スタンドアロン 第二話 始まり高坂。 2
高坂は閉鎖的で排他的な職人気質の鳶狩りには、どうしても根本的になじめない所があった。それでも、高坂はこの鳶狩りという仕事を20年程してきた。理由は判らない。鳶狩りとしての誇りはある。でも、それは、仕事を続けている理由ではない。
冬の気配を残す夜風が、高坂のベッドルームに流れ込んできた。一緒に子猫の鳴き声も流れてきた。どこか寂しげな鳴き声がこだまする、月明かりに浮かび上がった街はずれの集落の輪郭はとても侘びしかった。こんな風に真夜中に目が覚めて、自分の生まれた街を眺めるのは、ずいぶんと久しぶりだと高坂は気づいた。この前、こんな風に真夜中に外を眺めていたのは……まだ十代の頃ではなかったか?と、高坂は思った。そして、こうも想った。
(何をしてるんだろう……俺は。何をしたいんだろう……。)
どうして、もうじき28歳になろうとしているのに今更、こんな、子供じみた想いが浮かぶのか、高坂は判らなかった。ただ、とても、ここから出たかった。
とても。
年老い弱気になり始めた父を、一様に無口な鷹狩り師達を、かび臭く傾いだ我が家を、鶏と街人達を、全てだ。この窓から見える月さえも捨てて、ここから、出ていきたかった。ふと、高坂は気づいた。
ここには可能性がない。
俺は、ただ、すり切れていくだけだ、と。
それは、別に不幸せなことでは無いのかもしれない。
誇りに思える、さして好きでもない仕事。
偏屈かもしれないが、信頼できる仲間達。
そう、辛いことが多いがそれは、不幸せなことではないのかもしれない。
窓のすぐ側で子猫がうずくまっていた。うたた寝をしているのだろうか?その子猫の背を撫でる風を追い、高坂は月を見上げた。風が流れ、雲が月を覆った。
ほんの一瞬。
その一瞬の間、目の前から何もかも消えて無くなった。闇に埋もれ、消えてしまった。再び大気が動き、雲が去り、月の輝きが戻り、また、静かな夜の街に帰ってきた。全ての物はあるべき所に収まっていた。
ただ、子猫はどこかへ行ってしまった。
闇に埋もれたあの瞬間にどこかへと行ってしまったのだ。誰にも何にも言わずに。ただ、行ってしまった。そこには子猫は既におらず、ああ……。
(うらやましい。)
と、考える自分だけがいた。それは、激しい感情ではなかったが、揺るぎない想いだった。
薄々は感づいていた。
昔から何度も考えていた。
ただ、行動に表せなかっただけなんだ。
でも、何故、今?
確かにここには何もないのかもしれない。でも、外の世界に何が有るというのだろうか?高坂には判らなかった。ここから出ていって、どこで、何をしようというのだろうか?それも判らなかった。出ていったところで、結局、真夜中に月に照らされた時、”ナニヲシタインダロウ?オレハ?”と、想うんじゃないだろうか?ただ、冴えない現状から逃げ出したいだけなんじゃないだろうか?ここから逃げ出したところで自分自身は何も変わらない。外に出て変われるなら、ここにいても変われる。そういうものだ。そのくらいのことは高坂も学んできた。
でも……。
何なんだろう?この想いは?外に出る事を考えたときに魂からにじみ出してくる、この想いは?
とても、切ない。
例えば、当てのない旅。
例えば、誰かのためじゃ無い仕事。
例えば……
高坂は自分の内側から何かが浸みだしてくるのを感じた。決して冷めることのない、輝き燃える想い。何故そうしたいのかは高坂本人にも判らなかった。そうしたところで、何を手に出来るのか?何が変わるのか?何が判るのか?高坂には想像もつかなかった。結局、下らない現状に飽きた子供の夢想だったと思い知らされるだけなのかもしれない。背中を丸めて元いた場所に逃げ帰ってくるだけなのかもしれない。
(……きっと、そう思い知らされる事は、ここで、夢想し続けるよりは意味が……いや、意味なんて無くて良いのかもしれない。たぶん、俺に必要なのは、自分の思うように行動することなのかもしれない。)
再び夜の気配が動き、月の光を遮った。辺りはどっぷりとした暗闇に覆われ、全てを溶かし込んだ。そこは一切の濃淡の無い世界だった。……高坂は唐突に今が「その時」だと悟った。
月が戻る前に。
荷物ならベッドの脇に常にまとめてある。それが、鳶狩りだ。高坂が誇りを持ち、本当はバカにしている”鳶狩り”という人間達の習性だった。高坂は暗闇の中で、服を羽織り、荷物を担いだ。二十年以上連れ添ったバックパックだったが、この時だけは高坂の背にしっくりこなかった。生まれて初めての自分の旅に出るのだ。背中もバックパックも緊張で強ばっていた。大型の高坂専用のクロスボウを肩に掛けた。こんなにも重かったのかと、高坂は驚いた。眼で確認することが出来ないため重さが強調されているわけではなかった。その重さは、もう全てを誰のせいにも出来ない事への、自分自身への責任の重さだった。村のために旅立つ時、クロスボウの何と軽かったことか。必ず決まった位置にあるナイフと予備の矢筒を持ち、高坂は外に通じるドアを開けた。家のドアが開かれると共に、天蓋のドアが開かれていき、世界に月が戻った。
月に照らされた集落は寂しく侘びしかった。
木造平屋の影が冷たい空気の中に浮かんでいた。100m程離れた所から始まる密集している養鶏家達の屋根の影が、余計にこの鳶狩りの集落の寂しさを引き立てていた。高坂が漠然と夢想していた旅立ちとは、全く違った。浮き浮きと心弾むことはなかった。輝く太陽が高坂のことを祝福してくれることもなかった。仲間に励まされ、見送られる事もない。父すら起きてはこない。熟練の鳶狩りが夜中に自分の近くにある気配を見逃すことはない。父は気づいていながら、起きてこないのだ。
(母や姉が家を出ていった時もこんな風に見送ったのだろうか?)
高坂はその想いを振り払った。目を閉じ、想った。
(何年だ?何年かかったんだ?ここに辿り着くのに?始める決心を固めるのに?)
まだ、冬は終わりきってはいなかった。道の端にしぶとく融け残った雪が泥にまみれ、うずくまっていた。まるで、つい先程までの自分の気持ちのようだと高坂は笑った。それは、自嘲的な笑いではなかった。幼かった自分を振り返る者の微笑みだった。高坂は全身に夜風を受け止めた。
風はとても冷たかった。
空気は澄み切っていた。
高坂はここから出ていくことを……仲間を、父を、村を見捨てることを……申し訳ない、とは、想わなかった。なぜなら、
これは、俺の体。
これは、俺の魂。
だから、さよなら。
この季節独特のとても鋭く冷たい光を放つ月が、道を教えてくれた。高坂が何度も何度も思い描いてきた、自由への道を。ざりざりと、固い地面を踏みしめる自分の足音だけが世界にこだましていた。高坂は月に導かれ村を後にした。高坂は一人で旅立った。だが、本当の意味で独り立ちするのは、まだ先のことだった……何も知らず、高坂は呟く。
これは、俺の体。
これは、俺の魂。
だから……さよなら。