5
高鳴る胸を押さえ、風羽矢はそっと息をついた。
(稚武が来てくれた……僕を迎えに。来てくれたんだ、こんなところまで。僕のために)
じわじわと胸が熱くなった。ふと思うところがあって、風羽矢は分厚い服の下に隠れていた御祝玉を取り出した。そして顔を明るくしたことには、その勾玉は光を失っていた。
(どうしてだろう……でも、良かった)
もしかしたらこれは、玉が許してくれたのかもしれない。稚武のもとへ帰ることを。父である薙茅皇子や母の怨みを捨て、もとの風羽矢に戻ることを。
風羽矢は心から嬉しくて微笑み、部屋に戻ろうと顔を上げた。
そして、ぎくりと頬を強張らせる。
殿の廊に立ち、ヒミコがこちらを睨んでいた。
「お兄さま」
強い非難の色の声が風羽矢を打った。
「お兄さま、こちらへいらして下さいませ」
いつになく厳しい妹の声音に逆らえず、風羽矢は導かれるようにヒミコのもとへ向かった。目は彼女の瞳に縛りつけられたまま、逃げられない。だから風羽矢は、自分が池の水面の上を浮いて歩いていることにすら気づいていなかった。そして、胸の御祝玉がかすかに光を取り戻したことにも。
「ヒミコ……いつの間に」
「ついさっきですわ」
初めて見る冷めた目で、彼女は言った。
ヒミコは廊から下り、赤い橋の上まで来て風羽矢を目の前にした。柔らかくも冷たい手が、張りつめた風羽矢の頬に触れる。ゾッとし、なお風羽矢は深淵の底のようなヒミコの瞳から目を離せなかった。かすかに、磯の香りがした。
「お兄さま……お会いになったのですね、あの娘と」
憂えるように、それでいて冷ややかにヒミコは言った。
風羽矢はわずかに目を大きくする。
「ヒミコ、君は咲耶を知っているの」
「ええ。――あの娘は『鏡』の主ですわ」
さらに大きく目を見開いた風羽矢は、一歩あとずった。
「まさか。だってあの子は」
風羽矢ははっとして、気を取り直すように真正面からヒミコに言った。
「彼女は言ったんだよ、僕を迎えに来たって。稚武や、桐生兄と一緒に……。稚武が迎えに来てくれたんだ。――だからヒミコ、君も僕と一緒に行こう。君だって稚武に会えば、あいつがどんな奴かわかる。きっと嫌いにはならないから。……復讐なんて、もうやめよう」
ヒミコは哀しげに眉を寄せる。それでいながら、美しく歌うような声音で言った。
「お優しいお兄さま……そして、お可哀相なお兄さま」
風羽矢が聞き返す間もなく、ヒミコはまた彼の頬を撫でた。
「わからなかったのですか? あの娘と稚武は、お兄さまとわたくしを滅ぼしにやってきたのですよ」
「……、嘘だ」
風羽矢は口で強く否定したものの、瞳はまたヒミコに囚われていた。彼女の、どこまでも深く、全てを吸い込んでしまいそうな漆黒の瞳に。
「だって稚武は、僕を迎えに来てくれた」
「いいえ、違います。騙されないで、お兄さま。稚武はあなたを殺しにやってきたのです。『剣』を持ったあの男は、より強い力を得るために『鏡』を連れて、『玉』の主であるお兄さまを破壊しようとしているのですわ。己の保身のために……あなたに日嗣の座を奪われないために」
「違う、稚武は」
ヒミコのひんやりとした指先が、風羽矢の首筋を這う。
「あなたが彼を想っているほど、稚武はあなたを想っていやしませんわ。あなたをおとしめて、偽りの皇子である自分を満たそうとしているだけ。お兄さまを飼いならすために、飼い犬に餌を与えるように優しいふりをしていただけ……本当はずっと、お兄さまを蔑んでいたのですわ」
「違う……」
風羽矢は震えた。ヒミコの声は甘く、心地よく耳の奥を撫でていた。ゆっくりと心を深くえぐられ、染められていくのを感じる。抗おうにも、もはや指一本の動かし方さえ分からなくなっていた。
ヒミコはかすかに笑った。
「ねぇ……お兄さまがいつも稚武の背中ばかり見せられていたのはどうして? 彼は笑いながら、お兄さまを押しやっていたのではなくて……?」
「ち……が、う」
それは吐息だけで、ほとんど声にはなっていなかった。
ヒミコはいっそう声を柔らかくして、風羽矢の耳元で囁く。
「思い出して、お兄さま。あなたは、本当は……ずっと、稚武が憎かったのでしょう」
「違う!」
風羽矢は瞠目して叫んだが、ヒミコは聞かなかった。
「わたくしにまで隠さなくていいの。ずっとずっと、あなたは稚武の影だった。悔しかったでしょう、寂しかったでしょう、妬ましかったでしょう……」
無言で棒のように立ちすくみ、風羽矢は震えていた。いつの間にか目の前は真っ暗だった。ヒミコの甘い歌に揺さぶられ、だんだんと意識が薄らいでいく。
深海の底に堕ち、光を失った風羽矢の瞳を、ヒミコが静かに手で塞いだ。
「お兄さま、どうぞ認めて。本当のあなたを解放して。怖がらなくていいの。どんな醜いあなたも、わたくしが受け入れます。――さぁ……思い出して。稚武の引き立て役に押しやられていた、惨めな影の日々を」
優しい声音に誘われるまま、風羽矢は記憶を振り仰いだ。
――風羽矢になど目もくれず、父のもとへ駆けていく稚武。
頬を染めて愛の告白をしてくる娘の瞳に映る、無邪気な稚武。
皇子、皇子さまとみんなに慕われる石上の稚武。何もしていないのに、自然とみんなを惹きつける泊瀬の稚武――取り残される自分。
いつも、いつも……稚武の笑顔を後ろから見つめていた僕は、どんな顔をしていただろう?
風羽矢の顔を覆ったヒミコの手の下から、静かに涙がこぼれた。
ヒミコは唇を歪ませて笑む。
「ね……辛かったでしょう、お兄さま。だって、あなたと稚武と、何が違う? どうしてあなたは陰にいたの? あなたこそ正統な王。この倭を救える唯一のおかたですのに」
ヒミコは風羽矢の顔から手を離した。風羽矢の目は深い闇を見つめ、ただ涙を流していた。
「愛しいお兄さま。何も心配なさらないで。何も考えずに……すべてわたくしに預けてしまって。お兄さまにはわたくしがついております。……お兄さまには、わたくししかいないのですわ」
ヒミコは恍惚とした目で、風羽矢の御祝玉を撫でた。よどんだ赤い光を放つ、その勾玉を。
「何のために生まれてきたのか、思い出してくださいませ。わたくしたちは怨みと哀しみで生まれてきたのですから、それを晴らさずには幸せになれないのです。……わかるでしょう、お兄さま」
風羽矢の首に手を回し、ヒミコは微笑んで彼を見つめた。
「ねぇ……わたくしを見て。わたくしだけを見て。わたくしの中に、全てを感じて……」
そっと、二人の唇が重なった。
(海……)
父と母を呑み込んだ黒い海のうねりを、風羽矢は見た。光なき永遠の闇。暗く閉ざされた、静かな闇――全てを溶かし、抱いてくれる海。
風羽矢は、自分の意識が黒い波に沈んでいくのを感じた。けれど抗うことなどできなかった。これでもう、楽になれるのだ……
感情を失った彼の瞳に、ゆっくりと瞼が下りる。
「さぁ……参りましょう、お兄さま」
風羽矢の胸に頬を預け、ヒミコはうっとりとして歌った。
隠り処の泊瀬の河の
上つ瀬に斎杭を打ち
下つ瀬に真杭を打ち
斎杭には鏡を懸け
真杭には真玉を懸け
真玉如す吾が思ふ妹
鏡如す吾が思ふ妻
ありと言はばこそよ
家にも行かめ 国をも偲はめ
「……今こそ、二人の夢が叶うの」
赤い唇が儚く、美しく、笑う。夢現を見つめる少女の双眸に、光が灯る。
寒々しい、藍色の光。
ヒミコが抱きしめて離さない風羽矢の胸で、赤い御祝玉が揺れていた。それは美しい、炎の御魂ように。
* *
人目につかないように物影を選んで、咲耶はまっすぐ離れに向かっていた。
日陰を確かめるために空を仰いだとき、西の空の低いところに薄暗い雲を見つけた。わずかに顔をしかめる。
(雨が降るのかしら、朝はあんなにいい天気だったのに。急に暗くなってきた……)
ともかく早くみんなの所へ戻ろう、と茂みの陰で息を吸い込んだときだった。
ザッと葉の盾を突き破り、目の前を矢が横切った。
「きゃっ……」
思わず身を竦める。
そんな咲耶をあざ笑うように、聞き覚えのある声が言った。
「そこ隠れているのはわかっているぞ。出て来い、勇敢で哀れな姫巫女よ」
聞いた瞬間に咲耶は立ち上がり、物々しい兵隊を引き連れたその男を見た。
「穂尊」
咲耶が叫ぶと、穂尊は目元の炎の刺青を歪ませて笑った。
「ふん……怪しい女がちょろちょろしていると聞いて、まさかとは思ったがな。その頼りない足で、よくこんなところまで来られたものだ」
「あなたを討つためよ!」
咲耶は激しく彼を睨み、すばやく呼々の懐剣を構えた。
周りを取り囲んでいた兵士たちが目の色を変える。しかし、愉快げな笑みを絶やさない穂尊が手をかざして引かせた。
「ほう。この穂尊を相手に仇討ちか、面白い。――お前たちは手を出すな」
穂尊はすらりと剣を抜いた。
「姫巫女、お前のその気概に免じて、一度くらいは相手になってやろう。どうだ、かすり傷の一つでも負わせてみせれば褒めてやるぞ」
「よくも!」
咲耶は怯まず駆け出し、夢中になって刃を振り回した。けれどもことごとくかわされ、穂尊の薄く笑った表情を崩すことさえできない。奥歯を噛み、それでも咲耶は立ち向かっていった。
「馬鹿にしてないで、かかってきなさいよ!」
「そうだな」
穂尊は造作もなく、軽々と咲耶の手から懐剣を弾き飛ばした。
「あっ―」
「悪いが、お遊びはもう終わりだ。これでわたしもなかなか忙しい身なのでな」
青空に弧を描いて飛んだ懐剣を目で追いかけながら、咲耶は後ろに倒れこんだ。その鼻先に、鋭い刃が差し向けられる。
咲耶を冷たく見下ろした穂尊は、もう笑ってなどいなかった。
「わたしも探していたよ、お前を。お前と、お前の持つ『鏡』とやらを」
「鏡?」
咲耶は穂尊を睨みあげながら、眉をひそめた。
「そうだ、隠さずに出せ」
「知らない」
嫌悪をあらわにして咲耶は言った。
「神器の鏡のことなら、わたしだって探していたところだもの。持っているはずないじゃない」
「嘘をつけ。ヒミコさまがおっしゃったのだ――お前が呪われた『鏡』の主だと。その身に神をも凌駕する力を秘めた女なのだとな。放っておけば禍を呼び、倭を滅ぼす呪いの力だ」
「呪われているのはそっちじゃないの!」
息巻いて咲耶は怒鳴った。
「禍はあなたたちよ。『玉』を持ったあなたたちの王、偽者のヒミコ、それに穂尊、あなただわ。あなたたちは鬼だわ!」
「黙れ」
思い切り肩を蹴り倒され、咲耶は後方にふっとんだ。
「口に気をつけろ、陽里の魔女が」
穂尊は憎悪に目をにごらせていた。
「さぁ、『鏡』をよこすんだ。前代の陽巫女が、赤ん坊のお前に託したという古の神宝を」
「前代の、陽巫女さまが……?」
痛みに熱くなっている肩を押さえ、咲耶は顔を上げた。
「余計なおしゃべりをするつもりはない。さっさと『鏡』を出せ」
目の前で、穂尊の刃が冷たくきらめいた。今度こそ本気だ。頭をもたげた蛇に睨まれたときのような、凍てついた恐怖が背筋を走った。
けれどそれ以上に咲耶の全身を支配していたのは、仇である穂尊への怒りだった。咲耶は少しもくじけずに穂尊をにらみつけた。
「鏡なんて持ってない。たとえ持っていたって、誰があなたなんかに渡すもんですか!」
「このガキ」
穂尊は怒りをにじませて低く言い、剣を振りかざした。
「あまりお前の体に傷をつけたくはないのだがな。どうしても言わないというのなら、しかたない。『鏡』のためとあらば、指が一本欠けるくらい許されるだろう」
ぞっとして、咲耶は喉を震わせた。けれど許しを乞うことだけは、自分に許せなかった。ただかたく目を瞑り、胸の中で叫んだ。
(陽巫女さま、呼々――)
その瞬間、咲耶は自分の体が宙に浮いたような感覚を覚えた。思わず目を開くと、パッと細い鮮血が目の前を横切った。
(血)
誰の、と驚いているうちに、ずいぶん乱暴に咲耶は地面に落ちた。信じられないことに、稚武に抱きかかえられて。
「稚武」
驚きの声を上げた咲耶を、稚武は苦りきった顔で一言怒鳴りつけた。
「馬鹿!」
見ると、稚武は咲耶が持っていた懐剣を逆手に構えていた。その刃の赤い雫に、咲耶はハッと穂尊を見やった。
頬に一筋の傷を受け、片膝をついたままこちらを睨んでいる穂尊とは、数歩分もの距離があった。
どうやら、咲耶に向かって刃が振り下ろされた瞬間、弾き飛ばされて転がっていた呼々の懐剣を手に、稚武が飛び込んできたらしい。そして咲耶をかばいつつ、穂尊に切りつけた。二人は勢いで転がりながら、穂尊とこの距離をとったのだ。
「……何者だ」
さっと気色ばんだ兵たちを抑え、穂尊は立ち上がった。ぐい、と手の甲で頬の血をぬぐう。
咲耶を背に守りながら、稚武も懐剣を構えなおして立った。そして真正面から向き合う。
「あんたが穂尊か」
「そうだ」
ふいに穂尊は薄く笑った。
「ふん、ひどく面白い格好をしているが、いったい何者だ。名乗れ」
稚武は女の衣裳を着たままだった。けれど華やかなその衣は土や草に汚れ、ところどころ大きく破れていた。ここまで来る間に、ずいぶん無茶をしたらしい。
「……こんな格好で名乗れば父の恥になる。できれば言いたくない」
困ったような、難しい表情で稚武は言った。
穂尊は大きく笑い、楽しそうに口元を歪めたまま長剣を構えた。
「つれないことを言うな。不意打ちとはいえ、名もない男に傷をつけられたとなれば、この穂尊の恥だ」
しかたなく、稚武は言った。
「稚武」
聞き、穂尊はわずかに眉を寄せた。そして一呼吸の空白ののち、先程よりも大きく大笑した。
「なるほど……隠したつもりだろうが、わたしはその名を知っているぞ、秋津の日嗣君。ヒミコさまの予言どおりだな、『鏡』の娘と『剣』をたずさえたお前が、倶馬曾を滅ぼしにやってくると。 ――だが、そうはさせん」
踊る瞳を鋭く輝かせ、穂尊は剣を構えなおした。
「まるで倶馬曾に伝わる伝説の再現のようではないか。女の格好をしてクマソタケルを油断させ、なぶり殺しにしたという秋津のヤマトタケルノミコト……。わたしがいつからかクマソタケルの再来と言われてきたのも、もしやこの瞬間のためか。 ――しかし、残念だ。相手がお前では騙されようもない」
「よくしゃべる奴だな。……ついでに教えてくれないか。さっきの『鏡の娘』というのは、この咲耶のことなのか?」
「そうだ。倭の三種の宝の一つ、『鏡』を持つ女だ」
稚武は呆れたような目で、ちらりと咲耶を見やった。
「いつの間に?」
「知らないわ、わたし――本当に」
慌てて咲耶は答えた。稚武にまで勘違いされるのは恐ろしかった。
穂尊はくつくつと笑った。
「日嗣君、お前は『剣』を持っているのだろう。まさか、そのちっぽけな小刀ではあるまい――そっちの、腰のやつか」
稚武の腰の厚布に巻かれた剣を視線で指し、穂尊は目を細めた。
「それで我らの王を討とうというのなら、先にこのわたしに振るえ。神宝の威力とやらを見せみろ」
「それはちょっとできない。神器を人間に向けたら、ろくなことにはならないらしくてね」
稚武は、あくまでも呼々の懐剣で戦うつもりらしかった。しかしそのように見せかけておいて、隣の咲耶にひそっとつぶやいた。
「逃げるんだ、咲耶。とりあえずお前だけでも、先に」
「どうして」
息を呑む咲耶に、稚武は目もあわせずに言った。
「穂尊は強い。戦わなくてもわかるくらいにだ。空気で感じる……隙がないんだよ。こんな小さな剣で、敵うわけないだろ。しかも向こうは穂尊一人じゃない。多勢に無勢、万事休すだ」
「じゃあ稚武はどうするの」
怖くなって咲耶は訊ねた。しかし稚武は飄々として返す。
「無理はしない。適当に時間を稼いで逃げるよ。早く風羽矢を探したいし」
はっとして咲耶はつい大声で言った。
「そうだわ、稚武。わたし、風羽矢を―」
見つけたの、というより先に、ピィッと高く穂尊が口笛を鳴らした。その号令に従い、兵隊たちが風のようにざあっと二人を取り囲み、矛の先を向ける。
「逃がしはしない。秋津の皇子、陽里の姫巫女」
「ちっ……」
どうにも身動きが取れなくなり、稚武は懐剣を握りなおして身を固めた。肩で咲耶を守る。
(力ずくで突破するしかないか。……いざとなったら、剣を使ってでも)
そう思ったとき、稚武の心を読んだように剣が震えだした。そして厚布を透って白い光が現われたと同時に、ふいに空が陰る。いつの間にか、黒雲が天を覆おうとしていた。
(なんだ――)
稚武が胸に不気味なざわめきを感じ、暗くなった空を仰いでいるうちに、剣の響きは加速して大きくなっていった。
剣だけでなく、世界が震え、低くうめいているようだった。黒い雲に太陽が隠され、宮全体が薄暗くなる。
「なんだ、どうしたことだ、これは」
突然の天変に、穂尊や彼の部下たちも顔を青くした。
彼らが度を失っている間に、草陰から人影が飛び出して稚武のもとへ走り寄ってきた。
「稚武、こっちだ」
大陸の官人の衣裳を着た、桐生だった。彼は稚武と咲耶の手をとり、共に逃げようとしたが、一部の兵たちがすばやく阻んだ。しかし阿依良兵たちは稚武の剣の光を見て恐れおののき、矛を下ろして何歩かあとずさる。気づいた桐生も顔色を変えた。
「何をしているんだ、稚武。神器を振るうつもりか、こいつら相手に」
「違う――剣が勝手に」
そのとき突然、稚武の隣にいた咲耶がうずくまった。
「いた……いッ」
「咲耶?」
見ると彼女は右手を握り締め、赤い顔に汗をにじませていた。慌てて稚武が覗き込む。
「咲耶、どうした」
にわかに騒然となった場に、その声はひどく静かにかけられた。
「……稚武」
はじかれたように稚武は顔を上げた。正面の殿の段の上に、人影があった。
「風羽矢!」
それは、稚武が長く探し求めていた相棒の姿だった。隣には見知らぬ少女が微笑んで寄り添っていたが、そんなものは稚武の目に映っていなかった。
「風羽矢、お前、本当に無事で」
「これは――王、ヒミコさま」
思わず駆け出そうとした稚武の前で、穂尊たちが膝をついて叩頭した。そしてはっきりと、風羽矢を「王」と呼んだ。
稚武の足は凍りついた。しかし、たとえ穂尊たちがいなくても、彼は動けなかったに違いない。輝きかけた稚武の顔を凍てつかせたのは、風羽矢の冷え切った眼差しだった。そのような風羽矢の表情を、稚武は見たことがなかった。
「か……風羽矢?」
かすれたような声で呼びかけた稚武に、風羽矢はスッとわずかに目を細めた。いつもの柔らかな笑みなど、微塵もない。
「稚武。――僕は、君を怨む」
殴られたような衝撃が稚武を打った。一瞬、世界が色をなくしてたわんだ。
「僕は大王を許さない。そして、君を許さない。君たちは仇だ。……僕は、許さない」
風羽矢の胸元で、勾玉が歪んだ赤い炎を上げている。
「君は僕の敵だ。僕は、君の敵だ」
感情のない、どこまでも無機質な声音だった。けれど、その瞳は確かに稚武を見ていた。
「君に倭は渡さない。この国の王は僕だ」
冷たい風が吹いた。稚武と風羽矢はずっと見つめ合っていた。風羽矢は非情な瞳で、稚武は息もできずに目を見開いたまま。
動いたのは桐生だった。
「風羽矢、何を言っているんだ」
誰が止める間もなく、桐生は怒鳴り込んで風羽矢のもとへ走り寄って行った。
「いったいどうしたっていうんだ、お前――」
段を駆け上がり、風羽矢の手を引く。そのとたん、無表情に近かった風羽矢に激烈な不快の色が走った。
口を出た声は小さく、ぞっとするほど低かった。
「……だれだ、きさま」
桐生が耳を疑った瞬間、風羽矢の目が嫌悪に燃えた。
「汚い手でわたしに触れるな!」
そして赤い光が炸裂した。幾筋もの閃光が桐生を裂き、彼の体は軽々と宙を飛んだ。とっさに受け止めきれずに倒れこんだ稚武は、一瞬で血だらけになっていた。稚武の血ではない。彼の衣を深紅に染めたのは、おびただしいまでの桐生の鮮血だった。
声にならない悲鳴が稚武の喉を貫く。
天には暗雲が渦巻き、風羽矢の『玉』の炎が激しい雨を呼んだ。暗黒と化した空と地とを縫いつけるように紅の稲妻が走る。冷たい風がさかまいて吹き上がり、鋭くうなった。
稚武は風羽矢を見た。玉を赤く輝かせ、凍てついた殺意を向けてくる彼を、見た。
風羽矢、と声の限りに叫ぶ。
次の瞬間には、稚武は剣を手にしていた。両手で構えると、何を考えなくても剣は玉に応えた。風羽矢と稚武との間で切り裂くような風がぶつかり合い、天高くまで渦を巻き上げる。神器の鳴動は膨らみ、何度もはじけた。走り渡る赤い稲光の中で、剣が輝く。そして真白い光が宮を覆った。
わずかに剣が玉の力を押しやったのを感じ、その一瞬に稚武は思い切り剣を振るった。切っ先から矢のように閃光が飛ぶ。放たれた白の光は、風羽矢の立つ殿を嵐のようになぎ倒した。
すると、低くうなるような雷鳴と豪雨は続くものの、稲妻が影を潜めた。玉の力が押さえ込まれたらしい――同時に、稚武の剣の輝きも薄まった。
息を切らし、暗い世界で激しい雨に打たれる稚武の耳を、雷鳴とは少し違った轟音がかき乱した。
「稚武っ」
見やると、馬車が嵐の中を疾走してきていた。車にしがみついて顔だけ出しているユキニが、高い声で叫ぶ。
「逃げるぞ、急げ!」
混乱しきる兵たちを蹴散らして突っ込んできた馬車から、三つ子のうちの二人が飛び出してきた。そして意識のない桐生と、うずくまったままの咲耶を抱き上げる。咲耶はぐったりとしていた。
「さぁ、早く乗れ!」
促されるままに、男たちに続いて稚武は車に乗り込む。そのとき、再び剣がざわめきだした。一度弱まった玉が、力を取り戻してきたのだ。暗闇の中の、崩壊した殿の辺りに、赤黒い光が浮かんだ――傷一つなく、風羽矢が立っていた。その目はどこまでも闇に溶け込んで。
風羽矢の玉が明るく輝いた瞬間、稚武の剣も呼応して光った。すると、どしゃ降りの中を進む馬車が風のように速さを増した。剣の力だ。
風羽矢は闇の中にたたずみ、雨の向こうに遠くなっていくその白い光を、見えなくなるまでじっと見つめていた。その目にはかすかな光さえない。
一筋だけこぼれた涙は、すぐに冷えて途絶えた。




