スタンドアロン 第一話 始まり天為。 4
……あ?う、おおおおええ……
意識が戻った瞬間に天為は嘔吐した。頭部を殴打したせいだろう。彼は血をたくさん失っていた。靄魚と激突した左肩は頭のように腫れ上がり、黒ずんで激痛を撒き散らしていた。血と吐瀉物と漏らしたモノにまみれ、溺れる寸前だった。漆黒の髪が泥にまみれている。震えながら、再び意識が飛びそうになるのを必死にこらえて、靄魚の襲撃に備えた。と、言っても立ち上がることすらできない。だが、先程……いや、既に時間が経っているのかも……意識を失う直前に見えた血まみれのチムを助けなくてはならない。靄魚の群れの中に取り残されていた、やせっぽっちのチムを。
……チム。
可哀想なチム。狂った兄に捕らわれ、逃げ出すことも出来ずに……逃げ出すことすら考えられずに……虐待されているチム。何度、天為がテラに匿っても、ふとっちょバールの下へ帰ってしまうチム。彼は救わなくてはならない。天為が村守だからではなく、大人として、助けてやらなくてはならないのだ。天為は焦点の合わない目で靄の晴れた森の中の空き地を眺めた。チムの意識は無く、血塗れだ。空き地の中央に倒れている。その周囲には20匹以上の靄魚が……死んでいた。天為はその異様に直ぐに気づいた。全ての靄魚の内蔵がなくなっているのだ。天為が仕留めた奴も含めて全て。
……なんだ?コレは。
天為は直感した。状況はシフトした。靄魚の脅威から未知の脅威に。だがそれはタダチニではなくなった。直面してはいない。未知の脅威は消えてはいないが、此処には居ない。天為は周囲を探ろうとして、意識が拡散しない事を悟った。
ダメだ。滅却出来ない。
靄魚は死にたてフレッシュで、血を溢れさせ、魂の抜けた肉はしかしまだ、痙攣している。撤退が必要だ。それも速やかに。天為は血を失い体温が下がり、寒さと痛みと恐怖に震える身体を引きずるようにして、チムのそばに進む。チムは血塗れだったが、靄魚の血だった。彼は何かのショックで気を失っているが、怪我はしていないようだ。靄魚の内蔵を抜き取ったソレは、チムには興味を示さなかったのだ。
何故?何が?
今は考えない。天為はチムを右肩に担ぐようにして、この森の中の血塗れの広場から脱出する。這うように。左肩の内出血は更に酷くなる。吐き気がして、途中、何度も吐いた。チムの意識は戻らない。天為は森の下生えの中を、這って進む。森と水田の境界に辿り着いた天為は、一端、自身の肩の怪我に癒やしをかけようとして呼吸を整えた。そして、めき。めき。ぼきゅ。べちゃ、ずりゅ、ずるぼきめきぺちゃぺちゃばりがりどしんずんばんがりがりぼりぐちゅぐちゅぐちゅぐちゅぐちゅぐちゅぐちゅ!!
広場からの異音を耳に捉えた。吐いて泣き、漏らして血をこぼしながら、天為はチムを抱え、立ち上がり、走り出す。何かがいる。ソレは靄魚の死体を喰らっているのだ。美味な内蔵を食らいつくし、今は肉と骨を飲み込んでいる。
何が?
一体、何があの巨大な靄魚を喰らっているのだろうか?今は考えない。脱出に全精力を注ぎ込んだ。身体中が痙攣し、緊張と弛緩を繰り返し、身体を前へ前へと運びながらありとあらゆる傷や穴から、何もかもを吹き出し漏らしていた。天為は歯を食いしばり、走り、転び立ち上がり走る。天為は直感していた。永く生死の狭間を生きていた村守だからこその直感だった。兎に角、此処から離れる必要が在るのだ。背後のアレは、対峙出来るような存在ではない。しかも、背後にいるのはその脅威の、
……一部だ。ほんのちょっぴりだ。
天為は何度も倒れ顔をぶつけ、血を流し、叫んだ。激痛と疲労と恐怖が天為を絶望させる。村はまだ遠い。
かは。けけけけけ。まだやってんの?なぁ天為ちゃん。無意味だろ?何の意味があんだよ。これに。なぁ。糞もらしてんぞ、お前。くっさいなぁ!おい!止めろよシネよお前!迷惑なんだよ!誰も望んでなんかいねぇんだよ、お前やこの狂ったマゾのチムが生き残る事をさぁ!
天為の背中の痣の中に痣の男の顔が現れる。上下逆さま、白い黒目と黒い白目。狂気と呪詛に塗れた存在だ。天為を内側から蝕む負の存在。だが、でも、それが、折れかけた天為の心を打ち直し、研ぎ澄まし、刃の切っ先を輝かせた。
「うるさいよ、ばぁか。」
血塗れで泥を噛んだ歯を見せる。切れ長の黒い瞳は、光を取り戻す。天為は村のはずれの桑の木辿り着き、もたれかかり、チムを下ろして森を振り返る。
異様の気は、消えていた。靄魚を喰らう信じられないようなその存在は、ソレは消えていた。ありえるだろうか?消えたのだろうか?でも、天為は考えない。今は。
彼は大きく息を吸い、危険な状態にある自身の左肩に癒やしの術をかける。彼は想像から身体の状態を透視していく。汚れて膨れ上がった皮膚の下、薄い脂肪、血や体液が湿潤している筋肉、破れた血管、すりつぶされた神経、ひび割れた骨とはみ出した骨髄。天為は右の掌をかざし、そこからマイトを取り出す。薄い光となりそれは顕現する。そおっと天為は掌を左肩に当てる。光が染み込んでいく。
……塵は灰に。灰は血と肉と骨に還れ。
天為は、優しく式を唱える。指先で印を切る。怪我が巻き戻るかのように、肩の腫れが引いていく。気がつけば朝焼けは終わっていた。太陽は厚い梅雨時の雲に隠れている。でも、水田を渡り天為を撫でる風は梅雨時のだるさが薄くなり始めていた。夏が近づいているのだ。癒やしを施した天為は、ゆっくりと立ち上がった。黒ずくめで痩せ過ぎの青年だ。血と泥と汚物にまみれている。
「あぁ、くっさい……。」
天為は、言い訳を呟く自分を更に鼻で笑い、何の体裁を保とうとしているのか、本当に嫌になった。
……何を守ろうとしてんだ?俺。
2つの意味でそう思った。でも、これが彼の日常。村守の生活なのだ。彼はチムを背負い、歩き始める。村人達の代わりに彼を応援するように、風が背中を押す。天為の背を押した風はそのまま彼らを通り越し、一足先にビゲイトの中心にあるテラに辿り着いた。それは空に抜けて雲を押し上げる。そうやって雲は少しずつ少しずつ高くなり、やがて夏を迎え入れるのだ。その、直前。これはその直前のお話。彼らはまだ、知らない。これが始まりとなり、終わりとなる……絶望の物語であることを。