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15

       

 稚武わかたけは夢を見ていた。ごうごうとした嵐の音を聞いたときに、またか、とうんざりとした気分になった。また、この嵐の海の夢なのか。


 海に臨む崖に立ち、男の腕に抱かれた女は微笑んだ。


『やっと…旅立ってゆけるのですね。やっと』

『そうだとも』


 男は言う。だが、風の音が耳をふさいでほとんど聞き取れなかった。


『行こう、二人で……約束しよう……そうしてやっと…』 


(いつもこうだ。……それから、ここで、軍隊が来るんだ)


 稚武が思ったとおり、森を抜けて見事な鬣の黒馬に乗った青年が躍り出た。顔は墨で黒く塗りつぶされたように暗く、ちっとも見えなかった。


 青年は馬上から何かを叫んだが、それも暴雨にかき消された。やがて、後ろから続々と兵士たちが追いついてくる。


 それから先はもう何がなんだか分からなかった。稚武の意識は嵐に巻き込まれてぐちゃぐちゃになり、強く揺さぶられてひどく気持ち悪かった。


 吐き気さえ覚えたころに、崖の上にいた男女が海へ飛び降りた。


(ああ……)


 夢の中で、彼らは何度も心中を繰り返す。夢を見たことさえ忘れたころになって、ふっと黄泉還よみがえり、そしてまた波の下に旅立つ。


 登場人物の顔は一切見えない。


 彼らは何者なのか、なぜ兵に追われて海に身を投げるのか。そして、なぜこうしてたびたび自分の夢に降り立つのか……稚武には何一つ分からなかった。


 ぱちりと目を開けると、世界は薄暗かった。それから稚武は、ここが船内であり、揺さぶれているのは夢の中の錯覚ではなくて、現実に船が波に揺れているのだということを思い出した。


(あの夢を見たの、久しぶりだったな……)


 そのうち大巫女に夢占をしてもらおうかとも思っていたのだが、果たさぬままに海に出てきてしまった。


 難波津なにわづの港を出てはや数十日。船は速吸はやすい海峡を越え、先日は吉備の高島にある仮宮に無事たどり着いた。


 次に目指す港は安芸の多祁理たけり、さらに周防、長門と、かの神武帝が大和を訪れた路を逆行している順路だ。航海は順調で、吉備の軍も加わってさらに大規模な軍団となっていた。


 稚武は寝具の中で大きく伸びをし、もう起きようか二度寝しようか迷っていた。そのとき、前触れもなく隣の寝具がばさっと跳ね上がった。


風羽矢かざはや?」


 上半身を起こしたまま肩を上下させている風羽矢は、背中まで汗で濡らしていた。真夏とはいえ、今朝はそんなに暑くない……ということは、まさか冷や汗だろうか。


「おい、どうした」


 稚武は起き上がって風羽矢の肩をひいた。風羽矢は瞠目したまま稚武を見る。その顔は青く、おびえているようだった。


「まさか具合でも悪いのか」

「……ううん」


 風羽矢は息を整えながら首を振った。


「違うよ、何でもない。ちょっと、怖い夢を見たんだよ」

「夢? ……それって、どんな。もしかして、男と女が海に飛び込んだりするか?」


 訊ねずにはいられなかった。まさかとも思ったが、きっとそうだろうと半ば確信していた。


 しかし、風羽矢は期待を裏切って首をかしげた。


「え、なんだい? それ。――違うよ、僕が見たのは……僕が蛇になっちゃう夢」

「は? ……なんだそりゃ」

「あー怖かった。手や体に黒いうろこができて、足がくっついて、僕は蛇になるんだよ。すごく大きな蛇」

「……はぁ」


 稚武は気が抜けて顔を崩した。風羽矢ももう落ち着いたのか、一、二度伸びをして寝台から下りた。


「僕、気分転換に甲板に行ってくる」

「俺も行くよ」


 稚武は普段寝起きが悪い男なのだが、今朝はもう眠る気になれそうもなかったので、ここは風羽矢に付き合うことにした。


 早朝の海は、波こそ穏やかだったものの、空は鈍い色の雲で覆われていた。どんよりとした重く暑苦しい空気に、稚武はおもわず顔をしかめる。



「あっちゃあ、今日は天気が荒れそうだな」

「うん、大したことないといいけど」


 甲板には人影が少なく、わずかに見張り番の者がいるだけだった。


 二人は海を眺めながら、今日の予定などを話していた。それから次第に話がそれ、桐生の子供は女か男か、どっちに似るかというような話題で白熱してきたところだった。


 稚武ははっきりとその音を聞いた。


 ――リン。


 ハッとして曇天の空を見上げる。


「どうかした、稚武」


 つられるように風羽矢も空を仰いだ。そして、曇った天の中心で何かが白く輝いているのを見つけた。


 二人が息を呑むうちに、その光は輝きを増して流れ星のように目の前に降り立った。


「お前――」


 光は鹿だった。白銀の毛並みをもつ、凛とした瞳の、あの牝鹿だった。彼女はじっと少年たちを見つめ、ぴくっと耳を動かした。


 リン。


 稚武の腰元で草薙剣くさなぎのつるぎが鳴る。剣が震えている――稚武がそう感じた、その瞬間だった。いきなり、船が大きく傾いた。


「うわあぁっ」


 傾いたという程度のものではなかった。危うくひっくり返るところだったのだ。二人は倒れ伏し、甲板の上を玉のように転がった。


 あたりはいつの間にか暗く濃い霧に包まれて、見えるのは襲い来る高波ばかりだった。見る間に船の上は水浸しになり、少年たちは必死に柱にすがりついていた。気をぬけば海に放り出されるのは必至だった。


「おい、大丈夫か、風羽矢」

「うん!」


 風羽矢は高波と暴風にかき消されないように叫んで答えた。


 牝鹿は平然として甲板に立っていた。淡く白い光を放ちながら、一歩も動かずに少年たちを見つめている。


 嵐の中、船の戸が開いた。中から顔を出したのは桐生きりゅうだった。彼は今にも飛ばされそうな少年たちを見つけると、誰が何を言う暇もなく飛び出してきた。


「何をしているんだ、お前ら」

「馬鹿、桐生兄--」


 勇敢な兵士に続くべく、次々と他の兵士までもが甲板に出てきた。稚武が怒鳴る。


「あほんだら、出て来るな」

「そういうわけにもいかないんだよ」


 桐生はしゃがみこみ、高波に呑まれながら叫んだ。


「底から浸水してる。沈むぞ」

「なんだって」


 脱出しなければ、と稚武は即座に思った。だが濃霧のために、すぐ近くにあるはずの他の船さえ見当たらない。


 そうして見回しているうちに、銀の牝鹿が忽然と姿を消しているのに気づいた。


(なんなんだ、ちくしょう……っ)


 白い鹿は瑞獣ではなかったのか。この常識を超えた突然の嵐はどうしたというのだ。これでは、まるで…


 ……リン。


 剣が鳴る。何かに呼応して。


(……そうだ。この事態はまるで、神器の『わざわい』のようだ――)


 稚武は柱につかまりながらそう考えた。


 ――かつて宮で大王おおきみは言った。禍の主はつるぎの主である稚武を殺そうとする、殺らなれば殺られてしまう、と。


(近くまで来てるっていうのか。鏡か、玉の主が)


 稚武が顔を厳しくしたと同時に、船体がいっそう大きく揺れた。一瞬、船ごと空に投げ出されたかと思ったが、浮いたのは体だった。稚武は衝撃で柱から手を滑らせ、空を飛んでへさきの方へ叩きつけられた。


「が、あ……っ」


 痛みのあまり意識が遠のいたが、何とか引き戻す。うつ伏せに倒れたまま顔を上げて、稚武は我が目を疑った。


 海が山のように盛り上がり、水が意思を持ったかのように何かを形どろうとしているのだ。竜巻のように天に昇る水柱は、とぐろを巻いてうごめき、きょろりとした赤い目を光らせる。それは、巨大な蛇のように見えた。


 ――キタ。


 地を這うような低い声だった。


 船の上に出ていた人々は目を剥いてその大蛇を見つめ、絶望していた。


 ――キタ。アァ、ワタシノ……


 突風が吹き、船は笹舟のようにあっけなく横倒しになった。兵士たちは悲鳴とともに黒い海に吸い込まれていく。


 稚武は甲板を滑り、ちょうど柱に引っかかって船体につなぎとめられた。上も下も、どちらが海で空なのかさえ分からなくなっていた彼の耳に、その声だけははっきりと届いた。


「稚武!」


 今まさに海に転がり落ちようとしている風羽矢の声だった。稚武はもう何もかもを放り出して、ただ風羽矢が必死に伸ばしている腕を掴むために、飛んだ。


「風羽矢……ッ」


 稚武の手は風羽矢の手に届いた。互いに掴んだと思った瞬間に、赤い光が弾けた。


 そして何もかも、暗い海の奔流に呑み込まれていった。 




    *       *




「こっちですか?」


 女は片手で長い髪をかき上げながら訊ねた。


 だが、後についてくる者も、先を案内する者もない。朝陽が映し出す影は一人の若い女、そして背に負ぶわれた赤ん坊のものだけだ。


 彼女はごつごつとした岩場を飛び歩き、巨大な岩壁に上がって砂浜に飛び降りた。


「……アラ、本当にいた」

 突き抜けるような青い空の下で、女は笑ってつぶやく。


「まさか、死体じゃありませんよね」


 空と海とが遥かに広がる。波は穏やかにさざなみを揺らす。そのようなさわやかな朝の砂浜で、二人の少年が気を失って倒れ伏していた。

第2章、ここまで。

毎日17時更新です。

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