プロローグ
空はどうして青いのだろう。
目に映る群青色の景色を眺めながら、オレはふとそんなことを思っていた。
はるかなる空の青さは、ここが“異世界”だとは思えないほど強くオレの心を打つ。
日本と同じ、青く美しい空。
空の色はどこにいっても青なんだ。
この空のむこうに、オレが生まれ育った日本がある──……かもしれない。
この“異世界”に飛ばされてから今日で1年と165日が経過している。
実を言うとオレの役目は1年と164日前にほぼ終わっているのだが、なぜかこの世界に居ついてしまった。
いや、理由なんてわかっている。
オレがここを離れたくないだけだ。
ここは特別な場所だ。
わずらわしい人間社会も、面倒な行政手続きもない。
何もかもが自由だ。
日本に未練はない、とは言い切れないがオレがいなくなっても悲しむ人間は誰もいない。両親は数年前に他界している。親しい友人なんていないしな。
このまま、この世界で骨をうずめるのも悪くない。
さわやかな初夏の風が草原の上で横たわるオレの髪の毛をなびかせていた。
さわさわとした感触が心地いい。
若干、草のにおいが鼻をつくが、ほとんど気にならない。
それにしても、不思議だ。
ここは異世界とはいえ地球の環境とほぼ変わらない。
鳥も、虫も、動物も、草木でさえも、地球のものと瓜二つだ。
あまりにも似ているため、「ここは地球じゃない」と言われても信じられないだろう。
しかし、信じざるを得ない。
ここにはオレのいた世界とはかけ離れたものがいくつも存在している。
その一つが……。
「おお、こんなところにおったか」
ふ、と眼前が暗くなった。
横たわるオレの顔を一人の少女が覗き込んでいる。
「ユータロー、メシの時間じゃぞ」
オレのいた世界とはかけ離れたもの、それが彼女だ。
大きな瞳に太い眉、ぷっくらとした唇から見え隠れする牙がちょっと愛らしいこの少女はヴァンパイアである。
人の生き血を吸い、不死身の肉体を持つ究極の怪物。
そして、オレが居候している館の主。
「早く来い。わしゃ、もう腹ペコじゃ」
「ああ、もうそんな時間か」
オレはゆっくりと起き上がり、服についた草と砂を払いのけた。
彼女は銀色の長い髪をなびかせ、腕を後ろ手に組んで立っている。
ヴァンパイアは日光を嫌うといわれているが、二の腕をさらけだしている白いワンピース姿でいるところを見ると、そうではないらしい。
むしろ、太陽の下でも元気はつらつだ。
「んふふふ、今日の昼食はなんだと思う?」
まるで子供のような無邪気な笑顔で聞いてくる。
いや、実際見た目は15、16歳くらいの少女なのだ。
小柄な体型が余計に幼さを感じさせてくれる。
しかし彼女はこう見えて御年423歳。
つまり、四世紀以上も生きている超超超・後期高齢者である。
いくらオレが熟女好きだとはいえ、これはない。
見た目からして熟女とは程遠いしな。
「どうせいつものカレーだろ?」
オレは期待もせずに答えた。
この“異世界”に飛ばされた時、たまたま持っていたカレーのルーでカレーライスを作ってあげたら、どハマりしたらしい。以来、今では自分で本格的にルー作りから研究している。
最初に食べたカレーから、原材料もわからないのによくここまで忠実に再現できたな、と思えるほどの出来栄えである。甘くもなく辛くもない、絶妙なバランスを維持しつつ、コクと深みを追求したまさにプロ級の逸品。もはや、最初にオレが作ったカレーライスをはるかに凌駕している。
さすがは400年以上も生きている大ベテラン。知識が違いすぎる。
とはいえ、毎日カレーというのも飽き飽きなのは事実だ。
いくらプロ級の美味しさとはいえ、もう少し違うのが食べたいというのが本音だった。居候の身なので、ずうずうしいことは言えないが。
しかし、今日の彼女は違っていた。
「んふふふふ、いいや、今日はカレーではないぞ」
「カレーではない?」
「今日は野菜炒めじゃ」
おおお。
やるじゃないか。
まさか、ここにきて別メニューがくるとは。
ちなみにこの世界でもピーマンやにんじん、たまねぎなどの野菜は日常的に売られている。
「野菜炒めか。そりゃ、楽しみだ」
思わず涎が垂れそうだった。
彼女ではないが、オレも腹が鳴るほどの空腹だったことに今気が付いた。
「喜んでもらえて何よりじゃ」
オレの嬉しそうな顔に満足したのか、彼女はスタスタと後方の丘の上にたたずむ館へと歩いて行く。
「野菜炒めにカレーをトッピングしたカレー風味の野菜炒めじゃ。冷めぬうちに早よ来い」
「……」
それは、世にいう野菜カレーというものではなかろうか。
そんな気持ちををグッとおさえながら、オレは彼女のあとを追って館に向かった。
この際、野菜カレーでもカレー風味の野菜炒めでも、どっちでもいい。
オレはこのヴァンパイアとともに、この“異世界”にいることがとても幸せなのだ。
彼女を退治するために召喚されたオレだったが、殺さなくて本当によかった。
追いかけるオレの背中を、初夏の風が後押ししてくれていた。
これは日本から召喚されたオレと、ヴァンパイアの彼女シーラ・ヴァイオレットの物語である。