2.砂の果実。 天為。 4
……まぁ、まぁまぁまぁ。こんなものだ。所詮は人間だ。能力も心力もない。適わぬと見れば、逃げ出す。まぁ、こんなものだ。
長身の羊頭の魔人は砂漠の夜に呟いた。久し振りに骨のある人間に出会えたと思いきや、泣きながら命乞いをする始末だ。横に潰れた瞳がどこか哀しげに輝く。
ま、我々には関係の無い話と言うわけだ。
ひょおおおお、っと風がなる。ストクフは一瞬だけ、目の前の惨めなニンゲンを見逃そうとして、止めた。ここでこの男を見逃せば、これまで命を懸けて恐怖と戦い最後まで挑みきった戦士達に説明がつかない。部下達に合わせる顔を失ってしまう。
一度、始めたことは、決着させなくてはならない。
いつもストクフがいっている事だ。
……そうだな。当たり前の話だな。
ストクフは心で呟き、砂漠の月夜に大きく跳躍した。非凡な剣の才能を持つ筈のその男は、無様にもモグラのように砂に潜って、目の前の驚異から逃げ出そうとしている。
ひょおおおお、っと風がなる。
渦を巻き砂漠の彼方へと流れ去る。高い中空で、羊魔は天為の背骨に狙いを定めた。風が渦を巻き流れる。ストクフは、発する。
「参る。」
そのまま、重力に身を任せ渾身の力と全体重を、乗せた一撃を……天為はまだ砂を掘っている……殺す価値が在るのか?……ストクフは突き出し……風が渦を巻き……風は……漸く……羊魔は気付く……何だ?この風は……?
ひょおおおお、っと大人しくうなっていた風は一瞬でテンションを上げて、轟音と入れ替わった。
巨大な薙刀を天為に打ちつけようとしていた羊魔は、中空で乾いた殺気を感じて横に潰れた瞳だけを背後にまわす。
そこでは風と砂が大きな渦を巻き龍のようにうねりながら、こちらに突進してくる。
……こ!こ、れ、はっ!!!
次の瞬間、羊魔ストクフはこの時代の人々が本当に恐れる物の一つである「鯨」に飲み込まれて、消えた。恐らく、彼は「鯨」の姿さえ確認出来なかっただろう。
砂のうねる音と、ストクフの叫びだけが、乾いた砂漠に、長く長く響いた。
夜空を覆うほどに舞い上がった砂埃は、時間が経つに連れて収まり、鯨の軌跡を露わにした。
幅20メートル、長さ数キロメートルに及んで、砂漠をえぐり取っていた。偶然出くわした、二人の旅の戦士が騒々しく戦いを繰り広げる前、砂蛸が地下から這い上がって来る前、遥か以前の静かな砂漠に戻っていた。砂と夜と月の光だけが、広がる世界だ。ただ、以前とは違い、古い祠と枯れたオアシスは跡形もなく消え去っていた。
雲が月に輝くシルエットを浮かび上がらせる。どこか遠くで獣が吠えた。
……どあっっつつ!!
よくわからない叫びをあげて、雑音が世界に帰ってきた。
「だ!は、はぁっ!はっ!」
天為は、荒い息を必死に整えている。彼は一歩早く鯨の補食活動を避ける為の行動を起こし、助かったのだ。それは本当に僅か僅かの差だった。
「っあー……焦った。あ?あ、あぁ。死んだか。あいつ。」
周囲にストクフの気が残っていない事を感じ取り、天為は結論した。彼は逃げ損ねたのだと。冷えた砂の上に胡座をかいた。背筋を伸ばして、
ふーっ。
月を仰ぐ。彼は、思い起こす。天為はあの時、戦いに備えて彼の魂を無限に拡散させようとして、失敗した。だが、その時に拡散しかけた彼の魂に「鯨」の気配が引っかかったのだ。しかも、こちらを目指していた。地上で砂煙を巻き上げる小動物を補食しようとしていた。天為は躊躇うことなく、全力で鯨の補食経路から逃げ出した。だが、ストクフは自身に奢り、天為が敗走したと思い込み……そして、命を失った。
「あー。ダメだ。熱出てるな。絶対。」
自らの命の危機も、突如現れた世界の驚異にも、まるで、何ら感じる事が無いかのように、天為は呟いた。
「……砂の果実……か。」
柔らかい銀色を放つ髪と瞳を持つその男は、ゆっくりと月下に佇んでいる。月を仰ぐ。鋭角的な横顔がどこか非現実的なこの世界になじんでいた。
そして、そのまま、彼の呟きは砂の夜の月の影に消えていった。