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咲耶は一歩あとずさり、それからやっと気づいた。今は、朝ではなく、日の高い昼間のようだった。呼々と離れてから、何日目の昼だろう……。
そう思った瞬間、くらりと眩暈がして咲耶は倒れこんだ。
「おい、どうした。もしかして、腹がへっているのか」
びっくりしたような声は、どうも不自然に訛っていて聞き取りにくい。低くも高くもなく、なじみのない声音だ。どちらにしろ、陽里の娘たちのような華やかさのある声ではなかった。
「しかたないな。おいこら、ちび。飯なら少し分けてやるくらいあるから、ちょっと俺について来いよ」
そう言って立ち上がらせようと伸びてきた手を、咲耶はぴしゃりと跳ねのけた。
「あなた――男だわ」
「あぁ?」
弾かれた手をさすり、彼は眉根をきつくして不機嫌に言った。
「悪いが、今まで女に間違われたことは一度もないぞ」
まだぐらぐらとする頭を持ち上げ、咲耶は力を込めて彼をにらみつけた。だが視界はまだ暗く歪み、相手の顔もよく見えなかった。苦しい。
(男……どうして)
やっとだんだんと視界が明るさを取り戻してきた。立ちくらみをおこしていたようだ。
口を乾かせて息をする咲耶を、男はぱちくりとして覗き込んだ。
「気分が悪そうだな。平気か」
どうやら、咲耶が陽里の生き残りだとは夢にも思っていないらしい。
咲耶は目を凝らして男の顔を見た。――若い。充分、少年と呼べる年齢だろう。だがしかし、咲耶はそのような年頃の男などほとんど記憶になかったので、奇妙なものを見ているような気がしていた。
「立てるか?」
今度は手を差し伸べるだけで、彼は言った。
咲耶はずいぶん長くためらったが、とうとうその手を取って立ち上がった。というのは、彼がどこにも刺青をしていなかったからだった。どうも、残党狩りに精を出す阿依良の兵士ではなさそうなのだ。
(信用してはいけない)
分かってはいるが、だからといって逃げ出せる体力もなかった。いざとなったら手の懐剣だけが頼りだ。
「お前、どこから来たんだ。仲間とはぐれたのか」
胸に短剣を握り締め、明らかに警戒している咲耶にも、彼は気軽なさまで尋ねた。しかし、いくら待っても咲耶がじっと睨みつけているものだから、諦めたようにため息をついた。
「まぁ、いいさ。何か食えば口もきけるようになるだろう。話はその後だ。俺も、色々と聞きたいことがあるし」
「なに」
尋問のようなことを想像した咲耶は、顔色を変えて叫んだ。
彼はびっくりした顔を見せた後、苦笑を交えながらも愉快そうに笑った。
「実は、道に迷っているんだよ。都はずっと川を上ったところにあると聞いたからまっすぐ来たのに、こんな森に迷い込んでもう三日だ」
咲耶は慎重に訊ねた。
「都って……日向の宮に行くの? あなたは、どこから来た人?」
「ずっと東からだよ」
にやりとして男は答えた。
「お前なんかは、きっと行ったことがないだろうな」
「東……」
もちろん行った事などないだろう。咲耶は物心がついてから、陽里と陽巫女の宮にしか足をつけたことがないのだ。
ぼんやりとしている咲耶の顔色の悪さに、男は顔をしかめて言った。
「とにかく、話は飯を食ってからだ。ついて来い」
彼は、集めてきたらしいキノコや木の実がどっさりと入った袋を手に、咲耶を案内しようとした。そして一歩踏み出してから、はたと気づいたように振り向いた。
「ちび、お前、名前はなんていうんだ」
「……咲耶」
「は? ――サヤ?」
男が面食らったように聞き返してきたので、かえって咲耶の方が驚いてしまった。自分の名前はそんなに珍しいのだろうか。
「そう……よ。おかしい?」
恐る恐る訊ねると、彼は先に驚いたのを取り繕うような澄まし顔で言った。
「いいや、べつに」
「まさか、わたしのことを知っているの」
陽里の巫女の名を、外の者が知っているとは考えにくかった。けれど、あの穂尊には聞かれている。もしかしたら姫巫女を狩るために広めているのかもしれない。
咲耶の心配をよそに、男は正直なさまで言った。
「知らないよ。こっちのことなんて何一つ知らない。だから困っているんだというのに」
「そう」
ホッとして息をつき、咲耶は改めてその少年をまじまじと眺めた。
着ている衣は、咲耶も見たことのある首長たちが着ているものと、微妙に違っていた。白い生地は地味で、泥やら何やらで薄汚れていたが、もとの質はよさそうだ。腰には厚布で巻かれた剣らしき物を下げている。
女たちが好んでつけるような装飾品はほとんどなかったが、胸に小さな勾玉が揺れていた。薄紅色の、かわいい首飾りだ。
たった一つ、それだけを身につけているのを不思議に思って、咲耶は何となくその桜色の勾玉を見つめていた。それが、端からはどのように見えたのだろう。彼は慌てたように勾玉を隠すと、じろりと咲耶を見た。
「やらないぞ、これは」
「いらないわよ」
思わず咲耶も苦い顔をして返す。辺りを見回してから、さらにきつい眼差しで彼を見た。
「あなたは一人なの。一人で、日向に何をしに行くの」
「一人じゃない。連れがいて、今はお互い食料を拾い集めているところだ。これから野宿の準備をしなきゃならない。飯をやるから、お前も手伝え」
咲耶は懐剣を握り締め、こくりと頷いた。もう、このちっぽけな剣だけが咲耶を支えるすべてだった。
ずんずんと森の中を進む少年の背中に、咲耶は一度だけ声をかけた。
「……ねぇ、あなたの名前をまだ聞いていないわ。あなたにもあるんでしょう? 名前」
「とことん失礼な奴だな、お前は」
女に間違えられたらしいことを根に持っているのか、彼は難しげな顔だけで振り向いた。
「俺は稚武。連れは兄貴で、桐生というんだ」
しばらくついていくと、確かに木立の間に寝床をつくったようなところがあった。薄っぺらいむしろとも呼べないものが敷かれ、薪が山になっているだけであったが。
けれども、連れらしい人影はどこにもなかった。
「あれ、桐生兄、まだ戻ってないのか」
稚武と名乗った若者は、山の幸が入った麻袋を置くと、咲耶をむしろに座らせた。
「ちょっと探してくるから、お前はここで休んでな」
「待って。置いていかないで」
立ち去ろうとする彼に、咲耶は慌てて言った。
再び独りになるのは恐怖だった。いつまた阿依良の兵士に見つかるとも分からない。稚武についていっても何も変わらないかもしれないが、やはり孤独は恐ろしいものだった。
咲耶があまりに真剣な顔をしていたからだろう、稚武は弱ったような顔をしたが、仕方ないというふうに言った。
「じゃあついて来いよ。桐生兄もそんなに遠くへは行っていないだろうから」
桐生という兄の名を呼んで歩き回る稚武の後ろを、咲耶は押し黙ったままついて行った。正直言って、何かを言う気力も体力もとうに尽きていた。座り込んで休みたいのは山々だったが、またあの暗闇に置いてけぼりになると思うとゾッとする。とぼとぼとついて行くしかないのだった。
「桐生兄」
ふいに稚武の声が明るく弾んだ。どうやら兄を見つけたらしい。咲耶が顔を上げると、木立の影の向こうに背の高い青年の後ろ姿があった。稚武は笑顔で彼に駆け寄って行く。
「遅かったじゃないか、桐生兄。こんなところで何して――」
後ろから桐生の肩を叩いた稚武の声が途切れた。不思議に思いながら咲耶が歩み寄ると、突然稚武に目の前をふさがれた。
「見るな」
けれど、見えてしまった。桐生という若者が茫然と見下ろしていたのは、見るも無残な女の亡骸だった。すべての汚れを雨に流されて、嘘のように青白い肌。薄く開かれた、何も見ていない瞳が空を仰ぎ、宝玉のように美しい。
破り捨てられた衣はあちこちに散乱し、残酷な最期を知るのはたやすかった。
「……呼々」
咲耶の目に映った、変わり果てた彼女の姿。
大きく息を吸い込んだ瞬間、咲耶は稚武を押しのけて呼々にすがりよっていた。
「呼々ぉ!」
硬くなった彼女の顔を胸に抱き、もう一度名を呼ぶと、あとは慟哭だけだった。
冷たい屍に頬を寄せて泣き叫ぶ少女と、ただ立ち尽くすしかない若者たちの上に広がる空は、青い。青く青く晴れ渡り、汚れない魂が静かに溶けていくような空だった。




