8
洞窟の中は暗く、だが泉が星空のように輝いていたので、うっすらと明るかった。
ひとしきり泣き、咲耶は泣き疲れたように大人しくなっていた。けれど、稚武の衣を離さなかったので、稚武も彼女を抱き寄せたままだった。
稚武は穏やかに語りはじめた。
「……風羽矢はめったに泣く奴じゃないけど、泣いたら手がつけられないんだ。嵐みたいに泣くんだ」
思い出して、ふっと笑みをこぼす。
「ガキのころさ、二人して崖から落っこちたんだ。風羽矢は川岸に落ちて、腕を折った。俺の方は川の中に落ちて、おぼれて流された。真冬にだ。すぐに大人たちに助けられたけど、すごい熱を出して寝込んだんだ。それで、俺自身はよく覚えていないんだけど、どうも死にかけたらしい。気がついたとき、隣で風羽矢が泣いてたよ。わんわん、うるさいくらいに」
咲耶は、語る稚武の優しい瞳をじっと見つめていた。
「『死んじゃやだ、死んじゃやだー』って、ずうっと泣いてたらしい。俺が大丈夫だよって言ったら、今度は嬉しくて泣くんだ。……大人しそうに見えて、本当は俺より感情の激しい奴だよ」
稚武は目を細めた。
「あいつは、自分自身の痛みや辛さには耐えられる。けれど……そうだな。おいて行かれること、孤独になることにかけては人一倍敏感なのかもしれない。もともと捨て子みたいなもんだったからな……また捨てられるのが怖いんだよ。――だから俺たちは離れられなかったんだ、お互いに」
稚武と風羽矢は似たもの同士だった。宮古という母親は、逝ってしまうことで稚武を捨てたも同然だった。稚武は、自分が生まれたことで母からおいて行かれたのだ。
二人は、お互いの存在だけを頼りに、必死に寂しさから逃れていた。たとえ泊瀬の家の父や母、兄である桐生がいても、彼らと自分とは血がつながっていないということは、物心つく前からわかりきっていた。いくら本心から家族と思っていても、その事実は二人の心に砂利のように敷かれていた。
お互い以外に、誰かに一番に想ってもらえることなどありえなかった。
「だけど、俺には大王がいてくださった。それから、たくさんの倭の民が。……今ならわかるよ、俺は無神経だった。近くにいすぎて、あいつを思いやるってことをずっと忘れていた気がする。一番大切なことだったのに」
稚武は一呼吸おいて、心を決めたように言った。
「あいつは、もうみんな失くしてしまったんだ。父親、母親……俺のことも。俺も色々なものを失った。だからこそ、今度は俺のほうからあいつのところへ行ってやろうと思う。もう怨みはないよ。俺は、あいつを許せる」
その夜、稚武は咲耶を離さなかった。咲耶も稚武から離れなかった。二人は寄り添うようにして、ともに優しいまどろみに落ちた。
稚武は咲耶の手を引いて洞窟から出てきた。その先には、木杖をついたナム爺とカムジカが待ちわびたように立っていた。
ナム爺は重たいまぶたの下から、確かに稚武の腰の剣を見た。
「……やはりあなたはタケルじゃ。傷つきながら、それでも戦いへとおもむく」
「違うって言っているだろう」
寄って来たカムジカを撫で、稚武は苦い顔で答えた。
「そうそう、一つ聞きたかったんだ。ヤマトタケルは、なぜ剣を封印しようだなんて考えたんだ? それまでさんざん世話になったっていうのに」
森には濃く霧がかかっていた。空は薄曇がかかったようで、朝なのか昼なのか、それとも夕暮れなのかはわからない。もしくは、この森には最初から時の流れなど存在しないのかもしれなかった。
ナム爺はたたずんだまま動かず、重苦しい声音で言った。
「戦いはあのかた自身が望んだことではなかったのですじゃ。ミコトは何より平和を愛し、それでも戦う己を嘆いておられた」
咲耶が眉をひそめて首を傾げた。
「どうしてそんなに戦わなくてはいけなかったの、ヤマトタケルは」
「すべては、大王――お父上様の命令じゃったのです」
そうだろうな、と稚武が言った。
「俺にもヤマトタケルの気持ちがわかるよ。父のために何かして差し上げたいっていうのがさ。お父君の期待に応えたかったんだろう」
しかしナム爺は息を呑んだ。まぶたを持ち上げて稚武を見つめ、かすれたような声で言う。
「あなたは……ご存じないのですか。ヤマトタケルノミコトの悲話を」
「悲話?」
石上で一流の教育を受けてきた稚武であったが、まったく思い当たる節はなかった。
ヤマトタケルは屈強な少年で、大王家に屈服しないクマソタケルとイヅモタケルを次々に討ち取り、さらに東の方まで出向いていって、最後の一人になっても勇敢に戦い抜いたのだ。都の人々にとっては誇りである、華々しい英雄だった。
ナム爺は歯噛みするように語った。
「ミコトは神器の剣を手に、はるか西の倶馬曾国、そしてこの出雲へもいらっしゃいました。そして長い旅を終えてようやく都へ凱旋すると、休む暇もなく、大した数の兵もつけられずに次は東国へ……そのまま、かの地で亡くなってしまわれた。――なにゆえに父なる大王が、そのようにミコトを西へ東へ向かわせたとお思いですか」
にわかに声に怒りがにじむ。
「日嗣であるミコトを都において、自分が討たれることを危ぶんだからです。そして、あわよくばミコトが遠い地で果ててしまえばよいと考えていたのですぞ」
「まさか」
稚武は鋭く叫んだが、ナム爺は噛み締めるようにさらに続けた。
「そのことは、ミコトご自身も承知しておられました。だからこそあのかたは、あえて父王に逆らわずに戦い続けましたのじゃ。ミコトは父君を心から慕っておられた。いつかわかって下さるかも知れないと、この老いぼれの前で哀しげに微笑んで……。――今のあなたは、よく似ておられる」
「……どういう意味だ」
稚武は自分の肩が震えていることに気づいていた。
ナム爺は同情するように言った。
「お気づきなされ、若きタケルノミコト。ご自分の立たされている場が、いかに狙われ、恐れられているか。何が敵で、誰をどこまで信じるか……その決断一つであなたの生命は決まる。すべてはあなたしだいですじゃ、器量が足りなければ潰される。玉座とはそういうものです」
稚武は何か言い返そうとしたが、喉が震えて声にならなかった。知らぬ間に胸の御祝玉を握り締めていた。
「あなたにとって、敵は地方のまつらわぬ者たちだけではない。禍なる大蛇だけでもないでしょう。……日嗣皇子にその座を取って代わられることを最も恐れているのは、どなたですかな」
「やめてくれ!」
やっとのことで稚武は怒鳴った。
「大王は俺の父だ。誰より俺に優しかった。愛してくれている」
しかしナム爺は哀しげに言った。
「ご存じないわけではありませんでしょう。なにゆえ、あなたと大王の他に皇がおらなんだか。今上の大王がことごとく討殺なさったからではありませんでしたか」
稚武は弾かれたように息を止めた。
「あなたは、宮ではなく隠り処という里でひっそりとお生まれになった。母君がそれを選んだのではないですか。それが何のためなのか、よく考えてごらんなされ。あなたのためを思ってのことではなかったのですか。あなたを、大王から逃すために」
「……そんなはずない」
稚武は息苦しさを覚えながら、それでも言った。
「宮古と大王は愛し合っていた。それなのに……大王が、俺を殺そうとなさるはずがない」
「……あなたの母君は、あなたを生んで亡くなった。それは父王にとって、子なるあなたが、愛する妻を殺したということではないのですか。――かつて、森羅万象の母神なるイザナミノミコトから生まれ、そのときに母の女陰を焼いて殺してしまった火神も、怒った父神イザナキに首をはねられました。どうして、大王があなたを怨んでいないと言い切れますか」
「でも、大王は……っ」
なおも言い募ろうとした稚武であったが、そのとき突然、剣が震えだした。まぶしい白き光。
「稚武―」
咲耶も声を上げた。右手に鏡があらわれ、濡れたように輝いていた。不思議なことに痛みはない。
「……大蛇が来やる」
ナム爺が感じ入ったよう呟き、空を仰いだ。
「剣の復活に導かれ、玉の主がやってくる――」
「カムジカ」
稚武は鋭く呼び、すぐにその背に飛び乗った。そして咲耶に手を差し伸べる。
「しっかりつかまれ」
「うん」
咲耶が答えて稚武にしがみついたと同時に、カムジカの足がふわりと浮かび上がる。
呼び止めるようにナム爺が大きく言った。
「これだけは覚えておきなされ、ワカタケルノミコト。人は誰でも、少なからず滅びを願っております。生きるということは、生への望みがそれをわずかに上回っているだけのこと。生きる者は誰しも、胸の奥深くに禍となりうる闇を秘めているということを、どうかお忘れなさるな」
「ナム爺、あんたは一体……」
空に浮かんだカムジカから老爺を見下ろし、稚武は尋ねた。
ナム爺は杖をついたまま、にこやかに答えた。
「わしは、古にこの倭を統べていた者。そして高天原より降りし天つ神々にこの国を託し、この出雲へ身を引いた、忘れ去られし古き神ですじゃ」
霞となって消えていくその神の姿を、稚武は目を丸くして見つめた。
「あんた、ナム爺……オオナムジノミコト――大国主神か」
かつて、国つ神々の頂点に立った神。
ホッホッホ、とナム爺は最後に声を残して消えた。
『さぁ、選択の時です。若き天つ神の末子よ』
カムジカは空を駆け上って、白雲の上へ躍り出た。見る間に鳥上山が遠ざかる。
そして、稚武と咲耶は見たのだった。かなた南西から空を泳いでくる、歪んだ大蛇の姿を。
二つ頭の大蛇は、荒れ狂って身もだえするようにうねっていた。火花を散らし、しわがれた烏のような不気味な声を上げながら。
「頼む、カムジカ。行ってくれ」
稚武が剣を構えると、カムジカは大蛇に向かって真正面から駆け出した。
巨大な大蛇は大きく鳴き、無心に火を吐く。それをかいくぐりながら、稚武は叫んで剣を振るった。
切っ先が風を裂き、矢のように飛んで大蛇を切りつける。確かな手ごたえがあった。そこからどろついた血が噴き出し、大蛇は衝くような悲鳴を上げた。
そしてそのまま、雲を砕き、崩れるように落ちていく。
カムジカもすかさずその後を追った。雲から下に出ると、そこには海が広がっていた。狭戸の海だ。
津波のようなしぶきを上げ、大蛇は海原へと身を沈めた。しかし、すぐに黒い影が青き波の下をすべり、また浮かび上がってくる。
ところが、再び空に帰ってきた大蛇は、稚武や咲耶を乗せるカムジカに背を向けた。泣くように大声を上げながら、ものすごい速さで青空と白雲の間を泳いでいく。傷口からは、溶岩のような血が滴り落ちていた。
(どこへ行くつもりだ)
カムジカも遅れをとらずに空を翔け抜けた。
やがて海の向こうに大地が見え、緑と茶のだんだらが近づいてくる。
燃える太陽は背中に沈もうとしていた。
(東……)
大蛇は、出雲から東へと真っすぐ空を泳いでいた。
遥か下できらめく大海原、春の緑に覆われた優しき大地。風を切り、流星のように青空を翔け抜けて、稚武は知った。
(風羽矢、お前……帰りたいのか)
倶馬曾よりも、熟田津よりも、出雲よりも東。
泊瀬。
傷を負って力なく啼く大蛇は、生まれ育ったふるさとを目指していた。
次回から最終章です。




