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第五章 阿依良の宴 1


「お兄さま、お目覚めですか?」


 晴れた日の夜、夕餉を終えたところの風羽矢のもとに、ヒミコがにこにことしてやってきた。


「祭殿へおいでくださいませ。お兄さまのための玉座ができあがりましたの」

「玉座?」


 風羽矢はびっくりして言った。


「どうして、そんなもの……。僕は王にはならない。なれるような奴じゃないって、前にも言ったのに、ヒミコ」

「大丈夫です。お兄さまは王になるためにこの世に産み落とされたのですもの。いつまでもつまらない心配なさっていないで。ほら、こちらですわ」


 ヒミコは楽しそうに、ぐいぐいと風羽矢の袖を引く。行き合った女中たちはそろって微笑みを浮かべ、廊の端に下がると恭しくぬかずいた。


 そのように宮の人々に敬われることは、風羽矢がやってきてからもうずっと続いていた。けれど、どうにも慣れない。


 宮の人々は、風羽矢のことを「王」と呼んでいた。いくら本人が違うと言い張っても、彼女たちは譲らなかった。部屋の前には朝から晩まで衛士が張りつき、端女は風羽矢が何もできない赤ん坊であるかのように世話してくれた。先ほどまで食べていた食事も、石上の宮で稚武が食べていたのと同じくらいぜいたくなものだ。ここまで至れり尽くせりにされる理由が、風羽矢にはどうしてもわからなかった。


 だが、ヒミコと呼ばれている妹が、実際に巫覡の力に優れた少女であることはもう知っていた。阿依良に来てから、ヒミコが死人を黄泉還らせる儀式が何度かあった。最初はさすがに信じられなかった風羽矢も、祭殿に横たわった青白い亡骸に血の色が戻り、目蓋が開けられた瞬間には、信じるしかなかった。ヒミコは真に神の遣いであり、人々の救いなのだ。


 ヒミコは頻繁に海辺へ出かけていった。風羽矢は宮から出るなと彼女に言われていたので、ついていくことはなかったが、聞けば海の力で身を清めているのだと言う。それは朝出かけていって昼前に戻ってくる日もあったし、幾日も帰ってこないこともあった。


 正真正銘、ヒミコは神の寵を受けた巫女なのだ。


(そして、僕の妹……)


 この世界でたった一人、同じ血を流すひと。


 明るく灯がともされた回廊を、はしゃいだ彼女に手を引かれて歩く。風羽矢の近くにいるときは、ヒミコもただの女の子に戻っていた。人々を導く神の娘ではなく、身内として。


 ヒミコは自分を必要としてくれている。ここにいてほしいと言ってくれる。そのことだけが、風羽矢にとっての救いだった。


「さぁ、お兄さま。お入りになって」


 言われるままに祭殿の垂れ布をめくって中に入ると、風羽矢は思わず身を引いた。高い段の上の空の椅子に向かって、大勢の役人や女官たちがひざまずいていたのだった。


「なに……この人たち」

「阿依良の――倶馬曾の民、お兄さまの民ですわ」


 微笑んで言うヒミコを、風羽矢はただ凝視する。


 石上の宮の祭殿よりも広く、新しい広間を、平伏した人々が隙間なく埋め尽くしている。見ると、殿の外の地べたにまであふれ出していた。


「ああ、そうだ、お兄さま。先に紹介しておきます。――穂尊ホタカ、いらっしゃいな」

「は」


 ヒミコに呼ばれて進み出てきたのは、まだ若く、引き締まった体格の青年だった。切れ長の目元には、燃えるような黒い炎を思わせる刺青がある。


「お兄さま、この者は阿依良を束ねていたものです。タケルと呼ばれるほどの名高い兵ですのよ。これからは、お兄さまのそば近くにおきましょう」


 片膝をついた穂尊は深く頭を下げた。


「お初にお目にかかります、王。軍隊長を務めております、穂尊です。ちょうど外へ戦の片付けに出ていたもので、挨拶が遅れ申し上げました」

「穂尊」


 風羽矢がつぶやくと、穂尊はわずかに顔を上げて微笑み、感極まった様子で声を潤ませた。


「永く……永くお待ち申し上げておりました、我らが王よ。どうぞ阿依良にて玉座につき、この倭をお治めください。さまよえる我らを、真の幸福なる国へお導きください」

「――さぁ、お兄さま。あなたの玉座へ」


 茫然として、風羽矢は段上の玉座を仰いだ。黒っぽい石でできているそれは、ひどく暗く重いものに見えた。


「できない……僕にはできない」


 小さく、風羽矢は首を振りながら言った。彼はすっかり怖気づいていた。


「どうして僕が、倶馬曾の王になれる? 秋津で育った僕に。倶馬曾は敵だと教え込まれてきた僕に……」

「いいえ、お兄さまは倶馬曾の王ではありません。倭の王なのです。秋津も倶馬曾も、お兄さまのもの。あなたがこの国を救うのです」

「無理だ」


 風羽矢はヒミコを振り返って叫んだ。その拍子に、下げてあった御祝玉が胸を打った。阿依良に来てから、ずっとほの赤く光を放っている『玉』。その玉こそ、風羽矢の支えであり恐怖のすべてだった。それは絶えずささやきかけてくるのだ。『剣』の主が殺しにやってくる、きっと必ず来るよ、と。


「無理ではありませんわ」


 ヒミコは風羽矢の手をとった。


「秋津では穴穂皇子の子が日嗣として立ちました。あの子にできて、お兄さまにできない事がありますの? 正統な皇の血をひく、本物の倭の王はお兄さまですのに。倶馬曾の民は皆、真実を知っておりますわ」

「でも……」

「お兄さまは、倭の民をお見捨てになるのですか? このわたくしを?」


 哀しげに言ったヒミコに、風羽矢は何も言えなかった。


 平伏している人々の中で、時折り顔を上げてこちらをうかがう姿がちらほらあった。彼らは皆、切羽詰った表情で、救いを求めていた。風羽矢にこそ、それを求めていた。彼らの視線を切り捨てることなど、風羽矢にはできなかった。


 そして、妹であるヒミコを、こんなにも自分を慕ってくれる唯一の人でろう彼女の腕を、どうして振りほどけるだろう。


(稚武……助けてくれ)


 心で、自分でも知らぬ間に風羽矢は叫んでいた。しかし、まるでその声が聞こえたかのように、ヒミコが目元を厳しくする。


「お兄さま、どうか忘れないでくださいませ。ここのほかに、お兄さまに居場所がありますの? あなたは秋津の大王家にとって脅威であり、彼らはわたくしたちの敵であることを、今一度思い出してください」


 風羽矢は胸を一突きされた思いだった。


「……僕、は」


 ヒミコはさらに迷いなく言う。


「稚武のことなど、早くお忘れくださいな。あれは禍つ子です。お兄さまに『剣』の刃を向ける者です。……もう、知っておられるのでしょう?」


 ああ、そうだ、と風羽矢はぼんやり思った。


 あの嵐の夜のことを、忘れたわけではない。稚武が剣を輝かせて現われたことを。自分が久慈たちを焼き、稚武を射たことを……なかったことになどできない。もう、遅いのだ。


 まとまらない頭を抱え、風羽矢はふらりと段に向かって一歩踏み出した。


 ヒミコがにこりと微笑む。


「さぁ……お兄さま。わたくしを信じてください。あなたは救いです。玉座につき、さだめを果たしてくださいませ」


(さだめ……)


 ――立ち向かうしかない。


 困難に突き当たったとき、そう言って挑んでいくのが稚武だった、と風羽矢は思い出していた。

 彼なら、この状況でどうするだろう?


「立ち向かうしか、ない……」


 うつむいたまま、吐息だけでつぶやく。そして風羽矢は、一段一段、苦痛に耐えるようにのろのろと段を上った。だが実際は、上るにつれて胸の痛みを吐き捨てているような心地がしていた。もう何も考えず、しがらみを抜け出して、解放されたかった。


 この段を上らずに、どこに行けるというのだろう。だれが許してくれるというのだろう。もう二度と、稚武のもとには帰れないというのに。


 最後の段に上がり、風羽矢は倒れこむように玉座に崩れ落ちた。浅く腰掛け、背もたれに沈む。


 それまでひそかに王の姿を垣間見ていた段下の民が、一斉にさらに深くぬかずいた。新しく立った、倭の王に。


 ヒミコも頬を染めて微笑み、胸に手を当てて、静かに頭を下げた。


(間違っているのだろうか……僕は、ヒミコは。――けれど、僕にはもうここしか居場所がない)


 稚武の隣が自分の居場所でないことは、いつからか感じていた。いつか捨てられることは、分かっていたことなのだ。そして今、ついに稚武に捨てられた風羽矢は、ヒミコに拾われたのだった。


 石の玉座は冷たく、風羽矢は不思議と安心して目を閉じた。まるで、涙で腫れた目蓋をひんやりとした手で癒されるような心地よさだった。


 まどろんでいく瞼裏に、風羽矢はきらきらとした光の粒を見た。


(星……)


 これは夢だと思いながら、じっと見ていた。


 星が瞬いている。きらきら、きらきらと。


(満天の星だ。東の国で見たような……ううん、違う。――泊瀬の空だ)


 なんだ、ここは泊瀬なんだ。帰ってきたんだ。風羽矢はわずかに笑った。一方で、もう決して泊瀬に帰ることはできないと知っていた。


『風羽矢』


 隣で稚武が笑っている。そう、隣にはいつも、稚武がいるのだ。


『星を拾おうぜ、風羽矢』


 言って、稚武は足元の星屑を拾い始めた。二人が立っているのは夜空の中で、上も下もなく星があふれていた。


『ほら』


 稚武が星のかけらを差し出した。受け取った風羽矢は、手の平の中で輝くその破片を見つめた。


 きらきら、きらきら……


(破片だ……この星は、僕の破片だ)


 瞬く星は、砕けた風羽矢の心のかけらだった。


『よし、どっちがたくさん拾えるか勝負しようぜ』


 かがんで星の屑を集め始めた稚武の背中を、風羽矢は泣きながら見つめた。


(稚武……)


 僕にこんな夢を見る資格はない、と風羽矢は考えた。もう会えない。こんなふうに稚武が笑いかけてくれることなど、二度とないのだ。


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