蟲と生きよ
ちょっと虫が出てきます。苦手な方はご注意を。とはいえ、毛虫とかではないのでその点はご安心を。
虫がいる。
何てことはない、普通の、何処にでもいる、ありふれた――虫だ。その虫は小さな翅で以って、無遠慮に飛んでいた。
▽
小説家が何よりも恐怖するのは、〆切である。と、小説家である彼は考えていた。
今、彼は明日が〆切の原稿に、必死の思いで噛り付いていた。書いても書いても、まだ原稿は空白だらけ。無限に頁が増殖しているように思われる。
徹夜を繰り返した頭の中は、最早真っ白と言っても過言ではない。しかし、不思議と文字は紡がれていく。まるで自分の手が勝手に意志を持ち、小説を編んでいるようだった。
「……」
室内には彼一人。
照明は敢えて落としており、デスク上の電気スタンドとPCモニタの灯りだけが、世界から闇を拭っている。小説家の瞳には、絶えず文字が躍っている。
そのとき、ふと、小説家の集中が乱れた。
こういうことはよくあることだ。集中が切れるのは、何時だって唐突なのである。
「ちょっと休憩するか」
小説家は座りつつも、大きく伸びをした。立ち上がり、底に汚れの残ったままのコーヒーカップに、泥のような色のコーヒーを注いでいく。
「この調子でいけば、明日には間に合いそうだ」
独り言は尽きない。最近スランプ気味の小説家は、心の底で燻る不安感から、つい言葉を発して気を紛らわせようとしてしまうのだ。
小説家は椅子に座り直し、一口苦い液体を口に含むと、原稿へと挑んだ。
▽
原稿は不自然な程によく進む。
スランプを脱出したかもしれないな、と小説家は大いに喜んだ。
だが、喜びもつかの間。小説家は些細な妨害を受けた。……虫だ。
虫が飛んでいる。
羽虫は光を求める傾向にある。この執筆部屋の灯りは、デスク付近にしかない。虫が寄ってくるのは、半ば自然の摂理であった。
「ちっ、邪魔だ」
小説家は軽く手を振るい、虫を追いやる。けれど、虫はまたすぐにやってくる。
小説家は殺生を好かない。一寸の虫にも五分の魂とも言う。自分のような人間が、命を奪う権利などないと、彼は思っていたのだ。
やがて小説家は振り払うことを止め、小説に向き合うことにした。折角、スランプの闇に一筋の光明が見えたのだ。ここで止まっているのは惜しい。
無心でキーボードを叩く。
と、そこに虫が現れた。虫は無遠慮に小説家の腕に乗ると、夥しい数の脚を蠢かせ、這い始めた。
小説家はそもそも虫を好かない。腕を這う虫の脚の感触に不快を覚え、軽く腕の上を払った。
そのとき、小説家は明らかに加減を間違えた。手は虫を払うことなく、すり潰すようにして轢き殺してしまった。
腕の上に、虫の死骸と体液、臓物が散る。抜け落ちた翅が床へと落ちていく。
「ちっ。汚ねえなあ。まあ、今はそれより……」
原稿だ、と小説家はPCに向き直った。
▽
小説家が目に違和感を覚え始めたのは、虫を殺してからすぐのことだった。先程までは好調だったタイピングが、妙に捗らない。
「ちょっと読み直すか」
筆が止まったときは、少し前に書いた箇所を読み直すと良い。これは小説家が長年の経験から培った方法だ。しかし、
「うわあ」
小説家は思わず呻いた。
PCの画面上に、無数の羽虫が這っていたからだ。
「なんだこれ、なんだよ」
怖気と気持ち悪さが背筋を撫でる。気付けば、小説家はPCモニタを手で払っていた。が、虫はそこにいなかった。
よく見れば、PCモニタには虫など一匹もいない。あるのは細かい文字たちだけだ。
小説家は小さな文字群を、羽虫の大群と勘違いしたのだ。
「……疲れてんのかな」
徹夜が続いている。無理もない、と小説家は溜息を零した。
それにしても、ゾッとしない妄想だ。幻覚だ。
気を取り直し、小説家はコーヒーを一口飲む。すると、口の中に異物感を得た。
妙に思いつつも、彼はコーヒーを嚥下した。
「……」
ふと。
小説家はコーヒーカップの中を――覗いた。
そして絶句。コーヒーの上には、数え切れない程の翅が浮かんでいた。泥のようなコーヒーがまったく見えず、膜のようにして翅がぷかぷか浮いている。
コーヒーを飲んだ時の、あの異物感の正体は……。
喉を通り過ぎ、胃に大量の虫の翅が落ちていく光景が幻視された。
咄嗟。小説家は己が喉に手を突っ込み、嘔吐しようと試みた。しかし、試みは虚しく、翅は体内に落ちていく。やがてはあれが吸収されると思うと、気持ち悪くて仕方がない。
「う、うぅ」
コーヒーカップに触れていることすら嫌だった。小説家はコーヒーを遠くの床へと投げ捨てた。コーヒーが零れ、フローリングを黒い汁が侵食していく。
黒い海の中を、溺れるようにして羽虫の大群が泳いでいるのが見えた。
アレを飲んだのだ。
「キモいキモいキモいキモい」
小説家は立ち上がると、何度も何度も何度何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も――コーヒーを泳ぐ羽虫を踏み潰した。
足裏に、生命を潰すぬるぬるとした感触が走る。
「気持ち悪い……気持ち悪いんだよ!」
小説家は逃げるように、執筆部屋から飛び出した。風呂に駆け込み、丹念に足の裏を洗う。
たっぷり五分。汚れを落とすように執拗にタワシで洗い続けた。激しく洗い過ぎた所為で、足裏から粘着質の血液が垂れている。
虫の体液よりはマシかと。小説家は寝室へと向かった。
▽
明日の〆切のことなど、小説家の頭にはもう欠片も存在していない。あるのは虫への不快感のみであった。
電気を消し、布団の中へと深く潜り込む。
目を閉じると、急激に強烈な睡魔がやって来た。徹夜続きだったので、脳が、肉体が、心底眠りを求めているのだ。
安らぎが込み上げてくる。
あゝ……眠れ――、
羽音がした。
「うわあああ! 何だよお前ら! 五月蝿えんだよ!」
飛び起き、小説家は耳元を何度も執拗に手で払う。が、音は一向に減らない。寧ろ、異音は増すばかりである。
手を払っても、一切の手応えがない。虫を潰す独特の感触が来ない。
狂乱したように手を振り乱しても、虫は一向にいなくならない。もしや、気の所為なのだろうか。錯覚だろうか。
小説家は諦めた。
せめて音を減らそうと、両手で耳を塞ぐ。
すると、知覚した。
耳が痒い。耳の中が地獄のように痒いのだ。痒い痒いのだ地獄のように痒いのだ痒い?
恐る……恐ると。
小説家は指を耳に挿れて――指先に何かが触れたのを感じた。指に何かが這い、集る。ぞわぞわと、ぞわぞわと、何かが蠢いている。
虫だ。羽虫だった。
小説家は半ば転けるようにして立ち上がり、部屋の電気を付けるべく、スイッチの元へと駆けた。電気を付ける。
耳の中に指を挿れ、何かを掻き出す。夥しい黒が指にこびりきき、もぞもぞと動いている。
「……ぁ、あああ!」
小説家は耳に再度指を入れ、掻き出す。掻き出す掻き出す掻き出す。何度掻き出しても、耳の中の虫はいなくならない。まるで耳の奥底から、この虫が無限に湧いているようである。
掻き出す度に、逆に虫は増えていく。いつの間にか、羽音だけの世界が広がった。加速度的に、虫は増殖する。
煩い五月蠅い五月蠅い五月蠅い。
小説家は己が耳を幾度も殴打した。壊れたように殴打した。殴打する! 殴打する?
だが虫は消えない。
小説家は両手を床に着き、もう止めてくれと懇願した。懇願して、それから気付いた。
視線をおもむろに腕へと回す。
腕が真っ白になっていた。右腕だけでなく、左腕も真っ白だ。足を見る。両足も真っ白だ。
服を捲り、腹を見た。真っ白だ。
なんだこれは。
小説家は最早声にならない叫びを戦慄かせ、洗面上へと向かった。鏡を見ようとしたのだ。
結果。小説家は大いに後悔することになる。
鏡の前に立ち、縋る思いで鏡を見ると、真っ白な顔をした自分がいた。
「なになに? なに?」
目を凝らし、真白の正体を見極めようとする。
それは白い球体であった。白い球体が毛穴の中に詰まっているのだ。その数が余りにも多い所為で、腕や足、腹に顔までもが真っ白に見えるのだ。顔の中には白い粒だらけであった。
小さな毛穴が強引にこじ開けられ、その中に小さな白い球体が押し込まれている。
軽く顔に触れてみると、白い球体はぼろぼろと落ちた。しかし、開いた毛穴は塞がらない。
鏡を見ると、顔面が穴だらけになった自分がいた。声にならない悲鳴が漏れる。
次の瞬間、また顔面が白いツブツブに犯された。触れる度、ボロボロと粒が落ちる。
「この白いのは……」
顔面に爪を立てる度、ボロボロと粒が落ちていく。剥がれていく。乖離していく。
ボロボロと。
剥がれ落ちる。
やがて、小説家は白い球体の正体に勘付いた。
卵だ。
これは、虫の、卵だ。
孵化する。零れてシンクいっぱいになった白い球体から、一斉に羽虫が脚を出した。羽音が世界に染み渡っていく。
羽音がする。
小説家は何度も顔面からボロボロと卵を掻き出していく。毛穴全てに詰まった卵を掘り出していく。
羽音がする。羽音がする。
小説家は顔面を鏡に打ち付けた。ガラスが割れ顔面が切り裂かれ、代わりに卵が潰れる。ぐじゅぐしゅの体液が顔からどぼどぼ滴り堕ちる。
羽音がする。羽音がする。羽音がする。
意味がわからない。小説家は涙を流した。けれど、彼は涙を流すことすら許されない。瞳から零れ落ちるのは、涙ではなくて卵であった。
羽音がする。羽音がする。羽音がする。羽音がする。
心太を押し出したときのような勢いで、眦から卵が落ちていく。
羽音が、羽音が羽音が羽音が羽音が羽音が羽音がする。
瞳の奥底で卵が孵化したのを感じた。瞼の裏から羽虫が這い出してくる。下瞼に脚を掛け、夥しい羽虫の軍勢が這い出す。
腕の卵から虫が飛び出す。脚から虫が。腹から虫が生まれていく。全身は羽虫を生み出す為の母体となった。
やがて小説家は――
――黒に塗り潰された――
▽
後日、小説家の死体が発見された。
彼は全身を掻き毟り、出血死していたという。また、彼が最期に執筆していた原稿は、最初から最後まで一面蟲という文字しかない、小説とは到底呼べないものだった。
皆様も、虫の殺害と執筆のし過ぎにはお気をつけください。