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「桐生兄、桐生兄!」


 阿依良の都を飛び出し、昼下がりの森の隅で、車は止まった。中は血だらけだった。ずたずたに体を引き裂かれた桐生は、ぼろのように横たわり、わずかにか細い息を続けていた。


 三つ子が止血をしようと衣で傷口を押さえたが、とても意味があるようには見えなかった。衣は見る間に鮮血に染まり、赤い雫をこぼし始めるのだ。


 桐生の顔は恐ろしく色を失い、目は重く閉じられている。望みがないことは、誰の目にも明らかだった。


 かたわらで稚武が何度もわめいた。


「桐生兄、桐生兄、嫌だ、目を開けてくれ。桐生兄!」


 我を失った稚武が桐生を揺さぶろうとも、誰も咎めなかった。もう何をしても結果は変わらないと悟りきっていた。


 ユキニたちはいたたまれずに車を下り、うつむいて立ちつくすばかりだった。


 激しく痛む右手を押さえ込む咲耶は、動けずに車内の隅に座り込んでいる。激痛は意識が遠のくほどのものだったが、今はなんとか自分を保っていた。子供のようにわめき散らす稚武の姿に、痛みに耐えながら顔をゆがめる。


(風羽矢――風羽矢が禍の王だった。桐生はそれを知っていたんだわ……)


 それでも立ち向かい、そして死に向かおうとしている桐生。その青白い顔を見、どうして、と咲耶は顔を覆った。


(みんな死んでいく……みんな禍の王に殺されてしまう。そんな権利があいつにあるの? どうしてなの。どうしてわたしは、禍の王に殺されてばかりなの……)


 むき出しの声で稚武は兄の名を呼んだ。その声は咲耶の胸を突いて苦しめた。陽巫女や呼々を失った自分が、そこにいた。


「嫌だ、桐生兄……ッ」


 稚武が言葉を途切れさせると、頼りない桐生の呼吸の合間に、かすかな声があった。


「……稚武……」

「桐生兄」


 稚武は飛びつくように覗き込んだ。


 桐生はゆっくりと、重たそうに瞼を持ち上げた。


「稚武……どうした。泣いているのか……」


 視線がさまよい、やっと稚武にさだまる。稚武は慌てて首を振った。


「いい、桐生兄、しゃべらなくていい」

「……稚武、お前は強い。けど、分かるだろう……お前は弱いんだ。目をそらすな。強がるな。傷つくのは、お前だ……」

「だめだ、黙ってくれ、桐生兄」


 稚武は声を震わせた。桐生の言いようは、これきりであることを覚悟しているようだった。


 ささやくように桐生は言った。


「ごめんな……お前たちを、助けに来たつもりだったのに。泣かして……お前も、風羽矢も」


 口を薄く開いたまま、桐生は目を閉じようとした。青ざめて稚武が取りすがる。


「嫌だ、死んじゃだめだ! 帰るんだろう、泊瀬へ。五十鈴姉と赤ん坊が待ってるんだろう」

「……そう、だ」


 桐生はほんのわずか目を細めた。その目はもう、稚武を見ていなかった。はるか遠く、ふるさとを見つめていた。そこに立つ、赤ん坊を抱いた五十鈴。自分を待っている彼女の、柔らかな微笑みを。


「帰らなくちゃ、怒られちまう。きっと、可愛い、赤ん坊が……」


 閉じられた目元から、雫が零れた。吐息だけで、桐生は愛しい妻の名を呼んだ。


「五十鈴……」


 それが最期だった。


「――桐生兄……?」


 稚武は幼子のように目を丸くして、それから泣き崩れた。こときれた兄の亡骸の上に身を投げ、何をはばかる事もなく泣いた。


(……こんなことってない……)


 桐生の死を前に、咲耶は己の手の痛みなど感じようもなかった。両手で口元を覆い、逝った桐生を信じられずに見つめていた。そして、それを揺さぶり泣き叫ぶ稚武の姿。


(どうして桐生が死ななきゃならないの。何の罪もない、神器の主でさえない桐生が)


 こんな理不尽な事はなかった。陽巫女のときも、呼々のときも。人が殺されるということほど歪んだことはない。死んでほしくない、死んではならない人ほど、あっけなく殺されていく。


(間違っている、こんなの。どうして……わたしはまた、失うの。何もできずに)


 あれだけ親切にしてもらった桐生に、何一つ返せないまま――そんなのは嫌だ、という思いが咲耶の胸にあふれた。


(力がほしい――何か、何でもいいから。誰も失わなくてすむような、力がほしい。死なせたくない、誰も)


 死なせたくない、桐生を。


 ぽつ、と頬を滑った涙が手に落ちる。その瞬間、まばゆい銀色の光が咲耶の右の手の平からあふれた。


「な……なに」


 驚いて見ると、落ちた涙の雫が光となり、花形の痣を覆うように満たしていた。それは、銀色の。


「か……」


 鏡。


 思った瞬間に、手の平に埋め込まれている鏡は強く輝き、一瞬、世界を真白に覆った。そのとき、咲耶の右手に玉を弾いたような感覚があった。けれど何もかもおぼつかないまま、額を貫くような衝撃に、咲耶の意識は弾き飛ばされてしまった。


「咲耶」


 声もなく卒倒した咲耶を、青ざめて稚武が覗き込む。


「どうしたんだ、咲耶」


 白い顔で気絶している咲耶に、稚武は困惑するばかりだった。その彼の背中へ、息を呑むようなユキニの声がかかる。


「稚武! ……桐生が―」



 *         *




 今も、よく覚えている。


 それは、雨上がりの秋深い夜のことだった。黄金の満月に黒い影がかかり、空は暗く、風は冷たかった。


 どうして、と問う声とともに涙が落ちる。


 どうして、どうして……


 やるせない怒りと哀しみ、切なさを吐き出すように。幼子が大人を責めたてるように、声もなく叫び続けた。


 月の隠れる闇夜に、ただ独り。声を押し殺して泣きながら、暗い森の中を必死に逃げる。


 どうして、どうして。わたしは何も知らなかったのに。どうして。


 堕ちていく。わたしは独りで堕ちていく。どこまでも、どこまでも。どこまでも……


 憎い。愛しい。狂おしく恋しい――あの人は、いない。


 走っては転び、怯えながら、どこに向かえばいいのかさえ分からないままにひたすら森の奥を目指した。


 やがて精も根も尽き果て、足をふらつかせてさまよう。


 行き場所などない。自分にも、このはらの新しい命にも。


 ここで果てるなら、それが正しいことなのかもしれない。恋も、罪も。憎しみも愛しさも切なさも、これで終わる。なにもかも……


 木に倒れかかり、絶望の中で静かに微笑む。けれども温かな涙は溢れて止まらなかった。


 闇から声が聞こえたのは、その時。


「誰かいるの?」


 若い女の声だった。とうとう幻聴が聞こえるようになったのか。そう思いながら常世を思わせる闇を見つめていると、森の影から小さな灯火が近づいてくるのが見えた。


「そこにいるのは誰? ここは愛比売さまの森。神域よ。天罰を受けたくなければ早々に立ち去りなさい」

「……天罰なら、もう受けたわ……」


 思わず口元を歪めて答える。灯火を持つ者が妖だろうと何だろうと、もはや恐ろしいものなど何もなかった。それ以前に、逃げようにも足が動かない。


「え?」


 目を丸くしてやってきたのは、声のとおりに年若い娘だった。膝元に幼い女児を連れている。たぶん彼女の子供であろう。


(女の、人……)


 まやかしでもなければ、武器を持った兵士でもない。


 気が抜けて力をなくし、ずるりと木の根元に座り込んだ。


「まぁ、どうしたというの」


 子を連れた彼女が慌てたように駆け寄ってくる。


「何があったの。どこかから逃げてきたの?」


 答えようにも、眩暈がひどくて何も言えなかった。それでも両の手が、わずかに膨らんだ腹をかばうように動いたのは、無意識だった。


 灯火を持った娘ははっとして目を見張る。


「お腹に子がいるのね」


 頷く代わりに目蓋を閉じると、ぱたぱたと涙が衣を打った。


「安心して。わたしは湯守ゆもりをしている者。この森には悪しき輩など入ってこられないわ。とにかく、休めるところまで行きましょう。――紅科くしな、火を持っていて」


 うん、と女児が大きく頷き、両手をいっぱいに使って松明を受けとった。


 湯守りと名乗った彼女に手を借りて何とか立ち上がりながら、おかしい、とぼんやり思った。自分やこの胎の子こそ「悪しき」者だろうに、と。





 薄明るい光を瞼に感じて、咲耶は静かに目を覚ました。戸から入ってくる光は緩く、冬にしては温かい。


 見知らぬ小屋の中の、低い寝台に寝かされていた。気づいて、何だか重たい身を起こす。


(あれ……わたし、どうしてこんなところに)


 どうも頭がぼんやりしている。何かとても大変なことが起きた気がするのだけれど、何だったろう……咲耶は頭に手を当てて考えようとしたが、記憶は真白だった。


 胸でうなりながらふと見ると、部屋の隅に人影があってぎょっとした。


 壁を背にし膝を抱えて、稚武がうずくまっていたのだった。部屋には二人しかいなかった。


 咲耶の息を呑んだ気配を感じたのか、稚武が静かに頭をもたげた。今までに見たことのない彼の表情に、咲耶は呼吸を止めた。――稚武は泣きはらした顔で穏やかに笑んでいた。


「……よう」


 声もひどくかすれている。けれど優しい声音だった。


「良かった。無事に目を覚まして」


 いつになく柔らかい物腰で、稚武は立ち上がった。


 咲耶は瞬いた。


「稚武、わたし、どうしたのだっけ。ここはどこ? 他のみんなは―」


 そこまで言って、やっと思い出す。


「稚武――桐生は」


 稚武は答えず、ゆっくりと、疲れきった様子で咲耶の寝台まで歩み寄った。


 咲耶は顔を歪めた。


「ねぇ……稚武。桐生は」

「咲耶」


 目の前まで来て稚武は立ち止まり、うつむいた。ほのかな微笑みは、見違えるほど大人びていた。その瞳に、涙がにじむ。


「――ありがとう、咲耶」


 稚武は膝をつき、うなだれるように深く頭を垂れた。


「稚武?」


 目を丸くする咲耶に、稚武は顔だけ上げて微笑んだ。


「お前、『鏡』を使ったんだ。……そうだろう? それで……桐生兄を助けてくれた」


 咲耶は無言で息を呑み、ハッとして右の手の平を見た。けれどもそこに銀の鏡はなく、以前のまま花形の薄赤い痣があった。


「じゃあ……桐生は?」


 喉を震わせて訊ねると、稚武はすぐに答えた。


「隣の部屋で休んでいるよ。ユキニたちがついてる。助かったんだ……傷はふさがって、意識もしっかりしてる」

「――良かった!」


 喜びで我を忘れ、咲耶は思わず稚武に抱きついた。しかしすぐに正気に戻り、慌てて離れようとする。けれども、できなかった。


 気づくと、稚武もまた、咲耶をきつく抱きしめていたのだ。


「ちょっ……」


 カッとして怒鳴りそうになったが、とどまった。咲耶を腕に抱き、稚武はかすかに肩を震わせていた。


「……稚武……?」


 稚武は何も答えなかった。静かに、静かに、泣いていた。


 咲耶は落ち着いていられなかったが、突き放す気にはなれなかった。彼は決して嬉し泣きをしているのではないと、知らぬうちに感じていた。


(わたしにはわからない……けれど、この人は何かを失ったんだわ。桐生の命が助かったのだとしても、喜ぶだけでいられないほどの何かを)


 それを、稚武は話してくれない。それでも哀しみだけは伝わってきた。


 慰めの言葉など見つからなかった。抱き返すことも少々気後れした。だからせめて、彼が泣きやむまでこのままでいてあげようと、咲耶は思ったのだった。


 

 しばらくして、稚武は泣きやんで咲耶を離した。


「来いよ、桐生兄たちもお前を心配していたから」


 言って戸を開ける稚武は、まるで何事もなかったかのような顔をしている。


 彼によれば、ここは偶然見つけた山小屋だという話だった。近くには里があり、ちょうど今、三つ子たちが情報収集に下りているところらしい。


(どうして稚武はわたしについていたのだろう……本当は桐生のそばを離れたくなかっただろうに)


 咲耶は不思議に思ったが、訊くことはできなかった。


 真実、隣の部屋の寝台には桐生がいた。彼は上体を起こし、明るい顔でユキニたちと談笑していた。生気のあふれる目、たくましい肌の色――生きている。


 感極まって、咲耶は声も出せずに戸口に立ち尽くした。その姿に気づいた桐生が、大きく微笑みかける。


「咲耶、気がついたのか」

「桐生……本当に」


 咲耶はすぐに駆け寄って、彼を覗き込んだ。そっと触れると、桐生は温かかった。生きている匂いがした。


 しかし、生きているとはいえ、彼の体にはぞっとするような傷跡がいくつもあった。それはもう健康な肌の色を取り戻しかけていたが、はっきりと刻まれて、一生消えないように見えた。


 咲耶が眉を下げると、桐生は明るく笑った。


「奇跡というのは本当に起こるんだな。もう痛まないし、以前のとおりに動かせるんだ」


 ほら、と腕を大きく回せて見せる。そして目を細めて咲耶を見た。


「ありがとう、咲耶。君のおかげで、俺は戻ってくることができた。誰に言われなくてもわかったよ。君の光をあびて、さまよっていた俺は自分の肉体を見つけたんだ。無に還る前に」

「信じられないわ」


 涙ぐみながら咲耶は微笑んだ。


「よく覚えていないけれど、夢中だったことは確かなの。桐生を死なせてはいけないと思った。そうしたら、右手に鏡があらわれて―」


 咲耶はもう一度、自分の右の手の平を見た。花の形の、大きな痣。それがあの時、銀色に満たされて「鏡」となり、まばゆい光を放ったのだ。


「神器の『鏡』だったのかしら……あれが。でも、どうして」


 うつむいて首をかしげた咲耶に、部屋の隅にぽつんと立つ稚武が、落ち着き払ったような声音で言った。


「あれは神器の光だったよ、俺はそう感じた。……もしかしたらお前は、もうずっと前から『鏡』を持っていたんじゃないか」

「そんなはずないわ、わたしは知らない。それに、この痣は生まれつきよ」

「なら、生まれつき神器を持っていたということだ。そんな馬鹿なことはないだろうけど。――お前はどこで生まれたんだ?」


 言われて、咲耶は眉をひそめる。


高千穂タカチホの峰というところよ。そこから、前代の陽巫女さまがわたしを陽里に連れて来てくださって……」


 そこで咲耶ははっと思い出した。


「そうだわ……もしも穂尊が言っていたことが本当だとすれば、わたしに『鏡』を託したのは前代の陽巫女さま。御方が赤ん坊のわたしに『鏡』を託したのだと、穂尊は言っていたわ」


 息を呑んで、咲耶は痣を見つめた。では、本当にこれが神器なのか。


(けれどどうして、わたしに、それもこんな形で託されたのかしら……)


「とにかく、これで三つの神器の在りかがわかった」


 稚武は感情の薄い声で言い、顔を上げて咲耶を見た。


「とりあえず鏡はお前が持っているといいよ。どう見たって、一筋縄には取り出せそうにないからな」

「稚武……」


 咲耶は両手を胸に抱き、ついに訊ねた。


「じゃあ、『玉』は……風羽矢が持っているの。あの人の胸で赤く光っていたあれが、そうなの?」

「そうだよ。あいつは玉の主――倭の禍なんだ」


 稚武は咲耶をちらりと見、また視線を下げた。


「黙っていて悪かったな。騙していたつもりはないんだ」


 わかる気がした。咲耶には、稚武がぼろぼろに傷ついているように見えた。彼は心から風羽矢を信じて求め、そして裏切られてそこに立っているのだと、どうしてかわかった。


「どうか話して。風羽矢が何者なのかを」


 咲耶が言うと、桐生やユキニたちが見守る中で、稚武はうつむいたまま口を開いた。


「あいつは……」


 けれど言葉が見つからないようだった。少しの沈黙があって、稚武はぽつりぽつり語った。


「あいつは、秋津の大王の、死んだ兄上様……薙茅皇子かるかやのみこの子なんだ。……俺の従兄弟。薙茅皇子は大王を怨みながら死んで……風羽矢にとって、大王や俺は仇なんだ」


 咲耶は眉を下げた。


「どうして? だってあなたは風羽矢を慕っていたじゃない、あんなに」

「一緒に育ったんだよ。俺たちは何も知らなかった。……何も知らなかった……」


 稚武はわずかに喉を震わせた。それから大きく息を吸い、声を落ち着けて言った。


「だけど、あいつは『玉』の主……禍として目覚めた。俺も『剣』を振るった。――もう昔のようには戻れない。俺たちは敵だ」


 稚武はうつむいたまま、はっきりと言った。


「あいつは、俺が殺す」

「稚武」


 桐生に名を呼ばれ、稚武はびくっと肩を揺らした。彼が今まで一度も桐生と目を合わせていないことに、咲耶はようやく気づいた。


 稚武は眉を歪ませ、床を睨んで沈黙した。その様子を見つめ、桐生はユキニたちに明るく言った。


「すまないが、少し席をはずしてくれないか。稚武と二人、兄弟で話がしたいんだ」


 こう言われて、咲耶たちに逆らえるはずがなかった。


 咲耶は戸を出るときに稚武とすれ違い、彼の震えた表情を見て、胸のきしみを覚えた。


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