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 東宮はるのみやの殿に戻ってきた稚武わかたけ風羽矢かざはやは、一直線に寝室に向かった。


 風羽矢はぐったりとした稚武を寝台に横にさせると、とにかく熱を下げることに心をつくした。女中に頼んで桶に水をはり、浴布を濡らして彼の額に当てる。だがそうしてしまうと、もう他に何をしていいのかわからなかった。


 

 なおも苦しそうに顔を歪ませてうなる稚武に、風羽矢は眉を下げて訊ねた。


「大丈夫、稚武……。どこが苦しい? 痛い? 何かして欲しいこと、あるかい」

「……ないよ」


 稚武が何に苦しんでいるか、風羽矢は全く気づいていなかった。

「ごめん、稚武。僕がちゃんと止めればよかったんだ。もっと早く気づけばよかった。ごめん……」


 それから風羽矢はハッとして立ち上がった。


「僕、医師くすしを呼んでくる」

「いらない……っ」


 慌てて稚武が腕を掴んで引き止める。風羽矢はびっくりして眉を曇らせた。


「どうしてさ」  

「…いいから、いらないんだ。熱はそのうち引くよ。たいした事はない、酔っ払ってるようなもんだ」

「だって…じゃあ、このままほっとけって言うの」


 稚武はきつく眉根を寄せてしばらく黙り込んだ。言おうか言うまいかずいぶん悩んでから、辛さに耐えかねて口にした。


「…悪い。独りになりたいんだ」


 言って、風羽矢の腕を離す。


「少しの間、外に出ていてくれないか」


 風羽矢は声をなくした。何を言われているのか、すぐには理解できなかった。


「そんなの――駄目だよ。だって君、こんなに顔を真っ赤にしているのに。独りになんかできるわけないだろう」

「平気だよ」

「でも」

「いいから出ていってくれ!」


 思わず稚武は声を荒げた。だが次の瞬間に後悔する。風羽矢の、置いていかれた子供のような顔を見て。


「悪い」


 稚武はすぐに謝った。


「苛立っているだけなんだ。こんなふうに、お前に八つ当たりしちまう。だから、落ち着くまで独りでいたいんだよ。本当に悪い……」


 風羽矢は承知するしかなかった。


「じゃあ、僕、師匠のところへ行っているね。夜には帰ってくるから……ゆっくり休んで」


 暗い顔で立ち去ろうとする風羽矢を、稚武は呼び止めた。


「この殿には誰も近づくなと言っておいてくれないか。特に、女は……」


 うん、と風羽矢はしっかりと頷いた。


「わかったよ。うるさくしないようにと言っておく。気分が悪いときに女の子の高い声は辛いもんね」


 稚武は目を閉じた。


「悪い……風羽矢。お前が邪魔なわけじゃないんだ、本当に」

「……うん、大丈夫」


 気丈な声音だったが、少し小さかった。くらくらする意識の向こうで、風羽矢の足音がパタパタと遠ざかっていく。彼を走り去らせてしまったことを、稚武は深く深く悔いていた。


 今ほど情けないと思ったことはなかった。


(馬鹿だ……なんて馬鹿なんだ、俺は)


 簡単に罠にかかって、大王おおきみに迷惑をかけて、あげくに風羽矢を傷つけた。


(皇子みこ失格だ…)


 日嗣ひつぎの皇子ともてはやされ、あずまからの凱旋を果たして、いい気になっていた、と稚武は自分に認めた。悔しいやら情けないやらで、彼は浴布をずらして目元に当てると、その上を両手で覆った。


 全身が熱い。頬が火照り、頭は熱に浮かされて、気を抜けば思考を奪われそうになる。そして、体はいっそ理性を失うことを求めている――


(あ~~…ちくしょう、けったくそ悪い薬かがせやがって…)


 心底忌々しい、と稚武は舌打ちした。


 苦しいと思うのは、我慢しているからだ。自分を解放すれば、この熱は悦びとなって稚武を満たすに違いない。


 稚武も、今まで行動する気が起こらなかっただけで、男が女を求める生き物だということはもう知っていた。そして今、自分がそれを求めていることも分かっている。さらに、口に出して「欲しい」と望めば簡単に叶うだろうとも承知していた。


 だが、望みたくない。今それをしては、何かに負けたことになる気がする。それは中菱姫にかもしれないし、本能というやつにかもしれなかった。とにかく、ここで負ければもう一生自分を誇れなくなるだろう。


 稚武は、愚かな自分をこれ以上愚かな男にしたくなかった。あさましい自分に負けたくなかった。


(しばらく眠っていれば、元に戻るかもしれない……)


 酔っているという表現はあながち間違いではないだろう。この熱をさらってくれるのは、女の肌か、そうでなければやはり時間しかない。


 稚武はどうにか息を落ち着けて、少しずつ体から力を抜いていった。


 閉じたまぶたの裏に、ちらちらと白い光が舞う。その光はやがて広がり、覆って、稚武の意識を真白にした。熱のせいだろう。


 ――リン……。稚武は不思議な音を聞いた。


(鈴の音……?)


 真白な世界で、稚武は体の感覚をなくして漂っていた。ああ、やはり酔っているのだ、と思った。それはちょうど、酔いつぶれて混濁した意識の中をさまよっているときに似ていた。


 しかし、全身を支配しようとする激情の波に襲われるのは初めてのことで、眠りと覚醒の狭間に落ちた彼は抗う術を忘れてしまった。


(熱い……誰、か)


 この熱を冷ましてほしい。


 稚武は救いを求めて、白い世界に片腕を伸ばそうとした。だが、誰もいない。手は空振り、むなしく空を切るだけだ。


 しかし、それでいい、と安堵する稚武もいた。もし女性の手を掴んでしまったら、自分は本当に留め金がはずれてしまうかもしれない、と。


 リン。


 鈴の音が響く。どこで鳴っているのだろう、と稚武は訝しんだ。白い光のこの世界の、まるで内側に響くような不思議な音だった。


 リン…


(――…つるぎだ)


 思い出すように稚武は思った。草薙剣くさなぎのつるぎが鳴っているのだ。いつも腰元にあり、自分に宿っている神器。


 今、俺は本当にあの剣と一つになっている…


 その奇妙な感覚を、おぼろな意識の彼は不思議とも思わずに受け入れていた。ここは剣の「中」なのだと、ちゃんと知っていたのになぜ忘れていたのだろうとさえ思った。


 リン…リン…リン。


 稚武は静かにその響きの中で揺れていた。だが癒しを求める手は伸ばしたままだ。白い世界には鈴の音しかなく、稚武はそうして熱が過ぎ去るのを待つしかない――はずだった。


 ふいに、ひんやりとしたものが稚武の熱い指先に触れた。誰かが両手で、彼のさまよう手を包み込んだのだ。柔らかく、細い手。


 女の手だ、と稚武はすぐに分かった。


(母様……五十鈴姉?)


 呼びかけたつもりが、声にはならなかった。視界はやはり真白いままで、誰も何も見えなかった。けれど、これは真鶴や五十鈴の手ではない、となんとなく感じた。

 では、誰だ……。女性に触れたことで、おさまりかけていた熱情は再び呼び起こされてしまった。


(くそ……っ)


 この手を引いて、抱きすくめれば。このうっとうしい熱から解放されるに違いない。無理やりにでもこの女を押さえ込んで、理性を手放してしまえば。それだけで、たったそれだけで、彩雲を見られるに違いない…。


 稚武は声もなく葛藤していた。


 そのうちに、稚武の手を包んだ手のうちの片方が離れ、彼の額に控えめに触れた。熱した彼の肌に、その手はひどく心地よかった。やさしく熱をさらっていってくれた。そうして、稚武は胸の激情が薄らいでいくのを感じた。


 その手が与えてくれたのは焦げるような悦楽ではなく、穏やかな癒しだった。


 誰なのだろう、と稚武は救われる思いのうちに考えていた。その正体も分からないのに、不思議と安心する。ずっとこうしていたいとさえ思って、稚武は彼女の手を握った。手は驚いたようだったが、応えるようにそっと握り返してきた。


 リン…。ああ、剣が鳴っている。


 そのとき、稚武は急に考えた。


(……剣が、鳴っている? まるで……何かに惹かれるように。求めるように)


 神器の剣が求めるもの――それは。


「――『鞘』」


 ハッと稚武は目を開いた。しかし、目の前にあったのは見慣れた光景、寝台の上の天井だけだ。


 それは紛れもなく現実で、部屋には稚武しかいなかった。癒しの手を与えてくれた女性の姿などは影もない。


 自分は剣から帰ってきたのだ、と稚武は考えた。今のがただの夢だとはとても思えなかった。耳にはまだ、剣の鈴の音がはっきりと残っている。


 稚武は急いで寝台から下り、戸口から飛び出た。『鞘』がまだ近くにいるかもしれないと考えたのだ。


 だが外は既に真っ暗で、雨が静かに降っていた。春とはいえ、夜の雨は冷たい。勢いで庭に出た稚武は雨に濡れ、頭を冷やされて足を止めた。


(……『鞘』は、ここにはいない)


 唐突にそう思った。もちろん、先ほどのことは夢なんかではない。剣を介して、つかの間だけ鞘に近づいたのだ。


 そう、夢でなければ、現実でもないのだった。稚武が回復したのと同時に、鞘はまた向こう側に遠退いていったのだ。


 雨夜の闇の中で突っ立ったまま、稚武はうつむいた。なんだか気持ちが沈んでしまっていた。


「……稚武?」


 自信のないような声が、そっと稚武を呼んだ。驚いて振り返ると、戸口の壁際に少年が膝を抱えて座り込んでいた。


「風羽矢」


 瞬いて駆け寄ると、風羽矢はほっとしたような顔をして立ち上がった。


「稚武……」

「何をしているんだよ、こんなところで。お前、師匠のところへ行ったんじゃなかったのか」

「ううん……ごめんね」


 風羽矢は眉を下げ、すこし照れたように首を振った。


「だって、どうしても君を独りにはできなかったんだよ。悪いとは思ったけど……」

「まさか、ずっとそこに座り込んでたのか」


 うん、と風羽矢は頷いた。稚武はもう声も出せず、まじまじと相棒の顔を見つめた。


 風羽矢の顔からは色がうせ、屋根のおかげで雨には濡れていなかったものの、長く夜風にさらされていた体は冷えきってしまっていた。


「馬鹿やろう」


 突然爆発して稚武は怒鳴った。


「なんでお前がそこまでするんだよ、悪いのは俺だろ。お前は怒ったっていいはずだろう。馬鹿やろう、馬鹿やろう」


 稚武が本当に罵りたいのは自分だった。なんて事をしたのだろう。風羽矢が自分を一人きりにさせるはずがなかった。いくら突き放されても、彼が稚武を一人ぼっちにするはずがなかった。風羽矢は、傷つきながら、それでも稚武を置いていかなかったのだ。


「……悪かった。ごめん、風羽矢」


 声を落として、稚武は彼に謝った。風羽矢は目をぱちくりさせ、それから「どうして?」と微笑んだ。


「謝らなくていいんだよ。誰にだって独りになりたいときはあるんだから…僕が勝手にここにいただけなんだから。稚武が気に病むことじゃないよ」

「そんなわけにいくか。こんなに冷たくなって」

「君だってびしょ濡れだよ。突然飛び出してくるんだもの、びっくりした。何かあったの?」


 確かに、稚武は全身が雨に濡れてしまっていた。鞘のことを話そうかと思ったが、どうにも説明しにくかったので、つい「変な夢を見て」と言ってごまかしてしまった。


 風羽矢は納得したらしく追及してこなかった。


「そっか。…それで、具合はどう? 少しは落ち着いた?」

「おう、すっきりした」


 聞かれてみて初めて気づいたが、稚武の体はもういつもの彼に戻っていた。


 良かった、と風羽矢は嬉しそうに笑った。


「うん、顔色もいいみたい。……でも、早く着替えないと。濡れたままじゃ今度は風邪をひくよ」


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