10
夜半過ぎ。風の音だけが聞こえるほの暗い部屋で、大王は天蓋のかかった寝台の上で半身を起こし、うなだれていた。すぐ傍らには久慈がひざまずいている。
灯台の小さな火の灯りにうつしだされる久慈の表情は、深く沈んでいた。
大王は両手で顔を覆い、か細い声で言った。
「……まさか、宮古が泊瀬の者だったとは。わたしは宮古について何も知らなかった。彼女は自分のことを何も話してはくれなかった……。これも因縁だというのか。宮古が生んだ子さえ……宮古が生んだ子さえ、呪われてしまった」
それは悲痛な叫びのようだった。
「宮古が生んだ子を、大王家のさだめに巻き込むべきではなかった。あの子はここに来るべきではなかった……」
久慈は奥歯を噛んだ。
「申し訳ありません。わたしとしたことが、なぜ母親について詳しく聞くことを失念してしまったのか……。宮古殿のお子と知っていれば、試煉の前にそうとお伝えできたものを」
「お前を責めているわけではない。……全ては呪いなのだ。あの子も、その血ゆえに逃れられなかったのか……。わたしが守るべきであったのに」
そこまで言って、大王はハッとした。
「宮古はそれを知っていて、ここから去ったのだろうか。あの子を守るために」
久慈は悲嘆にくれて首を振った。
「何とも申し上げられません」
「……そうだな。どちらにしろ、宮古はわたしのもとを去っていっただろう」
大王は顔の前で手を組み、眉根をきつく寄せた。
「呪いを受けるべきはわたしだけのはずだった。兄上も、従兄弟も甥も……全て殺してきたのはわたしだ」
「あなたのせいではない」
久慈は強く言った。
「あやつらはあなたを弑逆し、玉座を奪おうとしおったのです。殺されてもしかたのないことをした。あなたが悔やむことではありません」
「わたしは大王になりたいわけではなかったのだ。……昔は楽しかった。あの頃は宮古がいて、兄上がいて……。父上もまだお元気であったな。――何を間違えてしまったのだろう。なぜ、わたしは大王などになってしまったのだろう……」
大王の瞳がわずかに潤んだ。
「今も夢に見る。兄上の死際を……わたしへの呪いの言葉を。いつも明るく親しかった兄上が、本気でわたしを呪っていた。わたしは兄上が大好きだったのに……だが、兄上を殺したのはわたしだ」
「薙茅様は禁忌を犯されたのです――皇太子にあるまじき罪を。前代の大王……お父上様があなたに薙茅様の追捕をお申し付けなさったのは、正しいことです。それに、あの者らは自ら命を絶ったのではないですか。あなたが負い目に感じることはありません」
「兄上たちをそこまで追い詰めたのはわたしだ。わたしが殺したも同然だ」
久慈は眉を曇らせた。
――大王はどんどん自分をおとしめていく。久慈が何を言っても、やはり彼の心は少しも癒えないのだ。
大王は夢に囚われたように言った。
「なぁ、覚えているか、久慈……。兄上が最期に歌った歌を。飛七への愛と、皇への呪いを込めたあの歌を」
「……いえ、あれは凄まじき嵐の夜のことでしたから、この久慈の耳にはよく聞こえませんでした」
面目ないという風に久慈は答えた。
「そうか……そうであろうな。ああ、わたしもそうであった。だが、今になってな、ありありとこの耳に蘇ってきたのだよ、兄上の呪いの言葉が。まぶたを閉じると聞こえてくるのだ、はっきりと」
言い、大王はじっと目を瞑ってその言霊を聞いた。久慈が息を呑みながらしばらく待った後、ゆるりと瞬いて大王は言った。
「兄上はあの時、泊瀬を歌っておられた。隠り処の泊瀬、と。……あの子が泊瀬から来たのは、やはりさだめだったのかも知れぬ…」
久慈は目を剥いて顔を強張らせる。大王はそれにはかまわず、重く息をついた。
「何にせよ、あの子は草薙剣に触れてしまった。そして大蛇に喰われてしまった……呪いを受けたのだ、大王家の生き残りとして。眠っていた大蛇はわたしを離れて大泊瀬に宿った。今や呪いの標となる、病んだ大蛇がな。……呪いゆえに、我ら皇は殺し合った。そして最後に残ったわたしが死んで、この秋津国は滅びるはずであったのに。そうして呪いは終わるはずであったのに」
「皇子はこの国の最後の希望です」
久慈は励ますように言った。だが、大王はにこりとも笑わなかった。
「最後の希望か。――それでもわたしは、宮古が生んだ子を大王家の呪われたさだめに巻き込みたくなかった」
「穴穂」
久慈はつい大王を実名で呼んでしまった。昔のように。大王は嫌な顔はしなかった。
「わかっている。もう後戻りはできない。……わたしも、大泊瀬も」
彼は燃えるような瞳で言った。
「大泊瀬を呪いの犠牲にはさせぬ。宮古が生んだ子を死なせるわけにはいかないのだ。――そのためには、呪いを解くしかない。倶馬曾を攻め、かの国に渡った鏡と玉を破壊する。この秋津国のために」
「はっ、必ずや」
久慈は深く頭を下げた。
何も言わず、大王は灯りを映していた瞳を閉じた。
(……宮古……そなたは、この道を選んだわたしを許さないだろうか)
だが、今は、隠り処から見出された最後の皇子に真実を明かすことはできない。
(あの子が草薙剣を振るい、自らにかかった呪いを断ち切る時まで。やがて訪れる、その瞬間までは……)
たとえ、卑怯と罵られて刃を向けられることになるとしても。
明け方近くなって、風羽矢はふっと目を覚ました。隣の稚武はまだぐうすかと眠っている。
寝起きの良い風羽矢は、むくりと体を起こしてそっと寝床を出た。そして懐から御祝玉を取り出すと、恐る恐る、稚武の枕もとの草薙剣にかざしてみた。
確かめたかったのだ、あの時の赤い光の正体を。神器は互いに共鳴するという――まさかとは思うが。
だが結局、剣の上にかざした玉には何も起こらなかった。振ったり念じたり、しまいには直接刃と玉を触れさせてみたりもしたが、うんともすんとも言わない。
(――そうだよね。どう見たって、この御祝玉はただの石ころだもの)
ほっとする反面、ちょっぴり残念にも思えた。しかし安堵のほうがずっと大きかった。
そのとき、稚武がわずかにうなった。彼は悪夢を見ていた。
嵐の中で男女が兵に追われ、最後には崖から海に身を投げるという夢だった。
翌日。全く突然であったものの、『隠り処』より見出された新しい日嗣の皇子の登場に、大倭豊秋津の国は大いに湧いた。長い皇太子不在に不安を感じていた者は多く、それを払拭していくように大泊瀬皇子の名は国中に広まっていった。
かくして衆目にさらされることとなった稚武は、だが上ずることはなかった。彼はもともと帝王になってやろうという野望の持ち主で、注目を浴びることに何の抵抗もない男であったのだ。人前でも、風羽矢と二人きりのときでも、稚武は常に上機嫌で堂々としていた。
ただし、大王と話すときにわずかにはにかむのと、女性からの黄色い声に冷めた目を返すとき以外は。
そんな彼を、風羽矢は頼もしく思いながら見守っていた。
第1章、ここまで。
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