?全力を出して、ただ障壁を出しただけのわたくしの皮一枚すら焦がせないなんて……それがもし、もしよ?事実だとしたら、彼女は全力を出してもこの程度の魔法しかつかえませんと公言したようなものなのよ?そんな、恥をかいてしまうだけの行為をする人がいるなんて……本気で言っているの?」
「……は?」
「ああ、ハリエット嬢、大丈夫、大丈夫よ、わたくしはわかっていますからね。あなたがただ驚いてくしゃみをしただけだということを」
ハリエットが呆然とイリアを見つめる。
くしゃみ?本気で言っているのだろうか。あれは、ハリエットのまごうことなき全力だった。本気でイリアを殺すつもりで魔法をはなったのに、一度目は瞬きでかき消され、二度目はアレクシスによってかばわれた。二度目はともかく、一度目は偶然だと思った――思いたかった。
だって、もし、もしそれが、本当なら、イリアは、この女は、化け物のごとき魔法使いだと――自分など、指先一つで消してしまえる存在だということになる。
そして、それは同時に、イリア・トゥール公爵令嬢にとって、ハリエットなど塵芥以下の存在であると、そういうことになってしまう。
認めたくない――そう、思ったのは一瞬だった。
ね?とイリアが小首をかしげる。ぞっとした。この世界をゲームだと思っていた。
だから、この世界は自由になると――しかし、今目の前にいる女は何だ。婚約者からはないがしろにされ、邪魔な小娘が現れて――それを全部ひっくるめて許す女。慈愛なんてかわいらしいものじゃない、やさしいだけの人間?そんなわけがない。それができるのは、圧倒的な強者だからだ。
宝石姫――イリア・トゥール公爵令嬢――トゥール公爵家の愛すべき姫君。
そのきらきらしい名前が覆い隠していた事実が、今、ハリエットの前で明らかになる。
死、という概念が急に近いものになって、ハリエットは背筋に氷を落とされたような感覚に陥った。
「ひ――……」
じょわ……。水音がして、異臭がする。ぽたぽたとドレスの裾からなにかだ垂れ落ちるが、そんなことを気にする余裕はもはやハリエットにありはしなかった。
逃げなければ、と思った。どこへ、どこでもない、どこか遠くへ、この女のいないところへ!
「ハリエット嬢?」
「いや……いや……ごめんなさい、ごめんなさい……」
「大丈夫、大丈夫よ……?取り乱して……ああ、かわいそうに……」
イリアの伸ばした手を振り払う。衛兵に跪いたハリエットは、どうか私をとらえてくださいと泣きながら懇願した。
困惑する衛兵たちに、アレクが「連れていけ」と短く命じる。
怯えの理由を察したアレクは、もうこれ以上ハリエットを詰る理由を見つけられなかった。ゆえに、あとは法の裁きに任せたのである。
■■■
「イリア、大丈夫だった?」
「なあに?アレク。わたくし、なにも危害など加えられていなくってよ?」
銀糸の髪をふんわりとなびかせ、イリアが目を細めて笑った。
王国始まって以来の才女、歴史上最強の魔法使い、宝石のように美しい公爵家の末姫。
そんな肩書を背負った彼女は、誰もかれもを自分より弱いものとして見てしまう。
守ろうとして、手を差し伸べずにはいられないのだ。
アレクも、そんな彼女に救われた一人だった。
日の光の入らぬ、うらぶれた離宮。父王から忘れられて久しく、ただ息をするだけの日々に、突然現れたまばゆい少女。
イリア――アレクシスの――アレクのすべて。
イリアは、王子と思えないぼろぼろの姿をしたアレクを、ごく当たり前に弱者として見たのだろう。
――ごきげんよう、わたくしはイリア。あなた、わたくしと一緒に遊びましょう?
白い、やわらかな手。けれど、その指には令嬢には似つかわしくないペンの跡があった。
離宮の奥まで届く噂に聞く彼女の強さが、才能だけによるものではないと知った。
彼女のやさしさは、強さによるものだ。高慢ともいえる自らの力への信頼が、彼女を女神のような少女にした。
それを知った時、アレクの一生はこの少女のために使おうと決めたのだ。
アレクを救った、誰よりも強い少女。
その奥にある一片の儚さが、アレクの魂を揺さぶった。
――好きだ。
初めてで最後の恋は、うまく空気を取り込めない炎のようだった。彼女には自分の弟という婚約者がすでにいた。
許せなかった。彼女の隣は自分であるべきだと思った。
だから、その日、アレクはイリアの父であるトゥール公爵に頭を下げたのだ。
必ず王になる、イリアを幸せにする、だから自分を鍛えてくれと。
幸い、立太子はまだ誰もされていなかった。
不確かな未来をカードにして、アレクは一世一代の賭けをした。
王太子として立ち、地盤を固めた。それでも足りない――そんな時、アレクは自分は異世界から生まれ変わったのだと妄言を吐く精神病院の患者の話を聞いた。
カルテに書かれたその内容は、名前も立場も、今の自分たちに酷似していて。だからアレクは彼女を男爵家の養女とし、この学園に来るように話をすすめた。
すべてはアレクの計画通りだった。
予定通り、リチャードは王族から籍を抜かれ、自分の玉座は揺るぎのないものになった。
予定通りでなかったのは愛しくてならないイリアのことだった。
イリアがリチャードを恋愛対象として見ていないことは知っていた。
だが、まるで幼い子供のように考えているとは思わなかった。彼女の弱者救済主義がリチャードより弱い患者――ハリエットに向くのも予想外で、アレクはパーティーの間、イリアの一挙一動に冷や汗をかいたものである。
結論として、アレクの計画は半分成功、半分失敗という結果に終わった。
失敗というのは、プロポーズだ。本来ならここでアレクがイリアを救い、その流れで告白する予定だったのだが、イリアの無自覚な介入によっておじゃんになってしまった。
アレクはため息をついた。
「どうしたの?アレク」
「いや、その……」
「悩みがあるなら相談してね?わたくし、アレクのこと、誰よりも大切なの。アレクがつらいことは、何より悲しいことだわ」
「……ありがとう」
イリアの言葉は、家族である弟に向けてのものだ。わかっている。
姉さん、と呼ばなくなったことを、イリアは言及しなかった。
問われたら「弟じゃなくて婚約者として、などというプロポーズをしようとしていたが引っ込みがつかなくなった」などと哀れ極まりない告白をせねばならないところだったのでありがたい。が。
イリアは、きっと深く考えていない。考える必要はない。だって彼女はすべてを赦してしまうのだから。
けれど――わかっているけれど――。
アレクは、目を細めて、自分よりずっと下にあるイリアのつむじに口づけを落とした。
「アレク!?」
「はは、イリアが取り乱すとこ、久しぶりに見た」
「……それはそうよ。わたくし、あなたのことになると、ちょっと以上にいろいろ考えてしまうんだもの。病気なのかもしれないわ」
「――……!」
「アレク?もう、人が真剣に悩んでいるのに……」
「ごめんごめん」
上目遣いのイリアがかわいくてしかたない。
これは家族への感情、まだ、イリアは恋をしらない。
だけど――まだ知らない、が知っている、に変わるのは、もしかするとそう遠い日のことではないのかもしれない。
しんしんと降り積もる雪が、月の光に照らされて淡く光る。
明日も雪だ。イリアの髪色のような雪が降る。
それすら愛しく思うなんて、自分でも馬鹿らしいと思う。でもそれでいい。
だって、恋は盲目であるべきなのだから。