ニンジャ・イン・パワードスーツ ~機械化「忍者」部隊~
1
2005年のサンフランシスコは猥雑なネオンの海に沈んでいた。地球は、ネットという目に見えない布に覆われていた。個人コンソールや携帯端末だけではない。眼鏡にも、腕時計にも、スクランブル交差点にも、ネットの糸は伸びていた。
「ソニー」「NEC」「アサヒビール」、「とても安い」「高品質」「のどごし」。太平洋に面したこの港町には、異常な経済成長を遂げた日本の企業という名の藻が海を超えて繁殖してきている。
キースとスティーブを乗せた漆黒の小型ステルスヘリが月夜の空を飛んでいた。ネットの布が視覚化されたら、ローターの風圧で波打っていたことだろう。
「降下地点に到着。着地ポイントに敵影なし。準備急げ」ノイズ混じりのパイロットの声が二人のヘッドセットに届く。
「ゴムなしバンジーの時間だ」スティーブが向かいに座るキースに顎でドアを指す。彼のゴーグル型HUDが黒光りする。
「飽きない奴だ」とは言うものの、キースも内心10億(1ビリオン)ドルの夜景の中にダイビングするのは満更でもなかった。こんな機会は彼らでもめったにない。
キースがヘリのドアを開けると、日系人特有の黒髪が夜風になびく。
厳密には、キースは通常の日系三世などとは事情が違った。彼の両親は両方とも日本出身で、仕事の関係上アメリカ国籍に変えた。キースはいわば、「純血の」日本人から生まれたアメリカ人なのだ。
彼の両親は飛行機事故で亡くなった。その時、孤児になりかけた彼を拾ったのは、父型の曽祖父の弟であり、最後の忍である、ミスター・ハセガワ(本名を、長谷川辰之助という)の養子となって日本で育てられた過去がある。
辰之助はキースに、世を生きるための術として忍術を、その命が尽きるまで教えていた。「本物の忍」から教えを授かったキースは、肉体的にも、精神的にも、逞しく成長していった。
アメリカに戻ったのは、18歳の時に辰之助が亡くなった後のことだった。自分のルーツを探りたかった気持ちがどこかにあったはずだ。
強化外骨格を着用している二人の出で立ちはやや筋肉が盛り上がって見える。CNTの人工筋肉が人間の形を模しているからだ。人工筋肉はグレーの合成繊維でカバーされていた。擦れる音がほとんどしない隠密性と、防刃性も備えた特注品だ。
そして胴体や関節部にはマットブラックの特殊ポリマー製アーマーが施されていた。この特殊ポリマーは軽量で且つライフル弾を100発も耐える強度を誇る。無論、9mmパラベラム弾などこのアーマーの前では豆鉄砲同然だ。だが油断することなかれ。アーマーが無い部分に当たれば普通に怪我をする。過信は忍にとって最大の敵だ。最強の鎧を着ているからこそ、最大の緊張感が必要だ。
「降下5秒前――4、3、2、1、グッドラック」
キースとスティーブは同時にヘリの外に飛び込んだ。一瞬の無重力感。二人の眼前に日本語が輝く海が広がった。
パラシュートレス・ダイビング。強化外骨格のエキスパートだからこそ許される、極めて隠密性の高い中距離降下テクニック。二人はめいっぱい体を広げ、空気抵抗を取り入れる。風に煽られて着地ポイントから逸れないよう、細心の注意を払う。
角膜のHUDが目標ビルの屋上の着地ポイントを二人の網膜に送る。目薬のように液体を指すだけで表示してくれる便利な代物だ。安全性は厚生省の科学者からお墨付きを貰っている。
闇夜に紛れてダイビングする2つの影に誰も気付かなかった。ただ、超高層ビルのスクリーンに映し出された「強力わかもと」を頬張る芸者だけが見守っていた。
2
「ジェフティ商会」の司令室はロサンゼルスのダウンタウン一角にある、古ぼけたビルの一室だった。ブリーフィングは作戦決行の3時間前に行われた。だがここがジェフティの本社ではない。北アメリカ大陸50州、その何箇所かに社屋はひっそりと点在しているが、いずれも本社ではない。
ジェフティに本社はいらない。むしろ邪魔になる。「おやっさん」がいればそこが本社だ。
依頼主はDEA(麻薬取締部隊)とFBIだ。サンフランシスコの「ホテル・ド・フェルナンデス」でサンフランシスコ市警署長、ウィリアム・マッカーソンとメキシコの麻薬カルテルの幹部、カルロス・イドの会合が行われるということだ。半透明の電子ボードにふくよかなマッカーソン署長の顔と、白髪のオールバックヘアのカルロス幹部の顔が映し出される。
作戦ボードの前で「おやっさん」ことガンニバルが説明する。本名はハンニバル。おやっさんの両親がカルタゴの名将の名から付けた。だが、本人はもっぱら、ロシア女帝の側近だった黒人将軍の名「ガンニバル」(尤も、この名もカルタゴのハンニバルが由来だが)を好んで使う。
「以前に話したように、DEAとFBIは我々にこの二人を重要参考人として確保することを依頼してきた」電子ボードにホテルの図面とハックした監視カメラの映像が映し出される。事前に二人が清掃員に紛れて細工したものだ。屋上のフロア図に赤点が表示される。「君たち二人は屋上のこのポイントにパラシュートレス降下で侵入する」
「つまりなんだ。身内の揉めごとをこっそり始末したくて、俺たちに頭下げに来たってことか」
スティーブがポリ公の恨み節を吐く。数ヶ月前、彼は自慢のZ-MAXターボカスタムで気持ちよく飛ばしていたところを運悪く違反切符を切られたばかりだ。
「違反を無効にしてくれるってなら、やらないこともないぜ」とスティーブは捻くれたが、「汚職を取り締まる側がそんなことしてどうする」とキースにつっこまれた。だいいち、この作戦は2週間前から聞かされてたじゃないか。
しかし実際、スティーブの言うことは端的だが正しい。SWATが直接動けば活動記録が残ってしまう。仮に署長が汚職していたことが流出すれば、市民に不信感を与えかねない。しかし、PMFに依頼すれば会計の数字以外載ることはない。特に、キースたちが所属するこの「ジェフティ商会」はそういった依頼を得意とする企業なのだ。
ジェフティ商会のジェフティはエジプトの神の名から来ているが、深い意味はまったくない。当たり障りなく、デタラメな社名の方が何かと都合が良い。一応、「商会」というからにはコーヒーの卸売をしているということで体裁を保っている。事情を知る一握りの者のみ、ジェフティに裏稼業の依頼をしてくる。
PMFとはいうが、社員はおやっさんとキースとスティーブの3人しかいない。だが、代表取締役のガンニバル以下「従業員」は全員、史上最後の忍、ミスター・ハセガワの忍術を引き継いでいる。ペンタゴンすら恐れおののく腕前の集団だ。その気になれば世界も滅ぼせるかもしれない。
語弊を恐れずに言えば、ジェフティ商会は現代の忍者集団だ。だからこそ、世を忍べる社名でなければならない。
ブリーフィングが終わろうとしていた。
「最後になるが、キース」
「はっ」
「分かっているだろうが、これはあくまで任務だ。くれぐれも私情は持ち込むな」
「御意」キースはガンニバルに古めかしい日本の返事とともにお辞儀をした。
マッカーソン署長――名前を聞くだけでキースの脳裏にあの記憶が鮮烈に甦る。
キースにとって署長は友人の仇である。二年前、彼がサンフランシスコ市警に務めていた時、麻薬取引で署長が一枚噛んでいることを突き止めた。しかし、署長は部下たちが嗅ぎ回っていることに勘付いていた。署長の手によってキースは冤罪で勾留され、同僚のダニエルはギャングに撃たれて死んだ。
勾留されて数日の彼を保釈したのは初老の黒人だった。薄っすら生えた白髪と黒い肌のコントラストが印象的だった。そして次にこう言った。「君のひいお爺さん、ミスター・ハセガワとは古くからの知り合いだった」と。ガンニバルはハセガワとのツーショット写真も見せたが、当初キースはこの言葉に半信半疑だった。やがて、おやっさんの人となりに触れる内に信用するようになり、ジェフティ商会への「入社」を決心した。
ジェフティ商会の「入社試験」は熾烈を極めた。それは幼少時代にハセガワから忍術の手ほどきを受けた彼にも言えた。乾いた冷風が吹くロッキー山脈をTシャツ短パンだけで500キロ行軍し、7日間外骨格を着た状態で、突き刺さるような冷たさのアラスカの海に放り投げられる。アメリカの広大さと日本の険しさの違いを思い知らされた。きっと生粋のアメリカ人でも、街で暮らしていたら母国の大地が持つ真の威厳に気づくことは無いだろう。
一方、剣術などの技能や心理テストは易しかった。父方の曽祖父・ハセガワから教わったこととだいたい一緒だった。先輩社員のスティーブとのスパーリング試験も行われた。ミドル級以上あるスティーブに対し、キースの体重はウェルター級に収まるものだったが、軽い身のこなしでスティーブのスキを的確に突いた。結果はキースの圧勝だ。
こうしてハセガワの血縁者であるキースは、同じくハセガワの教えを受け継ぐジェフティ商会で現代を生きる忍となった。逆に言えば、署長に捕まらなかったらおやっさんとの出会いも無かったかもしれない。運命は皮肉なものだ。
3
黒髪の影とブロンドの影は目標の屋上を目前にしていた。網膜に着地までのカウントダウンが表示される。着地と同時にタッチダウンし、お互い反対方向に受け身を取った。外骨格とHUDのサポートがあるとはいえ、忍の訓練を積まなければ不可能な神業である。
遅れて装備を積んだ耐衝撃性バッグが落下してきた。ジッパーを開け、中からそれぞれの装備を身体に装着した。キースは刀を、スティーブはAA-12とマガジンを装備した。
一見、現代戦ではなんのタクティカル・アドバンテージが無いように見えるこの刀だが、強化外骨格の運動能力が合わさることで屋内など近接戦闘において効果があると言われている。グリップはラバー加工が施されたエルゴノミクス形状となっており、刃渡りは70cmとやや小ぶりで取り回しやすい大きさとなっている。また、刀身はつや消しが施されており、あえて重みのあるスチール合金を用いることで、峰を使った打撲攻撃も可能となっている。
一方AA-12は毎分300連射を誇る悪魔のフルオートショットガンだ。AA-12は正規軍でも採用されている(むしろ危険すぎて民間には絶対卸りない)装備品だ。散弾を連射できるだけで恐ろしいが、アサルトライフル並のサイズと重量、そして反動が少ないという無機質な実用性が何よりこのAA-12を悪魔の武器たらしめていた。
共通の装備としてC4爆弾とフラッシュバン、グロッグ17のマガジンをそれぞれのポーチに収めた。
スティーブはグロックにサプレッサーを取り付けていた。
「奴っこさんも空から降ってくるなんて思っちゃいねえだろ」
「黙って行くぞ」キースは既にプラスチックの銃口にサプレッサーを付けていた。
外骨格の二人は速やかに内部への入り口ドアに向かった。スティーブはキースに冗談を無視されて「ちぇっ」と少しふてくされた。
入口前で二人は立ち止まる。スティーブがゴーグルのこめかみ部分にあるスイッチを押した。内部の音響を視覚化し、敵影を確認するのだ。
「クリア」スティーブはピッキングツールでドアを解錠し、「ゴー」のハンドサインを出す。
キースを先頭に、そっと扉を開いて内部に侵入する。前方の敵を注意しつつ、HUDに表示される敵の情報を入念に確認しながら非常階段を降りる。ハックされた監視カメラの映像から敵の位置が座標に表示される。
キースはHUDの映像を見て事前の偵察任務のことを思い出していた。そうだ。このハッキング作業の時にハリウッド映画でお馴染みの清掃用具で紛れ込むことができたんだよな。今回が初めてではないが、映画の手法がそのまま通用するのは滑稽である。
鉄扉を開けると、レッドカーペットの床と漆喰の壁の廊下が伸びていた。屋上の夜風と打って変わって暖かく、冷たいコンクリートが打ちっぱなしの非常階段とはまるで別次元の世界だった。きっと、あの鉄扉は空間を移動するためのテレポーターなんだと錯覚させてしまう。ゴージャスな廊下に、ヴィヴァルディの『春』が小さく鳴り渡る。
突き当りの曲がり角で見張りが立っていた。Tシャツとジーンズの上に防弾チョッキという素人の出で立ちのメキシコ人だ。武装を抜きにしても、このホテルになんとも場違いでみすぼらしい格好だろうか。
「目標発見」キースが囁く。
「排除するか?」
「俺がナイフで片付ける」
キースは素早く見張りに忍び寄る。スーツの人工筋肉が彼の脚を軽くする。靴底に入っている消音ウレタンがその気配を完全に殺す。
見張りを捕まえ、ナイフで頸動脈を断つ。メキシコ人は白目を向いた。鮮やかなナイフ裁きにスティーブは感心するばかりだ。
ナイフと銃はある意味で対照的な道具だ。主な違いは2つある。第一に音を立てずに黙らせることができること。隠密性が命の忍にはお誂え向きということだ。そして第二にして最大の違いは、自らの手で命を奪う道具だということ。銃は引き金を引けば弾丸が勝手に殺してくれる分、気が楽だと言われている。
だがキースは己の掌の中で息絶える敵に一切のセンチメンタルを覚えなかった。ヤクザ者に与える情けなど無い。仮にこいつに家族がいたところで同情などするものか。むしろ悪銭で養われている彼らが不憫に思えるくらいだ。
もしその遺族が親父の遺影を持ってきて涙に訴え出てきても、こう返してやる。「お前の親父は始めから殺される覚悟で仕事をしていた」と。
見張りの死体を掃除用具入れに片付ける。垂れた血が赤いカーペットに紛れて目立たなくなっているのが幸いだった。
この角を左に曲がればターゲットたちの隣部屋に着く。二人は誰にも気配を悟られることなく、隣部屋に侵入することができた。無闇に戦闘をしなくていいのは理想的だ。
キースたちが侵入した部屋もまたスイートルームと思しき一室だった。チェス盤を想起させる白黒の大理石の床。エッジに金メッキが施された白いソファやテーブルなどの調度品。シャンデリアの明かりが漆喰の壁に反射する。右手奥のバルコニーにはサンフランシスコの夜景を一望できるジャグジープールがあった。正面奥の壁がターゲットたちのいる部屋と面している壁だ。
スティーブはこの部屋の宿泊費を憶測した。この部屋はざっと一泊5000ドルといったところか。野郎には荒野のフリーウェイに佇むモーテルの方がお似合いだ。俺たちにこの部屋はちと眩すぎる。
ところで、チェス盤というのはなにもこの白黒タイルの床だけを指しているのではない。今日はホテルの構造そのものがチェス盤のようなものだ。建物内部への突入作戦という「対局」は、ブリーフィングのときから始まっているチェス・プロブレム(詰めチェス)だ。
壁越しに、ターゲットたちがいる部屋の音響を監視カメラのデータと入念に照らし合わせるスティーブ。内装はこちらの部屋と違って黒を基調としていた。薄暗い部屋に熱帯魚の水槽がイルミネーションでぼんやり浮かんでいた。
左に3人、右に4人、計7人の「ポーン」(歩兵)。そして中央テーブルのソファにマッカーソン署長とカルロス幹部という二人の「キング」が鎮座していた。カルロス幹部はすらっとスーツを着こなしており、いかにもギャングの幹部らしい風貌だった。一方、マッカーソン署長も同じく黒スーツを着ていたが、ベルトから白シャツの贅肉がだらしなくはみ出ていた。
警察署の青シャツの方がまだ肥満体を誤魔化せたろうに。キースは頭の中で、署での憎き上司の風貌を思い出していた。
そしてこちらの二人は盤上をかき回す二体のルークといったところか。いや、クイーンよりも縦横無尽でナイトよりも跳ね回る、掟破りの駒だ。
7体のポーンだけいたところで何の役に立とう。まして「キング」は一歩も動けない木偶の坊と来た。こんなチェス・プロブレム、あなたが駒の動かし方を知らなくても答えられるはずだ。
スティーブのスピーカーから音響センサーが拾った下品な話し声が聞こえてくる。キースのHUDにも敵の位置情報を共有する。ついでに話し声も小型インカムに流してやった。
悪党二人の会話はおおよそこうだ。
「警察のお偉いさんが賄賂を貰うとはこれまた感心しませんなぁ」
「いやいや。トップの者が頭に栄養を蓄えてこそ部下が効率よく働いてくれるのですよ」
「それにしてもアメリカは実によいお隣さんだ。なぜならアメリカは『コカ』・コーラ帝国ですからな」
そして悪代官二人は特有の汚い高笑いをした。
「まぁなんと古典的なやり取りですこと」スティーブが肩をすくめる。「栄養が全部お腹に行っちゃあ意味が無いけどな」
「さっさと捕まえるぞ」と、キースは減らず口を無視する素振りを見せたが、内心焦りが見えていた。宿敵の笑い話を聞かされたら、むかっ腹が立たないわけがない。
「焦るな。一度深呼吸しろ」、とスティーブに促され、キースはいやいや3回深呼吸をした。頭の血が下がってきた気がした。人間、怒っている時ほど深呼吸をしたくないものだ。
「俺が右の4人をやる」スティーブがAA-12を抱え、壁の右側にC4を取り付けた。
「なら俺は左の3人だ」キースは左側にC4を取り付け、刀のグリップに手を掛けた。
「3カウントだ」とスティーブ。「3……2……1……」
同時にC4のスイッチを押した。爆音とともに薄暗い部屋の殻に穴が開けられた。盛大に空いた壁の穴から隣部屋の光が差し込む。チェス・プロブレムの答え合わせが始まった。
キースは脚のアシストをフルに使ってボディガードへ駆ける。その速度は100mを4秒で走り抜けられる速さだ。敵にはおそらくキースが黒い疾風に見えたことだろう。刹那のスキを見切り、腸に剣先を突き刺す。刀は斬るよりも突く方が向いている。続いて2人めは腕を切り落としてから脇腹を切り裂く。3人めはキースの隙を見てMP5の弾を散らしたが、キースは左手の壁を使って三角飛びをしてこれを避けた。頭上から高速で迫る黒い影に敵はたじろいだ。キースは落下運動を味方に付けて、奴の心臓を胸骨ごと貫いた。
一方のスティーブも迅雷の如く敵に肉迫し、人間の致命点となる部分に的確に12ケージの嵐を数発ずつ叩きつけた。ケースを突き破って飛び出るパチンコ玉の雨を浴びた者は皆赤い花を咲かせた。最小限の弾薬消費で済ませられたので、4人始末するのにドラムマガジンは一つで事足りた。
皆さんはお分かりいただけただろうか。これが今回のチェス・プロブレムの答えだ。「掟破りの駒」で相手のポーンを全部弾いてやればいい。それだけだ。
もしあなたが実際の対局でこんな「掟破りの駒」をでっち上げたら、間違いなく白い目で見られるだろう。子供同士だったら喧嘩になるかもしれない。本当に、大人げない戦いだ。
そしてこれこそ、ミスター・ハセガワとペンタゴンが共同で編み出した格闘技術「ニンジャCQC」の一端である。来たるべき身体能力拡張の時代を見越して誕生した、新時代のCQC。もし強化外骨格やサイボーグ手術による身体拡張が普及すれば、歩兵の機動力が上がる。その分、銃の命中が難しくなり、近接戦闘が見直されることは必至だ。その未来を先取りした「掟破りの駒」こそ彼ら二人である。
だが、ニンジャCQCの奥義に到達するには心技体すべての鍛錬を怠ってはならない。そのいずれかが欠けていれば、たとえ外骨格を着ていても己の手にすることは永遠に不可能である。そして、ハセガワ亡き今、奥義に達したことを見極められる者はいない。
10秒と経たない内に丸腰の「キング」のみが残った。チェックメイトだ。どんな対局でも必ず最後に一方のキングだけが残る。窓から望む眩いネオンの光も、この対局には気付いてなかったようだ。ましてその光に照らされる下界の市民たちは、チェスよりもビデオゲームの方に夢中だったらしい。
「は……はは……誰かと思ったらいつぞやのイエローモンキーか……。今度はニンジャごっこか……?」マッカーソン署長は非現実的な光景を目にして今にも失禁しそうだったが、そんな己をレイシズムな罵倒で奮い立たせていた。その声は震えていた。
「俺の髪もイエローなんだがな」スティーブが自分のブロンド髪をさする。
「DEAとFBIの代理だ。お縄についてもらおう」キースが告げた。
カルロス幹部はおとなしく両手の拘束を受け入れた。ギャングの幹部だけあって引き際を弁えているのだろう。だがマッカーソン署長は抵抗を続けた。泣きわめくように罵る口も止まらなかった。
「ははは……そうか……復讐に来たかと思ったら金で雇われてたのか!金のために人を殺してたのか!お前もそこのギャングと一緒だ!所詮は同じ穴の狢だ!このクズ猿め!」署長は唾を飛ばしながら思いつく限りキースの呪いを叫ぶ。
キースは顔に出していなかったが、明らかに激昂していた。旧友の仇を、せめて一発ぶん殴ってやりたかった。壊れたレコードのようにはしゃぐ署長の首筋を手刀で打って黙らせた。スティーブはキースの行動に、ゴーグル越しに目を丸めた。
「ブリーフィングで言われただろ?そうカッカするなって」
「うるさいから黙らせた」
「ったく、気絶させてどうすんだ。そのデブはお前が運んでいけよ」
カルロス幹部はスティーブに従って自分の足で歩いた。だが、キースは署長のでっぷりした巨体は動かなかった。気を失って膀胱が緩んだのか、排泄物でズボンを濡らしていた。
こいつを背負わなくてはいけないのか。てめえでやったんだ、てめえが責任を取れ、とスティーブは署長のお守りを断った。パワードスーツのアシストがあるので署長の巨体を背負うのこと自体は造作もない。しかし、背中にのしかかる署長の汗臭さとじっとりした尿の湿っぽさは消えなかった。
「ファック」誰に向けて放たれたのか、キースの口から普段なかなか出てこない最大級の侮蔑が出てきた。前方のスティーブと背中の署長の間くらいの方向を目掛けて。
キースは穴ぼこになったスイートルームの壁を見やる。警察かどこかが遺体の後始末をするだろうが、弁償は誰がしてくれることやら。スティーブ曰く、「悪者をとっちめるための必要な犠牲さ」とのことだ。次回から周囲の物品に損害を出さないようにお達しがくるかもしれない。
隣部屋のチェス盤状のフロアは、盤外で暴れまわった駒たちが去る様子を壁穴から見つめるほか無かった。
ホテルの屋上には回収用のヘリが待機していた。ローターの風圧で非常扉から出てきた二人の髪が暴れる。
両手を拘束されたカルロスは両脚だけで器用に座れたが、マッカーソンの伸びた身体はしっかりシートに固定する必要があった。
それにしてもこの署長、二度手間、三度手間を掛けさせやがる。だが、その必要ない手間は誰でもない、キース自身が作ってしまった。
「ファック」もう一度、小声で呪った。今度は自分自身に。
ヘリが屋上を離れる。マットブラックの機体は月夜の空に向かって羽ばたく。
「なあ」スティーブは相棒の方を向く。「少しは腹ん中スッキリしたか?」
キースは何も答えなかった。ただ小さくなってゆくネオン街を眺めていた。室内はローターの音だけ鳴り響いていた。
「きっと明日の一面記事にはこう載るだろうな。『マッカーソン、メタボ症候群で署長を辞任』ってな」沈黙に耐えられなかったスティーブは、いつもどおりを装っておちゃらけてみたが、キースの表情は変わらなかった。皮肉にも、翌日の新聞では実際に、マッカーソン署長が「体調不良で辞任」したと報じられた。
電光掲示板の芸者は今日も変わらずジャパニーズ・スマイルで「強力わかもと」を頬張っていた。
4
サンフランシスコ署長辞任のニュースが報じられてから3日が経った。世の人々は、そんな自分の仕事と関係ないニュースのことなどとっくに忘れていた。人の身体に縫い合わされたネットの糸は、どんどん新たな情報を送りこんでくる。タンパク質で出来た脳みそがその膨大なデジタル信号を全て記憶できるわけがない。
その日の昼下がりのサンフランシスコ郊外。海岸沿いのハイウェイに、ハヤブサの咆哮が轟いていた。キースが世界最速のハヤブサに乗って向かう先は、警察時代に凶弾に撃たれて亡くなった同僚・ダニエルの墓だった。潮風と金色の陽光に晒されながら、時速300キロの風は弔いの地へ向かう。幸い、スティーブのように切符は切られなかった。
そこは海の香りが漂う、丘の上の閑静な霊園だった。ダニエルが安らかに眠れるようにと彼の両親がこの霊園を選んだ。
革ツナギを着たキースは脱いだヘルメットを手元に置き、ダニエルの墓の前で跪く。手を合わせず、ただそっと頭を垂れ、目を閉じる。
キースは育ての親、長谷川辰之助を、高校卒業を控えた冬に亡くした。112歳だった。練気の忍術と健康な食生活が実を結んだ大往生だった。キースは遺書通り、森の中で辰之助の遺体をただ独り火葬した。
もっと教わるべきことがあった。自分を真の忍に鍛え上げてほしかった。火葬場の焚き木に火を付ける間際、辰之助の寝顔から「お前に教えることはない」とも「まだまだ精進が足らぬ」とも聞こえてくるようだった。今にもカッと見開きそうな、威厳に溢れた、最後の忍の死に顔。
おそらく、残された者の勝手な想像だろう。辰之助が実際に、死に際に思ったことは、永遠に分からない。
卒業後、肉親のルーツを探るようにアメリカの大学に入学した。大学で勉強する傍ら、キースは人生の露頭に迷っていた。ハセガワに教わった忍の教えがこの社会でどう役に立つのか。キャンパス近くのカラテジムに通う子どもたちを見て常々感じていた。爺さんから教わった忍術は所詮、レクリエーションでしかなかったのか――。
ハセガワから受け継いだ正義感を持て余していたキースが選んだ道は警察だった。両親が住んでいたというサンフランシスコ警察に入隊することとなった。
配属早々、キースに話しかけてくれたのがダニエルだった。ダニエルとはウマが合った。近所のダイナーでドーナツやサンドイッチを食べ、家でフットボールの中継を見ながらビールを飲む仲だった。
二人には若さを持て余す故の無鉄砲さがあった。犯人を捕まえて、この街を平和にしてやる。その無鉄砲さに任せて捜査していたのが、例の麻薬取引だった。チンピラ共を何回も検挙した。だけど、いつかきっと黒幕を捕まえてやる。
捜査の線をつないでいくと、署長が関わっていることに辿り着いた。深夜、署長がギャングと面会するという現場の廃ビルに二人で向かった。しかしそれは二人を捕えるための罠だった。
下手くそなギャングたちが撃った45口径はキースの脇腹をかすめたが、ダニエルには運悪く胸にめり込んだ。彼の心臓はほぼ破裂していた。
「キース……俺の代わりに奴を……捕まえてくれ……そして……」
ダニエルが死の間際に放った眼光はキースの網膜に深く突き刺さった。直後、ダニエルの目は一瞬で虚空に映り変わった。
そして今、最期に交わした約束をようやく果たすことが出来たことを伝えた。だが、約束を果たしたところで彼は戻ってこない。あの時、大人しく引き下がっていれば、彼を亡くさなかったのか――。
後悔と虚しさだけがキースの心を覆った。どれだけ時間が経っただろうか。空が赤く染まり始めた。
黒装束を纏った初老の牧師がやってきた。牧師の丸眼鏡に、墓前で跪く、奇妙な祈り方をするアジア人の姿が留まった。
「彼のご友人ですかな?」
キースは顔を上げる。
「そんなところだ」
「彼は勇敢な警官でした。ご両親も涙ながらにそう仰っておりました。非常に残念です」
キースは彼の埋葬に出向いていなかった。その時、署長に擦り付けられた無実の罪によって勾留されていた。
「ブディストの方でしょうか?」先程のキースの奇妙な祈り方を見てそう訊いた。
「悪いが、俺はブッダも神も信じていない」
「左様ですか」牧師は特に怪訝な顔をしなかった。
「ただ――」キースが口を開く。「今もあいつの魂がどこかにいる気がするんだ」
キースは無神論者というより、神や仏といった大いなる存在の「救い」というものを信じていないのだ。むしろ、幼少期にハセガワの元で森に囲まれた暮らしをしていたのか、どこかアニミズム的な側面を持っていた。人々が社会の中で暮らすように、多くの生命が自然の中で共生する。その姿を幼い頃から無意識に感じ取っていた。それでも、その生命の循環を擬人化することはしなかった。
墓の下で眠るダニエルの身体は、微生物に分解されて新たな生物の糧となる。現実はそれだけだ。しかし、人情なのだろう。無神論者を自称するキースだが、ダニエルの面影を偲ばずにはいられなかった。
「なるほど」牧師はうなずく。「私もサンフランシスコの街でボンズの方とお話したことがあります。ブディズムとキリスト教は、目に見えないものを信じるという点で非常によく似ております。彼を想う心があれば、神はきっと貴方様にも微笑まれるでしょう」
「そうか」キースはヘルメットを抱えて立ち上がる。「色々とありがとう、牧師さん」
「神の御加護があらんことを」牧師は去りゆくキースの背中に十字架を切った。
キースはハヤブサを唸らせ、霊園を後にする。太陽は朱色に燃えていた。もし神とやらがいたとして、人になり損ねた俺を救うのだろうか。
とっくに全治したはずの脇腹のかすり傷が、今になってうずき出す。キリストの傷は、キースの痛みを癒やさなかった。俺は忍、人を堕落させた蛇の子孫――。
300キロの風が夕日に吠える。夕日はただ、孤独な背中を焦がすだけだった。
いかがでしたでしょうか。時代劇の悪代官征伐スタイルのお話を目指してみました。
良かったところ、悪かったところの感想をいただけたら幸いです。