表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
60/85


 二人きりになった部屋で、桐生は静かに言った。


「……稚武、風羽矢を許せるか」

「許せない」


 叫ぶように稚武は答えた。


「許せるわけがない。あいつは桐生兄を殺そうとした」

「でも俺は、こうして生きてる」

「殺そうとした!」


 怒鳴ると、稚武は壁にもたれかかって息を荒げた。全身を震わせ、両手で顔を覆って声をくぐもらせる。


「……風羽矢はもう、俺の知ってるあいつじゃない。あれは禍だ。風羽矢じゃない。風羽矢は死んだんだ。……あいつはもう、どこにもいない……っ」


 稚武はずるずると崩れ落ちた。


(あいつは、俺をおいて行った)


 行ってしまった。風羽矢はもう行ってしまったのだ、手の届かないところへ。


 やはり、あの時。あの嵐の夜に、熟田津にきたつの崖から海に飛び降りて、風羽矢は死んでしまったのだ。禍だけを遺して。


「風羽矢……ッ」


(俺はあいつをおいて行かないと約束したのに、あいつは俺をおいて行った。こんな裏切りがあるか――風羽矢!)


 自分を見つめた風羽矢の、氷のように冷え切った瞳を思い出す。彼の胸元で燃えていた勾玉の、禍々しさを。


(いない……どこにもいない、風羽矢。もういない、会えない、風羽矢……ッ)


 涙はなかったが、稚武は奥歯を噛んで泣いていた。哀しみが行き場を失い、怒りと憎しみに変わったのは一瞬だった。


 手を下げた稚武の目は、憎悪に燃えていた。


「だから俺が、あいつを殺してやるんだよ。あいつじゃなくなったあいつが生きてるなんて、許せない。風羽矢が禍なんて許せない。俺が終わらせてやるんだ。あいつが禍なら、殺せるのは俺だけだ」


 桐生は黙って聞いていた。


「禍を殺して、風羽矢を取り戻す。死ぬことで、あいつはきっと解放される。そうして俺はあいつを許せる。……風羽矢だってそれを望んでるんだ、きっとそうだ」


 桐生は目を伏せ、静かに言った。


「俺がいくら頼んでも、お前は連れて行ってくれないんだろうな」


 稚武は強い眼差しで頷いた。とうに決心していたことだった。


「わかっていたはずだったんだ、神器のことに誰かを巻き込んではいけないことは。狭戸で船が沈んだときにもそう思った。なのに、俺は桐生兄に甘えて……。咲耶の鏡がなかったらと思うと、……だめだ。もう俺は、誰も巻き込めない」

「巻き込まれたとは思っていないさ。俺が勝手に首を突っ込んだんだから。自分を責めるな、稚武。そして、できれば……風羽矢も責めないでやってくれ」


 稚武は驚いて桐生を見た。


「できない! 馬鹿だよ、桐生兄は。あんなに目に遭っても、まだ風羽矢をかばうのか」

「お前の言ったとおりだよ。あれはたぶん、風羽矢であって風羽矢じゃなかった。でも俺には、どこかで風羽矢が泣いているように思えたんだ」

「だったら……! ――だから、俺が助けてやるんだ」


 感情をほとばしらせて稚武は言った。


「俺があいつを解放してやる。そしたらきっと、俺も……皇も解放される。俺たちは元に戻れるんだ。禍を殺せば、たとえそれが死であっても、風羽矢の救いになるに違いないんだ」


 桐生は静かに稚武を見つめた。力になれると思ってのこのこついて来て、結果として二人の決別を招いてしまったことを、深く悔み憂えていた。


「……止めはしない。もし風羽矢を救えるやつがいるなら、それはきっと、お前以外にいないだろう。俺はお前を信じているし、風羽矢のことも信じている」


 稚武は立ち上がり、背筋を伸ばして頷いた。


「俺は行くよ。あいつが俺を殺すのだとしても、それでも立ち向かう」


 そして、かすかに微笑んだ。


「俺の手によって風羽矢が死ねば、大王もきっとあいつを許してくださる……」




 日暮れごろ、近くの里に下りて情報を聞きまわってきた三つ子たちが帰ってきた。彼らの話によれば、なんと倶馬曾の「王」は阿依良を発ったということだった。


「それで、どこに向かったんだ、禍は」


 稚武が訊ねると、三つ子のうちの一人が答えた。


「なんでも、天孫降臨の頂に上り、そこで倭の王を名乗るとか……」

「高千穂の峰だわ!」


 思わず咲耶が叫んだ。みんなの丸くなった目が一気に集まる。


「高千穂の峰って……咲耶が生まれたところ?」


 咲耶は頷いた。


「高千穂の峰は、天孫……瓊瓊杵尊ニニギノミコトが高天原から倭の地に降臨なさったときに降り立った御山なの。その頂の神域には誰も足を踏み入れられない。――唯一、陽巫女だけが正月に参じることが許されているわ。国見ヶ岳とも呼ばれている」


 瓊瓊杵尊は天照大御神の孫であり、皇の始祖にあたる。


 なるほど、と稚武は低く言った。


「そこで正統な皇を名乗って、この国を支配しようっていうのか……。――そんなことはさせない。俺が止めてやる」


 稚武は心を決めた瞳で剣に手をかける。


 ユキニが眉を下げた。


「稚武、すまん……。わしらはついて行けない。次に阿依良のやつらに見つかって、わしが捕まりでもしたら、問題はペクチェにまで及ぶ。……薄情かもしれんが、それだけは避けなければならない」

「まさか、薄情なんて思わないよ」


 もともと一人で旅立つ決心をしていた稚武は、笑ってユキニの頭を撫でた。


「ユキニたちには世話になった。本当に助かったよ。でも、神器のことにこれ以上他人を巻き込むわけにはいかないんだ。これから倭はどうなるかわからない。……ひどいことになる前に、ユキニたちは大陸に帰ったほうがいい」


 ユキニは寂しげに稚武の衣を握り締め、頷いた。


「しかし、しかし……せめて何か力になれることはないか。あんなやつを相手に、稚武を一人で行かせるなんて。わしにできることがあれば、何でもいい、言ってくれ」

「ありがとう、ユキニ。……それなら一つ、頼みたいことがある」


 はにかむように言った稚武に、ユキニが顔を輝かせる。


「なんだ?」

「桐生兄を、伊予の熟田津というところまで送り届けてほしいんだ」


 ユキニは瞬いたが、しばらくもしないうちに頷いた。


「そこに送るだけでいいのか」

「熟田津には秋津の軍が逗留している。そこで事情を話して……」


 稚武は桐生を見た。


「桐生兄はすぐにでも泊瀬に帰ってくれ」


 いまだ寝台から下りられない桐生は顔をしかめた。


「稚武、それは……」

「反論は許さない。秋津の皇子として、将として命令する。里に帰ってよく養生してくれ、桐生兄」


 桐生は悔しそうに眉根を寄せたが、押し黙った。ここで我を張っても、足手まといにしかならないことはわかっていた。


 納得したらしい桐生に、ユキニが得意そうに胸を叩いて見せた。


「わしらに任せておけ、桐生。おぬしを無事、熟田津とやらまで送り届けて見せよう。――それを終えたら、わしらも大陸に帰る。そろそろ兄上に復命せねばならん」


 ユキニは大人びた顔で稚武を見た。


「この倭の行く末を、ペクチェにて見守っているぞ、稚武」


 稚武は頷いた。


「なんとかおさまって落ち着いたときには、そっちに使者を出すよ。遊びに来るといい」

「うむ、約束だぞ」


 ユキニは愛らしく笑って稚武に抱きついた。そして甘えながら、笑顔のまま咲耶を振り返った。


「咲耶はどうするのだ。行きたいところがあるのなら、一緒に送り届けるが」


 咲耶は首を横にふった。


「わたしに行く場所なんてないわ、あるとすれば、禍の王のもとだけよ」


 言い切り、揺るぎない眼差しで稚武を見る。


「わたしはあなたと一緒に行く。嫌とは言わせない。わたしだって神器を持っているんだから。禍の王を討つのはわたしよ、あなた一人にはさせないわ」


 咲耶はさらに詰め寄るように声音を強くした。


「それに、本当に禍の王を討ちたいなら、神器は二つそろっていなくてはいけないのよ。わたしは相討ちになって終わってもかまわないと思っているけれど、あなたには帰るところがあるんでしょう。なら、『鏡』が必要なはずよ」

「わかったよ」


 稚武はため息混じりで言った。


「いくら俺がだめだと言っても、お前はついて来るに決まっているんだ。もう懲りた。ついて来たいなら、そうしろよ」

「そうするわ」


 にんまりと咲耶は笑った。けれど稚武はぶっきらぼうに言う。


「だけどな、お前も神器の主だというのなら、早く自分の意思でその『鏡』を扱えるようになれよ。いざというときに使えなかったら、ただの足手まといだからな」

「なってみせるわよ」


 がなるように咲耶は返した。


 しかし後になって、彼女はじっと右手を見つめた。どんなに念じても痣は痣のまま、輝く鏡はあらわれなかった。これをどのように扱い、禍の王と戦うのか、想像もつかないのが現実だった。


 湧き上がる不安を必死で振り払いながら、ぎゅっと手を握り締める。


(高千穂へ行こう。前代の陽巫女さまが、わたしに「鏡」を託したという峰へ)


 そこに行けば、何かわかるかもしれない。なぜ過去の女王は赤ん坊の咲耶に神器を託したのか、なぜそれを誰にも明かさなかったのか……次代の陽巫女や、本人にさえも。


(わたしはもうずっと昔から、さだめを手にしていたのだわ。この手で禍の王を討つというさだめを。――きっと果たしてみせる)


 そのさだめを終え、居場所がなくなったときには、どこかひっそりとしたところへ消えよう、と咲耶は考えていた。


 女王も王もいなくなった倶馬曾は、きっと秋津の手に渡るのだろう。けれども、その手が稚武のものだというなら、それはそんなに悪いことではないのかもしれない……そう思い始めている自分に、咲耶はふと気づいたのだった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ