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稚武たちはすぐに元気に動けるようになった。幸運にも大きな怪我などは負っておらず、体が衰弱していただけだったので、食べて眠ればもとの調子を取り戻すのは早かった。多少のあざは痛んだが、この三年間の都での修練でうけたものに比べれば可愛いものだ。
翌日から、彼らは松山たちについて漁を手伝った。といっても素もぐりであったから、役に立ったのは稚武の方だけだった。水嫌いの風羽矢は浅瀬で貝を拾うのにもおっかなびっくりで、兄貴肌の漁師たちによくからかわれた。
熟田津の人々の生活は質素であったが、よく蓄えがあり知恵があり、助け合って暮らしていた。「ユモリさま」と呼ばれる紅科を中心に、男衆の統率は松山が引き受けて、彼らは狩りと漁と機織りを中心に生活していた。
松山が言っていたとおり、熟田津は豊かだった。山が連なり、小さく区分された水田が段差に対応して続いている。平地が少ない土地柄での、頭を使った策だ。彼らの農耕技術は都以上に進んでいた。
日差しはもう夏の後ろ姿になっていた。熟田津に来てから、はやくも一月が経とうとしている。
港に帰る船の上で、稚武はとったばかりの牡蠣を生のまま口に放りこんだ。
「久慈たちは今頃どうしているだろう。俺たちがいなくなって、そのまま都に帰るわけにもいかないよな。せめて、俺たちが無事だということだけでも知らせられるといいんだけど」
「そうだね……」
甲板のすみで膝をかかえている風羽矢は、不安そうに顔を曇らせた。
「心配だよ、僕。師匠は責任感の強い人だから……間違って、死んで大王に詫びようなんて考えたりしないだろうか」
稚武も深刻な顔をして頷いた。
「でも、伊予にまで探しに来たということは、俺たちが死んでいないとわかっているのかもしれない。都にだって大巫女がいるのだし。……あの人は確か、神器の光が見えると言っていただろう。占えば、剣がここにあることぐらいわかるかもな」
「そっか」
風羽矢は目を丸くしつつ明るい声で言った。
「なら僕ら、黙ってここで待っていればいいんだね。なんで稚武は大人しく熟田津の人たちの言うことを聞いているんだろうと思っていたけれど、ちゃんと考えていたんだ、これからのこと」
「は? いや、今言ったことは、今思いついたことだよ」
「え」
風羽矢は片眉を歪め、心底がっくりした様子で言った。
「じゃあ稚武は、何も考えないでのん気に魚をとっていたのかい……。ううん、知っていたよ、君がそういう奴だってことは。――あーあ、どうするのさ、これから。まさか倶馬曾討伐を諦めて、ここに骨を埋める気じゃないだろうね」
「馬鹿なことを言うなよ、失礼な奴だな」
稚武はムッとして風羽矢の隣に腰を下ろした。それから、他の船員に聞こえないようにひそひそと話した。
「俺だって、いつまでもここにいるつもりじゃないさ」
「じゃあ、脱出するつもり? どうやって」
熟田津の衆には、気性がさっぱりとしていて人当たりのよい人が多かった。だが彼らは、笑顔を振りまきながらも少年たちを監視していた。二人は紅科の屋形に世話になっていたが、夜も不眠の見張りが垣根を取り囲んでいる。本気で軍には返さないつもりらしい。確かに、彼らの目をくぐって熟田津の外に出るのには骨が折れそうだった。
稚武は「いいや」と首を振った。
「逃げない。逃げたくない。認めさせるんだよ、ここのみんなに。秋津に味方することを」
「どうやってさ」
今度こそあきれ果てて風羽矢は顔をしかめた。
「初めの日に松山が言ったことを信じているんだね。だけど、そんなの無理に決まってるよ。君が強い男かどうかなんて、どうやって証明するっていうんだ。こうやって毎日、海にもぐっていればいいのかい。何年間?」
「焦るなって。……お前、熟田津が欲しいとは思わないか?」
しかめっ面のまま首をかしげた風羽矢に、稚武はにやっと笑って見せた。それはまったく、幼い頃の悪戯を思いついた時の彼と変わらない笑顔だった。
「俺はここが欲しい。――熟田津は豊かだ。海も山も、人もな。秋津国と倶馬曾、どちらにも頼らずにいられるというのは、物が豊かで、武力があるからだ」
稚武はさらに声量を落として、耳打ちするように言った。
「……どうやら熟田津の男たちは、漁に出るついでに、海賊じみたこともやっているみたいだ。他の船を襲って武具や財宝を略奪したりな。松山はその頭領なんだよ」
風羽矢はハッとして相棒を見、稚武は真面目な目で頷いた。
「だからって落ちぶれているわけじゃない。彼らの中にも正義はある……。ただ戦の絶えない今の世の中じゃ、そうして生き残るしかないんだろうな」
漁に出ているうちに、何度か伊予の他の地方の船と近づいたことがあった。そういう時、相手は逃げるように去っていくか、攻撃してくるかのどちらかなのだ。伊予の恥、出て行け、という罵倒の声も幾度となく届いた。
どうやら熟田津は、倶馬曾の血が混じっている「まつらわぬ者」の里として、周りの評から嫌悪されているらしかった。だからといって、倶馬曾と折り合いが良いわけでも決してない。彼らは孤独なのだった――秋津と倶馬曾が敵対している限り。
稚武は遠くの波間を眺めながら言った。
「松山たちには怒りがある。いつもは陽気だからよく見えないけど、目の奥でくすぶっているような怒りだ。差別を受けることへの奥歯を噛むような怒り、熟田津を焼いた秋津国と倶馬曾に対する底冷えするような怒り……俺はその怒りを預かりたい。そして、戦の終わりという形で返したいと思う」
熟田津の海と空は美しい。空が青ければ青いほど、海はその色を溶かしたように澄んでいるのだ。稚武はこの景色もまた気に入っていた。
彼は頬づえをついた。
「少なくとも松山たちに認めてもらえないようじゃ、陽巫女を懐柔することなんか到底無理だと思うんだよな。……このままじゃ埒が明かないことは分かっているんだけどー……」
「神器の玉と鏡のこともお忘れなく。こっちは秋津国の存亡がかかっているんだからね」
「そう、それなんだよな」
稚武は難しい顔をして腕を組み、ため息をついた。
「あんまりのんびりもしていられない。戦のことはともかく、神器の主は一刻も早く見つけ出さないとな……」
語る目が真剣みを帯びる。
「これは単なる俺の勘だけど。――俺たちの船が嵐にあったのは、他の神器の主の仕業じゃないかと思うんだ。剣が震えていたんだよ、危険を知らせるように」
風羽矢も真面目な顔で肩をつめた。
「神器のことに関して、君の勘ほど頼りになるものはないと思うよ。何て言ったって、君は剣の主なんだから。君がそう言うなら、きっとそうなんだ」
「……悪い……」
突然稚武が顔を暗くて謝ってきたので、風羽矢は驚いてしまった。
「何がだい」
「だから、たぶん、俺のせいなんだ……お前や桐生兄たちが危険な目に遭ったのは。同じ船に乗っていたばっかりに、関係ない奴まで巻き込んじまった。他の神器の主が俺を狙ってくるってことは分かっていたはずなのに。……ちゃんと守ってやれなくて、ごめん」
「そんなつもりで言ったんじゃないよ」
風羽矢は慌てた。
「稚武は何も悪くない。僕らは守ってもらうつもりで君についてきたんじゃないもの。自分の身くらい自分で守らなくっちゃね……今回のことはいい勉強になったよ。油断は禁物だ」
稚武の顔色をうかがいながら、励ますように風羽矢は言った。
「悪いのは玉や鏡の主、禍の主って奴さ。たぶん化け物みたいな奴に違いないよ。秋津を滅ぼすために生まれてきたっていうくらいだからね。――ほら、君だって見ただろう。あの嵐の朝、海から出てきた変な化け物。真っ赤な目をした、蛇みたいな竜みたいな奴をさ。もしかしたら、あれがその主なんじゃないかな」
「……ああ、そうかもしれない」
稚武は気を取り直したように風羽矢に向き直った。
「だとしたら、あの白い鹿は? あいつは何のために現われたのだと思う?」
「さあ……、僕には分からないよ。危険を知らせるために来たようにも思えるし、逆にあの鹿が禍を持ってきたようにも思える。敵か味方か、さっぱり見当もつかない」
「悪い奴には思えなかったんだけどな……。でも、単純に幸福をもたらす獣ってわけじゃないみたいだ。やっぱり神の使いか何かなのかもしれない」
ここで稚武が言った『神』とは、国つ神の方のことだった。倭が天つ神の御子――大王家に統治されるようになり、上代から遠く時が隔たれた今の世でも、八百万の神は絶えていなかった。国つ荒ぶる神々はまだそこかしこに息づき、人々から畏れられ、土地に祀られていた。
そして国つ神というのは、地上の人々をきわめて平等に慈しみ、平等にむごい仕打ちをするものなのだった。彼らは時として穏やかな自然の恵みであり、反面、無作為に人々を殺す残忍な宇宙の摂理そのものなのだ。
あの銀の鹿は国つ神の化身であったのかもしれない、と稚武は考えた。それがもたらすものは幸福や不幸といったものではなく、純粋な宿命。一片の感情もない、自然の導き。国つ神の使いはただ、音のないさだめを運んできただけなのだろう。それが幸か不幸かは関係なく、宿命のままに。
「そうだ」
風羽矢は思いついたように顔を上げた。
「紅科に占ってもらったらどうかな。彼女は君が剣の主だということも見抜いただろう。だったら、他の神器の主のことも分かるんじゃない?」
「あっ、そうか。なるほど」
感心したように目を丸くし、稚武は頷いた。その後、彼は苦い顔をして息をついた。牡蠣はまだ旬には早く、旨くなかった。
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