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王太子の悩み

公爵令嬢の歓び

作者: 有野彼方

「王太子の悩み」の連作です。前作をお読みいただかなくても楽しめるように書いたつもりです。

「是非貴女を私の妻として我が国へ迎え入れたい」

ある朝、突然の客人は応接室で顔を合わせるなりそう言って公爵令嬢の前に跪いた。

「国王陛下が他国の令嬢に頭を垂れてはなりません。どうぞお立ちになってください」

混乱と困惑を隠しながら、公爵令嬢はきっぱりと客人を押し留めた。

馬で早駆けしてきたらしい客人は、髪も衣装も乱れているが、隠せない色気と誰もがひれ伏す高貴さに溢れている。

「流石、貴国の氷の薔薇と呼ばれた貴女だ。貴女を困らせてしまってはいけないね」

と客人、いや隣国の国王陛下は立ち上がり、長椅子にゆったりと腰掛けた。

それを確認した公爵令嬢も向かい合って座る。

公爵家当主と夫人も令嬢を挟むようにして腰掛ける。


「陛下、わたくしは我が国の王太子殿下と婚約を解消したばかりでございます。それにも関わらず、すぐに陛下の申し出をお受けしてそちらの国へ嫁ぐような、厚顔無恥な振る舞いをする訳には参りません」

使用人が淹れた茶を口にして一息ついた公爵令嬢は、尤もな理由を述べた。だが相手はそれをものともしなかった。

「相性の悪い婚約者との時代遅れな婚約を解消したことなど全く問題ないし、貴女のお顔は綺麗であったり愛らしかったりすることはあれど、厚顔無恥になることはありえないな」

隣国の国王は微笑みながら、公爵令嬢の言い訳を却下した。そればかりか、

「それにしても、貴国の筆頭公爵家の令嬢に似つかわしくない簡素な衣装を召されているが、これからどこへ行かれるおつもりだったのか。見たところ、公爵夫妻はご一緒されるわけではないようだ」

と、目の前に並んだちぐはぐな衣装の公爵家の親子を睨んだ。

「わたくし、旅に出たいのです」

「旅に」

「ええ」

この人になら話せる気がする。公爵令嬢は、氷の薔薇と称された冷静さをかなぐり捨てて、素直に語り始めた。

十年前に王太子の婚約者となってから、領地に帰ることもできず、妃教育や公務に勤しんできたこと。見渡す限り続く広い海や高い山、爽やかな高原、賑やかな港や市場、周囲から伝え聞く様々な景色を見てみたいとずっと願ってきたこと。

「そして、自由が欲しいのでしょうね」

「自由」

隣国の王は意外そうに首をかしげた。

「ええ。ほんの少しばかりの」

公爵令嬢は微笑んだ。

「もちろん陛下や、お仕えしていた王太子殿下がそれを許されない苦しいお立場にあることは存じ上げています。でも、この度のことがあって、少し疲れてしまったのです」

公爵令嬢は、元婚約者との日々を思い浮かべた。王太子は亡き王妃に似て心優しく、愛に飢えて、そして凡庸な人だった。筆頭公爵家の娘として、王太子を支えるように王命を受けての婚約だったが、同い年の少女が同い年の少年に勉強や公務について進言することはできても、抱える劣等感を癒し、少年が思うような愛を与えることはできなかった。ましてやその原因が自分にもあるならば。

少女は悩み、両親とも相談して、時を待つしかないと早々に結論づけたのだった。


「貴女は私が貴国を訪問した時も、細やかな心尽くしと行き届いた目配りをしてくれた。あのようなことがあり、疲労を感じるのも無理はないが、それで貴女の努力や心根の優しさが損なわれるものではない」

「ありがとうございます」

一年前のことを思い出して、公爵令嬢は社交辞令でない笑みを浮かべた。

即位したばかりの隣国の若き王が近隣国を歴訪することになり、王と世代が近い王太子と婚約者の公爵令嬢が責任者となってもてなした。

失礼のないよう、我が国の印象が良くなるよう、また、隣国の習慣や王の好みにできるだけ添えるよう、歓迎行事や訪問先の内容や列席者の選定から、食事や滞在する部屋のしつらえ、もてなしに携わる使用人の選定と教育まで、大変ではあったが、学びも多くやりがいがある仕事だった。

そう感じられたのは、一年前も今も隣国の王が率直に礼を述べてくれるからだ。ならば、わたくしも率直に言おう、と公爵令嬢は決意した。


「幾月か、この場所から離れて、今後のことをゆっくりと考えたいのです。ですから、大変光栄なお申し出ですが、今この場ではお答えいたしかねます」

そう言い切ると、公爵令嬢はふう、と小さく息をついた。公式の場では決して見せない、年齢相応の表情だった。


「そうであったか」

隣国の王は公爵令嬢のささやかな願いを叶えてやりたいと思った。彼女の願いと、彼女を自分の妻に迎えたいという自分の願いは矛盾しない。

「それでも令嬢が一人で旅に出るのは危ないのではないか」

「公爵家の商隊に同行させてもらって母方の親戚のところを訪ねます。両親も安心しますから」

と公爵令嬢は父親である公爵の顔を見上げた。公爵も優しく頷いた。

「南の国を経由してそちらの国へ向かうのです。貴国の王都に妻の親類が住んでおりまして」

「ああ。確か令嬢の祖母君が我が国の公爵家の出身なのだったな。あの家の者たちなら安心だ」

王はほっとしたように頷いた。

「祖母のことをご存知でいらっしゃるのですか」

公爵令嬢は目を見開いた。

「妻として迎えたい女性のことだ。人となりが申し分ないのはわかっていたので、悪いが親類縁者についても調べさせてもらった。もちろん何の問題もなかった」

王は公爵家の親子に向かってさらりと続ける。疫病や先王の急死で突然代替わりした影響で、王に釣り合う年齢と家格、素養を備えた令嬢が国内に非常に少ないのだという。数代前の王の血を引く公爵令嬢は貴重な存在だと。


「だが、それだけではない。一年前にお会いした時から、できれば貴女のような優しく芯が強い、美しい人を妻に迎えたいと思っていた。それは叶わないものだと考えていたが、今回の件で私にも幸運が巡ってきた」

王は強い眼差しで公爵令嬢を射抜いた。

「旅に出て今後のことを考えてからで構わない。どうか私の妻となることを考えて欲しい」

公爵令嬢の旅の終着地となる隣国の王都で待っている、と王は言い残してまた早馬を飛ばして去って行った。

本当に少数の供のみを連れて、ここまで駆けつけたようだ。


「殿下に婚約解消を申しつけられたのが七日前。正式な公示は三日前でしたのに、どこでお知りになったのかしら」

門まで王を見送った公爵令嬢は、顔を赤くしたまま首をかしげた。

「あの方には様々な目と手が伸びているのだろう」

公爵は一旦中止させた娘の嫁入り準備を再開せねば、と算段を立て始めた。


その日のうちに公爵令嬢も商隊と共に馬に揺られていた。

王都で馬に乗る機会はなかったが、婚約前までは領地を馬で駆け回っていた。

馬車も悪くないが、できれば久しぶりに馬に乗りたい気分だ。

見慣れた王都近くの農村の風景も、馬に乗って視線が高くなるとずいぶん違って見える。


普段は男所帯だという商隊は、公爵令嬢と商隊長の双子の息子と娘が加わり、若さと華やぎに満ちていた。

「お嬢様のおかげで私も加えてもらえたようなものなんですよ」

と双子の片割れの娘は、甲斐甲斐しく公爵令嬢の世話をしながら言った。

「私だって商売の勉強をしてるんだから、王都で商売するだけじゃなくて商隊に参加したいって父にずっと言ってたんですけどね」

娘の強みは布類だという。公爵令嬢の仕立てる美しい衣装の生地も、ほとんどはこの娘の見立てにより商会が仕入れたものらしい。

公爵令嬢は、貴族の娘とはまた違った強さを持つこの娘ともっと話したいと思った。

馬車で娘とおしゃべりしたり、道が安全なところでは馬に乗せてもらったりしながら、公爵令嬢の旅は進んだ。


王都で様々な商品を積み込んだ商隊は、各地で商品をさばきつつ、各地の特産品を仕入れながら旅をする。

公爵令嬢は初めて国境を越え、南の国で海を見た。港は活気にあふれていた。公爵令嬢は手に銀貨と銅貨を握って、市場で鮮やかな彩りの薄布を買い、市場を颯爽と歩く南の女たちのように身体に巻きつけてみた。色とりどりの見たこともない果物をかじってみた。夜は隊長や双子らと新鮮な魚料理に舌鼓を打った。満天の星を見ながら双子といつまでも語り合った。

高い山にも登った。山百合が香り高く気高く咲いていた。高原では山羊が暢気に草を喰んでいた。

そうしているうちに、夜もよく眠れるようになり、紙のように白かった顔に薔薇色の血色がさし、夜会服を着るのに腰回りを締め上げる必要がないほど細かった身体も女性らしい柔らかさを帯びてきた。

体調が整ってくると、敢えて考えないようにしていた元婚約者のことを考える心の余裕も、公爵令嬢に生まれていた。


彼とうまくやるためには、甘やかしたり煽てたりして、自尊心を満たしてやることも必要だったのだろう。それは今のわたくしにはできるかもしれないが、出会った頃の幼いわたくしにはできなかった。公爵令嬢として誇り高くあることを美徳として育ったわたくしには、考えもつかない行為だったから。

時が経つに従って、初めはほんの少しのずれと見えた道は大きく離れていき、気づいた頃には取り返しがつかないほど距離ができてしまっていた。

いつか彼が気づくかもしれない、と儚い可能性に賭けたのはわたくしの過ちだった、と公爵令嬢は苦い思いで唇を噛む。


それゆえに、元婚約者と子爵令嬢が仲睦まじくなっているという知らせを父の家臣から受けた時には、この出口のない迷路から抜け出せるかもしれない、と公爵令嬢は心底安堵した。


子爵令嬢が王太子に接近したのは、政治的な意図を含まない、ただの偶然からであったらしい。子爵令嬢の父親も親戚も地道に働くことを尊ぶ一族だ。子爵家の寄親である侯爵も穏健派で、王政に口出しすることはないだろう。

そもそも、王太子と公爵令嬢の結婚がほぼ既定路線であったため、貴族たちはやがて生まれる王子か王女と家門の子孫を娶せるために、適齢の令息令嬢の婚約を積極的に結んでいた。庶民のものとされていた恋愛結婚さえ、一部では推奨されたほどだ。

そのような中で子爵令嬢に婚約者がいなかったのは、領地を持たない子爵家の家計がかつかつで、末娘に持参金を用意できないためだったらしい。子爵令嬢は持参金を求めない裕福な結婚相手を探して、ずいぶんいろんな場所へ出入りしていたようだ。そして、最後に大物を釣り上げたー。


元婚約者と子爵令嬢のことは別に構わない、と公爵令嬢は頭を切り替える。


婚約を結んだ相手に、相手が期待するような愛や優しさを捧げられなかったわたくしが、そのような人間になれるのだろうか。また同じことを繰り返したら…。

公爵令嬢の眼裏に、隣国の王の顔が浮かぶ。旅の間に妻となることを考えて欲しいと言ったあの強い眼差し。

わたくしにいつも感謝と思いやりの言葉をくださるあの方になら、わたくしも優しさを返していけるだろうか。絶えず優しい言葉を求めてばかりの元婚約者にうんざりしていたわたくしもまた、同類だったのかもしれない。

と公爵令嬢は馬を進めながら考える。


あの方は、まだ待っていてくださるだろうか。いや、守るつもりのない約束はしないお方だろう。

公爵令嬢は、また隣国の王に会いたいと願った。そしてこの旅で見たこと、聞いたことをお伝えしたい。あの方は、わたくしの情けない失敗だってきっと笑いながら聞いてくださるだろう。

それからの旅の道のりは、逸る心を焦らすようにずいぶん長くゆっくりと進んでいると公爵令嬢には思われた。


旅立ちから二月後、ついに公爵令嬢は隣国の王都に足を踏み入れた。祖国のように繊細で細やかな装飾は少ないが、温かく質実剛健な建物が並ぶ街並みを、公爵令嬢はあの人のように好ましいと感じた。


出発時に手紙で知らせていた母方の親戚の邸まで送ってもらい、商隊とはそこでお別れだ。父の傘下の者たちだから、また会うこともあるだろう。

「不慣れな私をここまで連れてきてくださって、本当にありがとうございました」

公爵令嬢は深々と礼をする。

「いいえ、我々もお嬢様と旅をして、いろいろな商売の手がかりをいただきましたからな。大変有意義な旅でした。ここでもいい商売ができそうですよ」

公爵令嬢が滞在する母方の親戚は隣国の公爵家だ。今までも取引がないわけではなかったが、今後は強いつながりもできそうで商隊長は喜んでいた。

旅の間に親友のようになっていた双子とは、手紙を送り合うことを約束した。


公爵令嬢と母方の親戚が会うのは初めてだったが、公爵令嬢は初めて会った気がしなかった。母と同じ髪と目の色の人たちばかりで、さらに亡くなった祖母とうりふたつの女性がいたせいだろう。

その女性は、祖母の姪にあたる人物で、侯爵家に嫁ぎ、現王の乳母も務めたという。

「坊っちゃんはお小さな頃から欲しいものは決して離さない人ですよ。よろしいのですか。今ならまだ貴女を帰すこともできるでしょう」

「まあ」

急遽整えられた歓迎の晩餐の席で、侯爵夫人の言葉に公爵令嬢は目を丸くした。若き為政者として上々の評判の王も、乳母にかかっては形なしだ。

「母さん、それは無理だろう。この二月というもの、陛下がどれだけ根回しをしてきたか」

息子で、王の幼なじみだという男性が、苦笑いする。

「二月前から当家ゆかりの女性を妻に迎えるという噂を流しておられる。うちには今娘がいなくて男子ばかりゆえ、一体誰なのかとずいぶん探りが入ったよ」

「大変申し訳ございません」

壮年の公爵家当主の言葉に公爵令嬢は赤くなった。

「氷の薔薇と呼ばれていると聞いていたけど、ずいぶん可愛らしいお嬢さんね」

公爵夫人はおっとりと笑う。

「何にせよ、さっき城に知らせを出しておいたから、明日には城に呼ばれてもおかしくない。今日はゆっくりと休むといい」

「ありがとうございます。そうさせていただきます」

当主の言葉に甘えて公爵令嬢が立ち上がろうとした時、執事が慌てた様子で来客を告げた。


「我らが太陽の君がお見えになりました」

この国では、太陽の君とはこの国の唯一の人、王のことである。

「ほら言ったでしょう」

元乳母である侯爵夫人は胸を張る。

「心は決まっているのかい」

当主は父親のように心配そうな視線を公爵令嬢に投げかけた。

「はい。こちらへ参る前に決めておりましたから」

公爵令嬢の小さな顔には隠しきれない歓びが溢れている。衣ずれの音だけをさせてすらりと立ち上がると、公爵令嬢は待っているあの人の元へ歩き出した。

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[良い点] お互いに相手について求めるだけだったと回想するところが見事でした。 失って離れてからわかる、お互いの未熟さ、ままならなさを冷静に見る機会を与えることができなかったのも、二人の周囲の大人たち…
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