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 世の中は理不尽なことで満ち溢れていると思う。


「一番理不尽な存在が何を言ってるんですか」

「カイエスの言う通りです。さ、次は訓練指導に行ってきてください」

「お前らは、上司を何だと思ってるんだ」


 そんな部下達に、ロメスは恨めし気な顔で向き直る。見下ろしていた先にあるものを、この二人は知っている筈なのに、どうして誰もが自分を責めるのか。


「ロメス様の使用人は物の道理が分かっているというだけじゃないですか」

「全くですよ。少しは反省してください。ついでにちゃんと部屋は片付けてくださいよ」


 結局、カンロ伯爵邸に出向き、夕食を食べたらカレンが寝てしまったと苦しい嘘をついた。

 言うまでもなく誰も信じてくれなかった。さすがに口にはしなかったが、全ての瞳が、カレンを一人連れ去ってまで監禁したのかと、語っていた。

おかげで自分の潔白を証明する為に、カレンの従者である三人も引き取る羽目になった。

 まさか無理やり手を出して抱き潰したんじゃないだろうなと、三人に射殺されそうな瞳で見られながら屋敷に案内すると、ネイトとリナはその三人にも母屋の二階にある部屋を手配してしまい、完全に自分は二階へは立ち入り禁止となってしまった。

 目を真っ赤にして泣いていた自分達の主人を見て、カレンの従者もやはりこの結婚がカレンにとってどんなに苦しいものだったのかを改めて実感したらしい。

 よほどカレンに同情したのだろう、ネイトとリナは、カレンの従者である三人とも意気投合し、今や屋敷の主人はカレンに取って代わられ、五人がカレンをロメスの魔の手から守ろうとしている状態だ。

 そして、現在、ロメスは王城にある部屋に泊まり込んでいるのであった。


「主人を家から追い出す使用人の、どこが物の道理をわきまえているというんだ」

「それを実行できた時点で、いかに素晴らしい使用人かが分かるというものです」

「全くです。あ、訓練指導はいいですが、カレン様には近づかないでくださいよ」


 ロメスが見ていた先をロムセルが確認し、釘を刺す。

 あれから、時々、フォルはカレンにねだって城に連れてきてもらうようになっていた。本来は女子供が頻繁に出入りする場所ではないが、ロメスばかりかエイド将軍の口利きもあり、今やカレン達はフリーパスで軍部のあるエリアに出入りできるようになっている。

 何と言ってもカレンは傷つき倒れていた狂犬をも助けた心優しき黒髪の乙女である。

しかも自分達に比べればはるかに弱いとはいえ、細身の剣をある程度は使いこなすようで、鍛錬場の隅で従者と稽古をしている様子はそれだけで皆の心を和ませるらしい。

戦いに赴く人間は縁起を担ぐ。自分達もたとえどこかで傷つき身動きとれないことになっても、助けてくれる人があるようにという、それに倣いたい気持ちがあるからなのだろう。カレンはかなり好意的に皆に受け入れられていた。


「忘れてるかもしれんが、カレンは俺の妻なんだが? どうして夫が妻に近寄っちゃいかんのだ」

「大丈夫ですよ。今や、黒髪の乙女と金髪の坊やに不埒な真似をする馬鹿はいません。それどころか、何かあればすぐさま誰かが助けに入るでしょう。ですからカレン様を理由にサボリは認めませんよ、ロメス様」

「全くですね。さすがに怯えさせてはいけないので、カレン様の稽古については、鍛錬場にカレン様達が足を踏み入れた時点で一番目と二番目に挨拶をしてもらえた人間が行うこと、三番目がフォル様のお相手をするという決まりを作り、徹底させています。さ、安心したところで訓練指導行ってきてくださいね。終わる頃までに次の書類を用意しておきますから」

「いや、ちょっと待て。何だそりゃ」


 カレンが連れてくる従者もそれなりに剣は扱えるようなので、カレンと従者の相手で二人、一人になってしまうフォルの相手で一人、それで三人らしい。

 とはいえ、誰もが鍛錬場の門前でだらだらカレン達が来るのを待っていられる筈もなく、いつの間にかやってきたカレンと従者がフォルに玩具の剣を持たせて遊んでいることも多いのだとか。そういう場合は、一休みしたところで声をかけるものと決まっていると、カイエスが説明する。


「どうして俺の妻に対するルールが、俺の知らんところで作られているんだ」

「ロメス様に任せてたら、カレン様を理由にサボるだけですからね」

「全く・・・あ、カイエス、ちょっとヤバい。あれ、ウリニッタ伯爵のドラ息子だ」


 カレンの姿を見下ろしていたロムセルがカイエスに声を掛けると、ロメスは黙って部屋の隅にあった弓を取り、矢をつがえた。

 ウリニッタ伯爵のドラ息子といえは、フィゼッチ将軍率いる近衛騎士団に入団したものの、素行が悪すぎてこちらに流れてきた男だ。こちらの王都騎士団が引き受けたはいいが、それは取りも直さず、根性を叩き直すか、もしくは追い出してほしいという意味合いも含んでいた。貴族出身が多い近衛騎士団では、どうしても同じ貴族出身だけに、あまり強くも出られないらしい。


「うわっ、ロメス様っ、何を・・・」

「黙れ」


 カレンに寄って行こうとしていた男の足元の地面に、矢が刺さる。驚いて振り返った男が、笑いながら次の矢をひらひらとさせているロメスを確認するのがロムセルにも見えた。

 足元に刺さったのを最初は流れ矢だろうと思ったらしく、怒りを見せようとしていたドラ息子は、そこでわざと射かけられたことに気づき、焦ったらしい。

 真っ青になって、そのままくるりと反対方向に逃げ出す男を確認し、ロメスは弓矢を放り出す。


「どこに行かれるんですか、ロメス様」

「訓練指導さ。俺は働き者なんでね」


 機嫌良さそうに出て行くロメスの様子に、聞かなくてもすぐにウリニッタ伯爵のドラ息子がどんな目に遭わされるのか、分かってしまった二人だった。

 元々、この上司は自分自身に対することにはかなり無頓着だ。

なのにカレンには特別なものを感じているのか、強引な手段で自分の妻にし、更に家から追い出されることになっても受け入れるくらい大事にしている。そんなカレンに変な下心で近づこうとした男など、見せしめ代わりにきっちり叩きのめすことだろう。

尚、訓練指導に無理やり連れて行かれたウリニッタ伯爵のドラ息子がロメスの一方的な訓練を受けさせられる様子を見て、たとえ狂犬が傍にいなくても黒髪の乙女には不可侵を貫くべしという暗黙の了解が軍部内に流れたという話である。






 やはり少しずつフォルの体力がついてきているようだ。

 カレンは、鍛錬場の片隅に座ってフォルの膝枕をしてやりながら、そう思った。


(ロームはカンロよりも暖かいから、それが良かったのかしら)


 あくまで僅かではあるし、こうやって体を動かしたら二日は疲れ切って家から出られなくなる。それでも血色も良くなってきていて、食べる量もちょっぴり増えているようだ。

 最初は荒っぽい軍部への立ち入りとあって少しばかり渋い顔をしていたカンロ伯爵夫妻も、フォルが明るく元気になっていく様子に気づいたか、最近は城へ遊びに行こうとするのを快く送り出してくれるようになった。


(あのロメス・フォンゲルドのテリトリーというのがちょっとアレなんだけど、フォルが来たがるから仕方ないわ)


 同じ出かけるなら公園や野原でもよさそうなものだが、フォルは重い剣を持って戦う男達に憧れているらしい。近くだと怖いらしく、彼らの練習を遠くから熱く見つめている。

同じ城にいても、貴族は剣を持たない文官が多い。どう見ても貴族の子供であるフォルが、そうやって兵士達を憧れの瞳で見上げてくるのが嬉しいのか、屈強な男達もフォルを可愛がってくれていた。すると、余計にフォルも懐くのだ。


(あれほど人見知りだったのに、男の子って不思議ね)


 今日、一緒に来てくれたサリトは、今、水を汲みに行っている。サリトは小剣を扱うタイプなので、一番カレンにとってはやりやすい相手だ。キイロは大剣を扱うので、細身の剣を使うカレンにしてみれば、太刀打ちできない。

そしてサリトは絵が得意なので、王城で見た物を帰ってから絵にしているらしく、それらはドルカンやキイロにとっても図柄などの参考になっているようだった。来た以上は色々な物を見て帰る、タダでは起きないのがロイスナーである。

 いつもは騎士団の誰かが声をかけて相手をしてくれたりするのだが、今日はちょうど誰も鍛錬場にいない時に来たので、三人で玩具の剣を使って遊んでいた。

 はしゃぎ過ぎて眠ってしまったフォルは満足そうだ。


(男の子だもの。強い人には憧れるわよね)


 ふと思いつき、カレンは昔教えてもらった歌を口ずさんだ。この歌に寿がれた人は強くなるのだと、祝福の歌なのだと教えられた。自分が看取った人だった。


『我らが求めるは神の息吹。この身を持って地上にあらん。空より降りたるは神の恩寵にして、我らが住まう闇にその身を示さるる。されど・・・』


 小さく低く歌っていたつもりだが、「ん」と、フォルが目を擦る。


「カレン姉様、今のお歌は何ですか?」

「ごめんね、フォル。起きちゃった? これはね、その人が強くなりますようにっていうおまじないの歌なのよ」

「もっと歌ってください。そうしたら僕も強くなりますか?」

「ええ、強くなるわ」


 欠伸しながら、フォルは頭をカレンにすりすりとしてくる。かなり眠いらしい。それでも好奇心の塊であるフォルは、何でも尋ねてくる。小さなフォルにとって世界は不思議なことでいっぱいなのだ。


「だけど何て言ってるか、分かりません」

「ごめんなさい。それは私も分からないの。・・・だけどきっと、とても素敵な言葉なのよ」


 自分達の仲間になった戦士。とても強い人だった。傷だらけの体で、それでも誰よりも強かった。


「変わった弓矢を使い、剣を使う人達なの。その人達の神様が力を与えてくれる歌なのよ」

「弓矢ってどんなのですか?」

「こんな感じかしら」


 指で地面に簡単な図を描いてやったが、フォルには分からないらしかった。弓矢自体が触ったこともないからだろう。


「ふふ、いつか見せてあげるわね」

「はい」


 そんなカレンに後ろから声が掛けられる。


「失礼。ロメス殿の奥方とお見受けするが、その歌はどちらでお知りに? 実は、こちらの知っている歌とよく似ているのだが」


 振り向くと、そこにはとても大柄な男が立っていた。逆光になってよく見えないが、日に焼けた褐色の肌はその筋肉の流れが見てとれるくらいにたくましい。短く刈られた髪の色はよく分からないが、あまり濃くない色なのだろうとは思う。その目つきはどこまでも厳しいものだった。


(誰っ? 初めて見た人だわ)


 落ち着いた雰囲気を持った男は、いつもの騎士団の人達とは少し違うように感じた。特に害意は感じないが、どんな立場の人間なのだろう。

 そんなカレンの警戒心が伝わったのか、その男は苦笑した。笑うと、少し雰囲気が柔らかくなる。


「その続きはこうじゃないか? 『我らが住まう闇にその身を示さるる。されど我らが慢心はならず。なればこそ神の姿は遠くにありて・・・』 ・・・そうだろう?」


 カレンが目を瞠る。


「じゃあ、あなたもあの部族の一人なの? とっくに全滅したって聞いていたのに」

「いや、違う。俺じゃない。俺の知人が知ってる歌なんだ。まだ他にも生き残っている人がいたのかと思ったが、どうやらあなたは違うようだし・・・」


 男が、カレンの全身を見ながら言う。どう見ても弱そうなカレンでは違うだろうと、彼にも思えたらしい。それは仕方がないのだが、やはりこういう強そうな人に見据えられると忸怩(じくじ)たるものを感じずにはいられない。


「ええ、違うわ。私は歌を教えてもらっただけ。・・・もう、亡くなったわ」

「そうか。・・・残念だ。ところで、弓矢とか言っていたが、あの部族は弓も使うのか?」

「弓矢も使えるとは聞いたわ」

「その弓矢を知ってる?」

「・・・・・・」


 彼の立場が分からない。ここで迂闊(うかつ)なことは言えないだろう。フォルとの会話を聞かれていたならどうしようもないかもしれないが、どう出るべきか。


「俺の知人がその部族出身なんだ。もしもその部族に伝わる物があるなら手に入れてやりたい。・・・もし、心当たりがあってそれを手に入れられるなら、その時は俺の所に持ってきてくれないか? 言い値で買い取ろう」

「・・・あなた、誰?」

「カロン・ケイスと言えば、誰でも分かるだろう。ケリスエ将軍の下にいる。・・・あまりあなたに近づいていると、ロメス殿に殺されかねない。俺はここで失礼する」


 鮮やかに立ち去る後ろ姿はとても堂々としたもので、カレンは考え込んだ。今の男はあの歌も知っていた。しかもその部族出身だと言われても納得できるくらいに強そうだった。

 しかし彼はその部族出身ではないという。自分を騙すなら、その部族出身と言っても自分にはその嘘が分からなかっただろうに。


(誰も使いこなせない弓矢。・・・もしも他にも生き残りがいたのだとしたら、その人に使ってもらった方がいいのかもしれない)


 時に使う人を選ぶ武器がある。それは本当にどうしようもないのだ。使える人に使ってもらうしかない。カレンはロイスナーに置いてある弓矢を思い返した。

 人生の終わりをロイスナーで迎えた異国の戦士。

 満足だと言って笑って亡くなったけれど、きっと故郷に帰りたかったことだろう。誰にもその技は伝えられないから、せめて歌だけでも覚えてくれないかと言って、自分に教えてくれたのだ。

 せめてあの人の魂が宿った武器は、同じ部族のもとに帰してあげるべきなのかもしれない。






 最近、黒髪の乙女が鍛錬場に姿を現さないのでがっかりしている男達は多い。


「まさか我らがロメス様でも寝取られるとは・・・って噂になってますね」

「訂正しろ。誰が寝取られたっつーんだ。あり得ないだろ、あり得ないって分かってて誰が言ってやがるっ。そいつをまず連れてこい」

「カイエスの言う通り、誰もがそれはあり得ないと分かってますがね、それでもやはり我らの乙女を横取りされた気になるんですよ」

「カレンが来たら俺に近づくな、カレンがいなくなったら俺に迎えに行け、かよ。お前らは俺を一体何だと思ってやがる」


 そう文句を言いながら、ロメスは壺に入っていた酒を杯に注いで一気に呷る。どんな顔をして迎えに行けと言うのだ。相手はきちんと筋を通してきているというのに。




 それは先日のことだった。使用している棟が違う為、そうそう会わないカロン・ケイスがロメスを訪ねてきたのだ。カロン・ケイスはローム国騎士団に属する男である。


「ロメス殿はおいでか?」

「カロン様。どうなさいました? ロメス様は・・・ほらっ、ロメス様っ、起きてくださいっ、カロン様ですよっ」

「うちの上司がお恥ずかしいところをお見せしました、カロン様。どうぞお座りください」

「何だ、カロン殿か。珍しいな、何かあったのか?」


 大きく伸びをするロメスに苦笑しつつ、カロンが卓上に置いたのはそれなりの金額が入った革袋だった。


「いきなりすまないな。ご本人が受け取ってくれないので、こちらに持参した」

「まあ、座ってくれ。話が分からん」

「では私どもは席を外させていただきますね」

「いや、気にしないでくれ。秘密の話でも何でもない」


 ロムセルが気を利かせて二人きりにしようとしたら、カロンは手を振ってそれを押しとどめた。そして、話はロメスの妻、カレンのことだという。

 そこで、ロメス、カイエス、ロムセルの三人はカロンとカレンの組み合わせをつい想像した。想像した瞬間、「あり得ない」と却下した。このカロンが女とみなすのはただ一人だ。


「実は、・・・ロメス殿の奥方が、あるものを手に入れてくれたんだが、それの代金を受け取ってくれなくてな。だが、本当に感謝しているので受け取ってもらわないと困る。ロメス殿に渡しておけば、受け取ってもらえるかと思い、こちらに持参した」

「いや、そう言われてもなぁ・・・。カレンのことは俺じゃよく分からんし、何を手に入れたのかは知らんが、タダでいいっていうなら、その程度のものじゃないのか? あれでも商売っ気はある筈だし、きちんと代金は取り立てる娘だ。無料でいいって言ったなら本当に価値がなかったんだろ」

「いや、違う。こちらには価値がありすぎるんだ」


 カロンが説明した所によると、それはケリスエ将軍の部族に伝わる武器だったのだとか。

 それを聞いた時点で、三人は納得した。

 どうせカロンがわざわざ伝手(つて)をたどってまで何かを手に入れるとしたら、そんなところだ。カロンは常に自分の上司しか見ていない。


「こちらに渡す前にきちんと手入れもしてくれたらしいのだが、そんな彼女は、『誰もが使いこなせない武器の上、持ち主は最後まで自分の技を伝えられる人がいないことを悲しんでいたから・・・。私が覚えてあげられたのは歌だけだったけど、せめてこの武器をその方が受け取ることで、私がその技を伝えていく仲立ちをしたのだと思わせていただけませんか』と、健気(けなげ)なことを言ってくれるときたものだ」

「そりゃまた・・・」

「そう言われてしまうと、金を押し付けるわけにもいかなくてな」


 そう言って首を横に振るカロンは、ロメスに対してきちんと話をしておこうとも思ったのだろう。カレンが夫であるロメスに何らかの誤解をされないように。このカロン相手に何の誤解をしろというのか、とは思うが。


「カレン様はロメス様には勿体なさすぎる、心の清い方なんです」

「言うな、カイエス。誰もが知ってることだ」

「お前らなぁ・・・。だが、それならそのまま受け取っておけばいいんじゃないのか?」

「俺が使うんじゃないからな。タダでもらったものを渡すのも気が引ける。喜ぶと分かってるだけにな」

「ああ、なるほど。・・・じゃあ、金じゃないもので払っておいてくれ」

「?」

「あのじゃじゃ馬は、時々子供連れでここまで遊びに来るんだが、さすがに男所帯じゃ汗を流す場所もない。そちらはその点、女でも汗を流せる設備があるだろう。良かったらそこを時々提供してやってくれないか?」

「そんなことならお安いご用だ。だが、それでは礼にならん」

「じゃあ、たまには手合わせでもしてやってくれ。俺ばかりかあのカロン殿とも親しいとなったら、あいつはどこでも安全だろうからな」

「その程度でも礼にはならんが、・・・変な誤解をされては困るだろうに」

「あり得ん。カロン殿があいつに手を出す筈もない」

「そりゃしないが・・・」


 困った顔をするカロンは、本当にロメスはそれでいいのかと迷っているらしい。

 自分の妻が他の男と親しく交流するのは、あまり嬉しいものではないだろう。そう視線で告げてくるが、ロメスはそれを無視した。カロンならどんな男よりも安全だ。

 

「ロメス殿が不快にならないのなら、人目につくように手合わせもするが、・・・それでもこれは受け取ってほしい。何かカレン殿の装身具なりドレスなりの購入にあててくれ」

「多すぎるだろ。せめて半分は持って帰ってくれ。・・・そういえば先だっての交易で運ばれてきた中にちょうど珍しい石を使った首飾りがあって確保していたんだが、大体値段が、・・・そうだな、それをそちらからの礼ということで贈らせてもらおう。ちょっと待て、余った金額は返すから」


 色々と街を見回っていることの多いロメスは、商売で扱われている物にも詳しい。カロンには装身具などさっぱり分からないが、かなりの浮名を流したロメスはそういった方面にも明るかった。


「ああ、大体この値段だな。じゃ、これだけもらっておく。それでいいだろ?」

「それでロメス殿がいいなら」

「いいさ。それにカレンも使えない武器よりも身を飾るものの方がいいだろうしな」


 ほっとした様子でカロンは帰って行った。




「そこまでは良かったんだ、そこまでは」


 ぶつぶつと、ロメスがぼやく。問題はカロンとロメスの話だけでは終わらなかった、そこにあったのだ。

 数日後、今度はケリスエ将軍が訪ねてきた。驚いて、ロメス、カイエス、ロムセルが立ち上がる。


「これは・・・、ケリスエ将軍。どうなさいました? エイド将軍にご用でしたらご案内させていただきます」

「いや、用があるのはロメス殿だ。実は、カロンがとある武器を手に入れてくれたのだが、それはロメス殿の奥方の手配によるものと伺って、礼に参った。奥方はよくこちらにいらっしゃると聞いたが、本日はご不在か?」

「来るのは不定期でして・・・。あの、例の武器に関しては、既にカロン殿から礼にと妻には首飾り、そしてそちらの棟での汗を流せる設備の使用、及び時々の手合わせをお約束いただいております。これ以上はもうお気遣いいただくこともございません」

「そうなのか? だが、私からも何をお贈りすれば奥方は喜んでもらえるか、是非お伺いしたい。ロメス殿、いかがか?」


 さすがのロメスもケリスエ将軍に軽口はたたけない。ロメスと似たり寄ったりの背の高さであるケリスエ将軍だが、そういう背の高さとか体格とかではなく、醸し出す独特の雰囲気、つまり覇気があるのだ。


「既にカロン殿から十分に頂戴しておりますので、これ以上は不要でございます」

「それでは私の気が済まぬ。何と言っても使うのは私だからな」

「・・・・・・。それでしたらカロン殿にお願いしておりました、妻に対する手合わせを一度で良いので、ケリスエ将軍にお願いできますでしょうか。そちらの設備をお借りする際、やはり何かあっては困りますので、虫よけもかねましてお願いできれば、と」

「その程度では礼にならんが、それはこちらで配慮しよう。では、これを受け取ってくれ」


 そこでケリスエ将軍が卓上に並べたのは二つの装身具だった。


「カロンが、ロメス殿は奥方の為に装身具を買っておきながら渡しもできずに作業部屋に仕舞い込んでいると言っていた。私からということであれば渡せるのだろう? 良かったら奥方に贈っておいてくれ」

「は」


 そう言うと、さっとケリスエ将軍は出て行ってしまう。後に残されたのは腕輪と髪飾りだった。最初からそのつもりだったのだろう。


「ロメス様・・・。あれほどカロン様を女というものを知らない男だと馬鹿にしておきながら、実はカロン様の方が上手(うわて)と違いますか? この近くでお会いして、やはりカロン様は違うと、私は実感しました」

「ロメス様がこの引き出しに隠しておいたのを見た時点で、どういう流れかを見切っていらしたんですね、カロン様。あのケリスエ将軍の鮮やかさといい、カロン様といい、女性への扱いは数多くの浮名を流せばいいものではないと、私も勉強させていただきました。」

「・・・・・・」


 さすがのロメスも何も言えなかった。

 預かったそれらの装身具はそのままリナに渡しておき、ケリスエ将軍とカロンからの贈り物だと伝えさせたところ、びっくりしたカレンがフォルを連れてケリスエ将軍の所にお礼に行ったまでも良かった、・・・そう、そこまでも良かったのだが。




「だから、どうしてこうなっているんだろう」


 カロンが噂の相手なら良かった。別にカロンなら、鼻でせせら笑って「あり得ねえな」と、うそぶいていればよかったのだ。だが、しかし。


「まさかケリスエ将軍とカレン様のお噂になるとは、とんだダークホースですね」

「しかも絵になるところが泣かせます。ロメス様といるよりカレン様も楽しそうですし、あれもあれで有りなんじゃないかと」

「お前らなぁっ。どうしてどいつもこいつも、カレンが俺の妻だというのを忘れてやがるんだっ」


 頭を掻きむしりながら、よりによってケリスエ将軍かよと、どこまでもやっていられないロメスだった。

 そもそもそれがおかしいだろう。おかしいとどうして誰も思わないのか。

 ケリスエ将軍もフォルを抱きかかえたままで、模擬剣とはいえ、わざとカロンを相手に手合わせしていたりするものだから、フォルも自分が剣豪になった気にすらなったらしい。ケリスエ将軍が子供の相手などよく出来たものだと思ったが、よくよく考えたらケリスエ将軍はカロンの育ての親でもあった。


(一度はロメス兄様と呼んでくれたというのに、今じゃカロン兄様、だしな)


 フォルを抱き上げながらカレンと談笑しているケリスエ将軍の姿は、かなり目立つ。更にカレンの髪に花を挿してあげたりするケリスエ将軍である。嬉しそうなカレンが更に可憐に微笑むものだから、これが噂にならない筈がない。そしてケリスエ将軍の杯に飲み物を注いでいるカレンの様子が、まさに仲睦まじい二人にも見えるのだとか。


(一度でいいとちゃんと言ったぞ、俺は。一度の手合わせでっ。なのにどうしてケリスエ将軍が頻繁にあいつの相手をしてるんだっ。あのカロン・ケイスも何をやってやがるっ)


武器というのは弓矢という話だったが、その矢を追加注文できないかと、ケリスエ将軍はカレンに持ちかけたらしく、そっちはきちんと商売になっているようだった。


(俺の言った鎧の話はほったらかしで、ケリスエ将軍の矢は引き受けるのかよっ)


 今ではこちらの鍛錬場ではなく、ケリスエ将軍率いるローム国騎士団の鍛錬場にばかりカレンは行っているときたものだ。

 どうしてこう、あり得ないことがあり得てしまうのだろう。

 どうも自分のペースで運ばなすぎることに、しみじみとロメスは人生の不条理を噛み締めずにはいられないのだった。






 フォルはどうしても無理がきかない体なので、時々カレンは一人で城に来ていた。フォルが一緒なら何かあったらまずいと思うので従者を連れてこなくてはならないが、自分だけならば馬にも乗れるし、特に一人でも問題はない。

 また、主人不在のロメスの屋敷は、かなり和気あいあいとしていて、カレンが連れてきている従者三人ともそれぞれ気になるものを見に行ったり、色々と手配していたりするらしく、そうなるとカレンはカレンで好きに動けばいいというものであった。


(キイロにもロイスナーに行き来してもらってるし、かえってカンロ伯爵邸よりも自由に動けるわ。立地からみても、いい拠点なのよね、あそこ)


 ロメスが所属している王都騎士団の鍛錬場に比べて、ケリスエ将軍が率いているローム国騎士団の鍛錬場は独特の雰囲気があり、個人主義の傾向が強いらしい。その為、カレンが何かしていても誰も気にせず放置してくれるので、気軽に色々とできる。

 その為、カレンはローム国騎士団用鍛錬場へ入り浸るようになっていた。


(まあ、しっかり見られてはいるみたいだけど。お礼を言いたくても、いつも離れた物陰からだから、言いにくいのよね。単に見ていただけ、とか言われそうだし)


 何かあったらまずいと思うのか、常にケリスエ将軍なりカロンなりの配下が見守ってくれているらしいが、あくまで遠くからと、カレンに距離を置いている。

面倒見の良いロメス達の王都騎士団とは違い、怪我をしない限りは手出ししないのだろう。だが、好奇心で自分を眺めているのではないのは分かる。人手が必要な時には、さりげなく声をかけてくれるからだ。


(おかげで、色々と好きに試せるけど)


 今もカレンは遠くに置いた的に小剣を投げつける練習をしている。そう見せかけて、剣の強度を試してもいるのだが。使い捨てと考えるならもっと安い材料で作成しなくてはならない。しかし、安さを重視するあまり、役立たないのでは困る。


「だけど、私の腕力じゃ違いを見るところまでいかないのよね。やっぱりサリトにしてもらうべきかしら。・・・だけど、私が使いこなせないと意味がないものね」


 別に自分がこういったことをしてもしなくても、意味はないだろう。けれども出来ることなら強くなりたい。

 的に刺さったものと外したものと、剣を集めながら、カレンはうんうんと唸りつつ、最後の剣を引っこ抜こうとした。


「きゃあっ」


 かなり強く刺さっていたらしく、その剣を引き抜く手が汗で滑り、カレンはひっくり返った。その拍子に抜けた剣が宙を飛び、地面へと突き刺さる。


「あ、・・・危なかったぁ・・・」


 あと少し剣の落ちる先がずれていたら、自分に刺さっていただろう。これが一番深く突き刺さっていたということは、一番相手を仕留めやすい剣だということだと判断し、反省の色など全く無いカレンは、座ったまま、その剣を別にして腰に提げていた入れ物に仕舞った。


「さて、と。・・・あら?」


 そこで立ち上がろうとしたカレンは、自分の足がおかしいことに気づいた。どうやら足を(ひね)ったらしい。立てることは立てるが、片足に力を入れられないので歩けない。


(どうしよう。ここで立っていたら、誰か助けに来てくれるかしら)


 だが、ケリスエ将軍の配下は見守ってくれてはいる筈だが、基本的に自由にさせてくれるスタンスだ。今もひっくり返ったのは見ていたかもしれないが、その後すぐに自分が起きだして怪我もなく剣を集めたと見た時点で、そのまま駆けつけるのをやめたことだろう。

 ここはじっと座っていたら、助けにきてくれるだろうか。それとも立ち尽くしていたらいいのだろうか。だが、何をやってるんだろうと思われるだけで放っておかれるのかもしれない。


「何をやってるんだ、カレン?」

「あら。ロメス・フォンゲルド。こんにちは」


 そこで声をかけてきたのは、ロメスだった。珍しい場所にいるものだ。何かこちらに用事だったのだろうか。振り向いたカレンは、久しぶりに見た顔に驚きつつも、昼過ぎなので挨拶をしてみる。


「あのなぁ、カレン。よりにもよって、夫を呼ぶのに、ロメス・フォンゲルドはないだろう?」

「じゃあ、なんて呼べばいいの?」

「・・・旦那様、とか?」


 一気に、カレンがロメスを見る目が、まさに(はえ)のたかっている生ごみを見るかのようなものになる。

 懐かしい目つきだった。

何を言ってるのかしら、この蛆虫が。

 心の声を言葉にしたら、そんなものだっただろう。

 ロメスが思わず笑顔になる。カレンはそんな男の反応に、こいつは馬鹿かと思った。


「いいな。初めて会った時もそんな感じの瞳だった」


 機嫌よく笑うロメスに、そう言えばとカレンも思い出した。どこまで自分に軽蔑されようとも、ふざけたことしか言わなかった山賊のような男。

 ロームでは常に身綺麗にしている姿しか見ないから忘れていたが、ぼさぼさの髪に無精ひげを生やし、どこまでも粗野でいいかげんな性格をしていたのではなかったか。頭のネジが緩んでいるとしか思えないおかしい思考回路と野卑な笑みを持ちながら、抜け目のなさそうな瞳の持ち主。

 全く印象の違う男の姿が、目の前の男に重なった。

 ひらりと塀をまたいで、そのままロメスが近寄ってくる。


「そろそろ本来の調子を取り戻してきたか? やっぱりお前はそうやってる方がいい」


 何を言っているのか、このネズミは。

だが、言われてみれば自分も王都で気が張っていたのかもしれない。責任を忘れることはないが、それでも自分の感情のあるがままに、・・・それがカレンだ。本来、自分はそういう人間だった。


「カレン、旦那様でもご主人様でも呼び方はどっちでもいいんだが・・・」


 途端にカレンがゴキブリを見るかのような目つきになる。

何がご主人様だ。どこまで図々しいのかと言わんばかりの表情を浮かべたカレンに、ゆっくりとした歩調でロメスは更に近寄ってきた。

最高に機嫌はいいらしい。


「ああ、いいな。その軽蔑しきった顔。ぞくぞくする」


軽蔑されてぞくぞくするって何なのか。そう言えば、最初からこの男はおかしかった。

 出会いの時と違い、ここに二人を隔てる鉄格子はない。

カレンは、ロメスの表情に不穏なものを感じて後ずさりしようとした。しかし、足首に痛みが走り、体が硬直する。

白昼、しかも何かあればケリスエ将軍の部下が駆けつけてくれる筈だから、何も危ないことはないと思うのだが・・・。しかし、なぜか危険だという警報が頭の中を飛び回っていた。

 

「だけど、どうせなら『ロメス』って呼んでほしいね。お前なら呼び捨てでかまわない」


 二人の距離がなくなる。カレンの両腕をカレンの背後にまわさせて片手で押さえると、ロメスはカレンがひっくり返った時に頬についた泥を指で拭った。


「なあ、練習してみようか。『ロメス』って呼べたら解放してやるよ」


 そしてそのままカレンの顎を持ち上げると、口づけてきた。


「んっ」


 呼べたらも何も、口を塞がれていて何を言えると言うのか。暴れようにも足が痛くて動けない自分は抵抗もできない。

 カレンがそれでもじたばたしようとすると、ロメスが顎を押さえていた方の手を離し、カレンの腰にまわした。


「暴れるな。足が余計にひどいことになるぞ」

「分かってるなら、こんなことするんじゃないわよっ」

「・・・言えるまで練習しようって言ったよな。さ、もう一回しようか」

「やっ」


 たとえ両手が塞がっていても、ロメスにとって、それは何ら問題なかったらしい。角度を変えてカレンの唇を捕らえ、そうして行われた二度目の口づけは先ほどよりも長かった。


「やっ、やめてっ、ロメスッ」

「なんだ、残念。もっと言えなくても良かったのに」

「ふざけんじゃないわよっ、このカスがっ」

「やっぱりそう思ってたか。・・・まあ、いい。ほら、手当てしないとな」


 カレンを横抱きにすると、ロメスはそのまま歩き出した。大股で歩くものだから、落ちないようにと、カレンは慌ててロメスの首に抱きついた。

 先程はひらりとまたいだ塀を、今度は少し遠回りして切れ目の所で鍛錬場から抜けていく。


「ちょっとっ、どこへ連れて行く気?」

「うちの棟に決まってるだろ。・・・お前なぁ、いつもこっちばっかり来るもんだから、うちの奴らがお前とフォル殿をこっちに取られて心の潤いがなくなったって嘆いてんの、知ってるか?」

「何それ」

「別にこっちに来るなとは言わん。だが、たまにはうちの方にも来い。お前の相手をしようと思って楽しみにしていた奴らが、がっくりと肩を落としてるのは、見てて情けない」

「え・・・。だって、迷惑じゃ、なかった・・・? だって、こっちに来たら、みんな思い思いにやってるし、もしかしていつも相手してもらってたの、迷惑だったかなって思って・・・」

「本当に迷惑なら、別にお前程度の稽古なぞうちの庭で十分だ。誰だっていつもいつも強い相手とばかりやりたいわけじゃない。お前の相手だって、あいつらは喜んでやってるんだ。そりゃ汗を流すのはこちらの設備を使わせてもらえばいいだろうが、・・・たまにはうちにも顔を出してやれ」

「はぁ」


 あまりにも思いもしなかった言葉に、カレンも何と言えばいいやら、である。どうやらロメスはカレンを迎えに来たらしい。

 ローム国騎士団用の棟を素通りして、ロメスは王都騎士団用の棟へとカレンを運ぶつもりのようだった。すれ違う顔見知りのケリスエ将軍の部下達が、黙ってカレンに手を振ってきたり、ニッと笑って合図してくる。

本来はロメスの方が同じ軍部の人間だからそっちに合図しそうなものだが、彼らにとっては付き合いがあるかどうかが全てなのだろう。目礼や手首だけで手を振りながら、何かとロメスに配慮して声をかけてくる王都騎士団と違い、本当にこちらは個人主義が強いのだと、カレンは実感した。


「・・・もしかして、ロメス・フォンゲルドも私の相手をしたかったの?」

「ここでもう一度キスしてやろうか?」

「ロメスも私がいなくて寂しかったの?」


 まさかとは思うが、つい訊いてしまうのがカレンだ。

 カレンが無言ながら彼らと挨拶している様子が不快なのか、抱いている腕に力を入れてくる様子に、もしかして妬いているのだろうかと、カレンは思いついた。

 そんなカレンにロメスは考えるようなそぶりをした。


「そうだな、やっぱり目に入るところにはいてほしいと思ったな」


 笑い飛ばすかと思ったロメスが認めたことに、カレンは、鳩が豆鉄砲を喰らった顔になった。

 既にローム国騎士団の棟を抜けて、建物を繋ぐ中庭へと出ている。周囲には誰も人がいない。


「あのな、カレン。俺はあの鉄格子の向こうで、こういう俺じゃなく、ああいう俺に向かってまっすぐ見据えてくるお前が気に入ったんだ。その本音に満ちた表情もな。だから何があろうとも、どんな手を使おうともお前を手に入れようと決めた。・・・・・・それが、お前を傷つけるとは思わなかったんだ」

「・・・・・・馬鹿?」


 あんな一方的に自分の意思も何もかもを置き去りに決められて、どうして怖くなかったと思うのだろう。傷つくとは思わなかったって、・・・私がどんな人間だと思っていたのか。

 不意打ちで蒸し返された話に、カレンの目頭が熱くなる。

 そんな自分の顔を見られたくなくて、カレンはロメスの肩の上に顔を乗せる、必然、強くその首に抱きつく形になってしまったが、ロメスはカレンの気持ちを察したかのように、抱える腕の位置を上げてきた。

 明るい太陽の日差しと緑の木々。それでも近くに人の気配は全くない。まるで自分達二人だけの世界のようだ。


「本当にお前は正直で、どこまでも手厳しいな。だが、そうやって思ってることを隠さないお前がいい。だからいつでも俺が守れる場所にいてくれ。お前が俺の顔を見たくないのなら、あの家はお前達が好きに暮らせばいい。鍛錬場も好きに使ってかまわない。それでも、お前が俺の知らない場所で傷つくようなことはするな」

「・・・・・・何それ」


 馬鹿じゃないのかと、本気で思う。カレンは顔の角度を変えて、どこまでも頭が不自由なのではないかと思える男を見やった。

自分を勝手に動かしておいて、それで今度は自分の顔を見たくないだろうから好きにしてくれてかまわないって、・・・一体この男は何がしたいのか。

本当に人の感情を何だと思っているのだろう。この男はどこまでもおかしい。

 おかしいのだが、もしかしてこの男は本当に自分が好きなのだろうか。


「あのね、ロメス」

「何だ?」

「普通はね、人を好きになったら、まずそれを伝えるところから始めるのよ?」


 わけの分からない要求をする前に、まずはそこからだろう。好きとかいう普通の感情があるとは思えない男だが、カレンは一応言ってみることにした。


「好きだとか愛してるって言葉は、どうでもいい相手によく使う言葉なんだよな、俺にとっては」

「最っ低っ」

「それはよく言われるんだが・・・、だからどうでもいい相手に言う言葉はお前にだけは言わなかっただろう?」

「どこまでもクズね」

「よく言われる。うちの部下とか、うちの使用人とかにな」


 カレンはどこまでも変な男をまじまじと見上げた。こうやって自分を軽々と運ぶ腕力を確認しなくても、この体が鍛え上げられているのはよく分かる。容姿も頭もそれなりに悪くないのに、どうしてこの男は根本がおかしいのだろう。

 王都騎士団の棟に入ったからなのか、やはりケリスエ将軍のテリトリーでは緊張していたのだろう、ロメスが少し力を緩めた。意外だなと、カレンは思う。どこでも飄々としていそうな男だが、やはり自分の慣れ親しんだ場所だと落ち着くのか。


「あのね、ロメス」

「何だ?」

「ちょっとあなた、最初からやり直した方がいいと思うわ。もう修正はきかなさそうだから」

「というと、何をどこから?」


 不思議そうに訊いてくるロメスには分からないのだろうか。


「もっと言葉と心を大事にして」

「はぁ?」

「人をね、好きになったらまず好きって言うの」

「へえ」

「それから、ちゃんと相手の気持ちも聞いて、ゆっくりとお互いの気持ちが育つかどうか確認していくものなの。相手に気持ちがなければ、焦らずに育ててもらえるよう待つものなのよ」

「・・・そこで相手の気持ちが育たなかったら意味がないだろ? それくらいならそのまま奪った方が早い」


 黙ってカレンは目の前の男の頬を(つね)った。どうしてそこで、一気にそちらに走るのか。


「痛いぞ、カレン」

「言ったわよね。いーい? あくまで自分の気持ちを伝えたら、相手の気持ちを訊いて、それから相手の気持ちが育つまでちゃんと待つものなの」

「分かった、・・・ことにしておく」


 そうか、分かったことにしておくだけなのか。どこまでも理解が足りてない男のこの頭をガシガシと振ったら、ちゃんと理解できるのだろうかと、カレンは考えた。・・・いや、時間の無駄だろう。自分の手が痛くなるだけのような気がする。


「あのね、お互いの気持ちがちゃんと育つまで、一緒にお出かけしたり、手紙をやり取りしたり、そういったことを重ねて、時間をかけながら愛情を二人で大きくしていくものなの」

「ふむ」

「そして二人とも一生を一緒に暮らしてもいいかなと思ったら、そこでやっと結婚を申し込むものなのよ」


 それでもちゃんと一般的な流れは教えておかねばと思い、カレンはそこで言葉を切った。さあ、これが普通の流れというものだ。文句があるなら言ってみるがいい。

 カレンがロメスをじーっと見据えると、器用にもカレンを抱いたままロメスは両肩をすくめてみせた。


「なるほど。・・・だが、カレン。俺はお前と出会った時からお前が欲しいと思った。他の奴に取られたくないと思ったし、お前の笑顔と表情をもっと見たいと思ったし、お前の声も聞きたかったんだ。これが好きってことだよな?」

「・・・まあ、かなりほのぼのとしたものを通り過ぎているような気がするけど、そうなるのかしらね」


 問われて、カレンも考え込みながら、同意はしてみる。

 普通、好きっていうのは、もっと淡いものだと思うが、個性なのだろうか。カレンもここまで(しょ)(ぱな)から飛ばしているケースなど不案内だ。しかもその相手が自分だというのが泣くに泣けない。


「お前が楽しそうにしているのを見るのはいい気分だし、俺に対して怒ってる姿を見ても可愛いと思うし、もっと怒らせてプンプンさせたら楽しいだろうなと思う。お前が喜ぶならフォル殿にも親切にしたいと思うし、お前が気に入ってるならリナとゆっくり時間をとらせてやりたいとも思うんだ。・・・これが愛情を育てるってことだよな?」

「・・・かなり歪んでいると思うんだけど、どうして私を怒らせるのが楽しいのかしら?」


 花壇を荒らしたモグラを見つけた時のような表情になるカレンだった。怒らせて楽しむとは何事か。


「怒るとかなり感情が顔に出るだろう? お前の表情がころころと変わるのが、見てて飽きないんだ」

「・・・そう」


 やはりこの男はかなり変だと思う。育っているのは愛情じゃなくて、根性の歪み具合だ。

 しかもその考え方は取りも直さず、カレンが怒っている理由はどうでもいいという前提に立っている。怒っている相手の理由など頓着しないと言ったも同然のそれに、かなりの問題があるだろう。


「ロメス・・・。あなた、愛情っていうものをもう少し考え直した方がいいと思うの。あのね、愛情っていうのは相手が幸せであってほしいという、優しく温かな気持ちのことよ?」

「優しく温かな気持ちなら十分にあるぞ。お前が笑っているのを見るのも楽しい。だからお前が可愛がってるあの坊やもちゃんと俺だって可愛がってるだろ? お前が大事にしている伯爵家でも気を遣っている。お前が大事にしているからだ。・・・それが愛情を育んでいるってことだよな?」

「まあ、そうね」


 そこでロメスはカレンの笑っている顔というのが、冷笑も含むことをわざと省いた。カレンも、やっとまともな話の流れになってきたので、ついそのまま頷く。


「そしてお前が一生俺と一緒に暮らしてくれればいいなと思っているんだが、そういう場合はどうすればいいんだ? 俺ばかりがお前を好きで、愛情も育ってて、一生を一緒に暮らしてもいい決意をしているわけなんだが?」

「ばっ・・・ばっかじゃないのっ」


 何を恥ずかしげもなく言うのか、この男は。

 いつの間にか、そこは知らない部屋だった。生活感があるから、きっとロメスが城での寝泊まりの際に使っている部屋なのだろう。

 そのベッドにそのまま腰を下ろされ、座った状態でカレンは辺りを見渡した。

 カレンをベッドにおろしたロメスはどこかに行ってしまっていたが、すぐに桶に水を汲んで戻ってきた。カレンのズボンの裾をめくり、水につけさせる。ひんやりとした水が、腫れた足に気持ち良かった。


「思ったよりも片付いてるのね」

「ああ、さっき全ての洗濯物をリナが引き取って持って帰ったからな」

「何それ」

「俺が帰らなくなってかなりたつから、洗濯物を取りに来たんだ」

「・・・だけど、別にあなた、そんなに汚い格好はしてないわよね? いつ見ても」

「まあ、この城には部下がいるから、無理やり髪も切られるし、髭も剃らされるな。どうせ服も洗濯しに持って帰ってくれと、あいつらが家に誰かを使って連絡したんだろう」

「・・・家で暮らしていた時は?」

「リナがいるからな。同じ服をずっと着てたら口うるさいし、髪も髭もぶつぶつうるさいから、言われたらやるようにはしてるさ」


 もしかして、かなりこの男は自分に無頓着なのだろうかと、カレンは気が遠くなりかけた。

そういえば、初めて会った時は髪も髭も伸び放題のすごい格好だった。王都でのロメスは常に垢抜けていると思っていたが、・・・それは自分自身で格好を使い分けているのではなく、単に周囲の努力の賜物だったなんて。


「ねえ、ロメス。あなた、もしかして家を離れてどこかに行く時って、いつもあんな髪も髭もボサボサな格好してるの?」

「そうでもないぞ」

「そうよね」


 ちょっと安心したカレンだった。そう、ちょっとロメスは大袈裟に言ってみただけだったのだろう。そうに違いない。


「ああ。戦や仕事でどこぞに行く時は部下も一緒だしな」

「・・・・・・じゃあ、休暇の時は?」

「お前だって初めて会った時に見てるだろ?」


 何でもないことのように言うロメスに、カレンは確信せざるを得なかった。そう、この男はどうしようもない欠陥品なのだ。人の心も考えずに自分の感情だけでやりっ放し、しっ放し。身なりもそう、そのまま放ったらかしな駄目人間なのだ。


「・・・それよりしばらく足はつけておけよ。当分、無理して歩くな。ちゃんと家から迎えには来させるから」

「待ちなさいよ、ロメス」

「何だ、カレン。何を怒ってるんだ?」

「いーい? あなたは今日から家に帰るの。まともな人間らしい生活をおくるのよ」


 目が据わっているカレンに、ロメスが「お前、何か変な物でも食ったのか?」と、訊いてくる。黙ってカレンはその頭を殴った。

 表面的に器用だから誰もが誤魔化されてしまっているが、実はこの男はまともな生活もできない駄目人間なのだ。放っておいたらどこまでも堕落していくだろう。躾直しが必要だ。


「お前の拳はかなり痛いんだぞ、カレン」

「あのね、ちゃんと人間らしい生活から始めなさい、ロメス。その為にも、あなたはちゃんと毎日出来る限り家に帰るの」

「・・・俺の部屋は二階にあってお前の隣だな。勿論、俺は同じ部屋でもいいんだが」

「調子に乗るんじゃないわよ、このゲスが。一階の部屋で寝なさいよ」

「やれやれ。どうして屋敷の主が客扱いなんだ」


 (ようや)く帰宅を許されたかと思えば、一階の客間を使えと言われるのだから、切ない限りである。ロメスはぼやいた。


「文句あるの?」

「いーえ、ございませんとも。・・・・・・あの家はお前の好きにしていい、カレン。この俺も含めてな」

「何それ」


 真顔になったロメスに、変な物を食べたのはお前の方だろうと、カレンが救いようがないといった表情になる。


「強引な手を使った自覚はある。だからそれ以外はお前の好きにさせてやろうと思ってたんだ。お前が望むならもっと城に近い場所に屋敷をかまえるし、お前が望むなら使用人を増やしてもいい。お前が住みたいならどこに住んでもかまわないし、俺にしてほしいことは何でも言えばいい」

「はあ? ・・・で、その代わりに、あなたは何を手に入れるの?」

「少なくとも俺にお前を縛りつけることができた。それの代償みたいなもんだろう?」


 やっぱりこの男はさっきまでの会話を理解していなかったのだと、カレンは思った。どうして自分の言葉はこの男の心に届かないのだろう。


「ねえ、ロメス。普通は誰かを好きになったら相手にも好きになってほしいって思うものなのよ?」

「・・・あのな、カレン。『俺のこと、好きか?』なんてセリフは、どうでもいい相手にはいくらでも訊けるが、俺はお前にだけは訊きたくない」

「どうして?」

「聞きたくない言葉を聞かされるのに耐えられそうにないからな。お前の心を欲しいだなんて贅沢を言うつもりはない。そんな幸せを願う気もない」


 黙ってカレンは拳でロメスの頭をグリグリとした。


「痛いぞ。・・・カレン、少しは手加減しろ」

「どこまでもあなたが駄目な男というのはよく分かったわ」

「みんなそう言うな」


 ロメスはカレンの足を水から引き揚げさせて、布で拭った。下に誰もいないことを確認してからその水を窓から捨てる。

 くるくると布を巻いて足首を固定させる手際はかなりいい。なのにどうして、根本がおかしいのだろう。


「じゃあ、カレンのお許しも出たし、今日は家に帰るか。ちょっとここで待ってろ、カレン。あいつらに言ってくるから」

「分かったわ」


 何にしても相互理解への道は険しく遠そうだと思いつつ、カレンはベッドにぱたりと上半身を倒した。


(何なのかしら、本当に)


考えてみれば人というのは第一印象が全てなのだ。あの地下の鉄格子で見た、どうしようもない男。あれがロメスの全てだったのかもしれない。

 





 的を用意して、カレンが小剣を投げているのを、物陰からケリスエ将軍が見ていた。


「以前から女性には親切だったが、彼女には親切すぎませんか?」

「お前ほどじゃない。それに、・・・お互い様だからな」


 意味が分からず、カロンが首を傾げる。


「カロン、お前もあの歌を覚えてるだろう?」

「そりゃ一応」

「なら、いい」


 そこで話が終わってしまうと、意味が分からない。だが、このケリスエ将軍に無言の請求は通じないのだ。言わないと理解しない。


「あのですね、歌を覚えていることと、そのお互い様というのと、彼女への親切心の繋がりが分からないんですが?」

「知りたいのか?」


 心底から不思議だといわんばかりの黒い瞳に、カロンはげんなりとなる。誰だってこの流れでは訊かずにいられないだろう。どうしてそれを理解しないのか、この人は。


「ええ。ちゃんと、詳しく、知りたいですね」

「そうか。あの歌は神への祈りと、武運を寿ぐ祈りとして使われるのだが、隠された意味がある。・・・部族以外にその歌を知る者がいたら、それは我ら部族と深い関わりがある人間だから、もしも部族の人間が助けられる時には助けてほしいという合図になるのだ。まあ、既に滅んだ部族だから意味はないが、彼女がその歌を知る以上、私はできるだけ力を貸すし、お前がもしもいつか窮地に陥った時、そこに部族の生き残りがいればお前に力を貸すだろう。だが、それは部族の人間への強要ではない。さりげなく力を貸す、その程度のものだ」


 カロンが目を丸くする。自分がその歌を教わったのははるか昔のことだ。しかも、こんなことがなければ、きっとこの人は自分にその隠された意味など一生教えなかっただろう。


「じゃあ、もしもいつか俺がその歌を知っていることを、その部族の生き残りが知ったらどうなるんです?」

「お前に気づかれぬ程度に力を貸すんじゃないか? まあ、気休めだな。そうそういる筈もない」


 そこでケリスエ将軍が小剣を取り出す。


「それは?」

「彼女の持ち物だ。さっき、抜き取った」


 ちょうどカレンが下に置いてある小剣の束からどれにしようかと屈んで選んでいる隙に、ケリスエ将軍はその小剣を的へと投げつけた。


「ちょっと緩すぎたか? だが、あまりきつくしすぎると、バレるしな」


 そこへ、慌てて一人の男が近寄ってくる。その男がこちらの棟に入ってきた時から気づいていた将軍にとっては、タイミングもバッチリだ。


「今、何をなさったんです、ケリスエ将軍?」

「見ての通りだ。彼女では引き抜くのに苦労するだろう。手伝ってやってくれ。・・・いいきっかけになるだろう?」

「・・・は? あ、はい」

「たまには息抜きに寄越すがいい」

「は」


 まさか自分の為にしてくれたとは思わず、ロメスが面食らった顔になる。言いたいことを言ったらすぐにいなくなるのがケリスエ将軍で、ケリスエ将軍とカロンが立ち去るのを、ロメスは何とも言い難い表情で見送った。


「なのに、どうして引き抜く時に手伝わなかったんですかね、ロメス殿は」

「アホだな」


 上階から見下ろしていたケリスエ将軍は、端的に手厳しい感想を述べた。だから彼女が足を挫いてしまったのだ。そんな二人に、第五番大隊を率いる第五部隊長のソチエトが苦笑する。


「本気の時は無様(ぶざま)になるのが男ですぞ、将軍。それに今日は二人を邪魔しないようにと将軍が命令したおかげで、物陰から見ている奴らが多い。・・・何ともあの狂犬も堂々と牽制(けんせい)に走ったものではありませんか」

「つくづくアホだな。自分の妻だろうに」


 そういう男心は理解できないらしいケリスエ将軍である。

 それでも部族の一人の死を看取ってくれたというカレンの為に、彼女がロメスと向き合うきっかけを作ってやりたかった。


「私とカレン殿の噂を流したところで誰が信じるものかと思ったものだが、第五部隊長の言った通りだったな。ロメス殿本人がすぐ動くとは」

「そういうものでございますぞ。ま、亀の甲より年の功とも申しますしな」

「第五部隊長、どうして俺では駄目だったのでしょう」


 カロンが尋ねると、ソチエトはふふんと笑った。


「何事も、あり得ると思えるものでなくてはならんということだ。たしかに第六部隊長は男だし、いつもカレン殿を相手にしていたら噂も出るように思うだろう。だが、それはあり得ないと誰もが断言できるのでは意味がない。ロメス殿とて焦らない」

「・・・・・・」


 さすがにカロンも反論できなかった。


「その点、将軍ならミステリアスなところがある。もしかしたら・・・そう思わせるものがあるなら、そこを突けばいい。そういうものだ」 

「まあ、どうしてカロンでは駄目だったのかは分からんが、第五部隊長が言うのであればそうなのだろう。さて、賭けは第五部隊長の勝ちだ。・・・この北方の酒はカレン殿からもらったこれしかないものだからな、他の奴には内緒だぞ」

「勿論ですとも。さて、それでは爺はこの酒と共に去ることにしましょう」


 ケリスエ将軍が、壺に入った酒を棚から取り出す。それを喜んで受け取った第五部隊長は、ほくほくとして出て行った。


「って、そういう意味なら俺は悪くなかったと思うんですが。てか、俺が駄目だったのって将軍のせいですよね」

「何を人のせいにしてるんだ、お前は」


 カロンのぼやきを流して、ケリスエ将軍はカレンに注文してあった矢と弓を持ち出す。


「来い、カロン。この弓矢の使い方を教えてやる」


 ケリスエ将軍は他人の心に敏感だが、カロンにだけは鈍感だ。それが分かっていても、こうして自分にだけ様々なことを教えてくれるのだと思うと、何も言えなくなるカロンだった。






 カレンの挫いた足に響かないようにと、ロメスが馬をゆっくりと歩かせる。もうすぐ日も暮れることだろう。


「もうすぐ夕日が沈むわね」

「ああ。・・・ちょっと待てよ、カレン。少し寄り道をして行こう」


 少し道から外れた野原へと、ロメスが馬の方向を変えさせる。少し早足にさせて野原を突っ切ると、そこは眼下に川を見下ろす開けた地形になっていた。


「こんな高い位置にあったなんて・・・。こっちからは攻め込まれないわね」

「いい着眼点だ。いいか、カレン。もしもロームが攻め込まれるような時が来ても、こちら側から攻め込まれることはない。だからここに逃げ込め」

「・・・だけど、こんな高い位置じゃ逃げ場所がないわ」

「そこの一番端に立ってる木があるな。あそこの裏側、草むらで隠れているが、人がぎりぎり一人だけ通れる狭さで階段状の坂が出来ている。といっても狭いし、降りるのに時間もかかるだろう。逃げられる人数はかなり少ない。だからお前だけが覚えておけ」

 

 カレンはそこで考え込んだ。


「それを教える為に、ここに連れてきたの?」

「それもある。・・・ほら、もうすぐ日が沈む。見ろ」


 ちょうど赤々とした大きな太陽が川の流れの向こうに沈む時だった。赤い光がまっすぐ川面に映って伸びている。


「綺麗・・・」


 やがて、太陽が沈み、辺りが薄暗くなり始めた。


「この夕焼けを見せてやりたかったんだ」

「・・・どうして?」

「気に入ってるんだ」


 綺麗だっただろう? と、優しくカレンを見ながら続けてくるロメスに、カレンは考え込んだ。


「ねえ、ロメス。自分が知ってる隠れ道を教えて、自分が気に入ってる景色を見せてって、・・・あなた、実はかなり私のこと好きなの?」


 ロメスはそこで顔を逸らした。


「あのな、カレン。好きとかいう言葉は手垢がつきすぎたって、俺は言わなかったか?」

「あのね、ロメス。言葉は使った回数が問題じゃないわ。そこにこめられた想いに意味があるの。心のこもっていない好きと、心のこもった好きは、全く違うのよ」

「なるほど」


 さすがに困ったことになったなと、ロメスは思っていた。

 心のこもった言葉など使って口説いたことはないのだ。少し真実を混ぜた軽い言葉、それが女を口説く時のコツではないか。

 しかし自分がここまで望んだカレンが、あんな薄っぺらい言葉を喜ぶような姿など見たくもない。

 だが、腕の中にいるこの妻は、あくまで心をこめて言葉を使えと主張する。

 心だなんて見えないものを、どうやってこめろと言うのか。


「じゃあ、愛してる、カレン」

「うわぁ。何よ、そのペラペラ感」

「ああ、そうだよ。俺には無理なんだ。だから諦めろ」

「って、今までそんな言い方してたの?」

「まさか。ちゃんと真面目に口説いていたさ。だけどな、カレン。お前は俺が初めてなりふりかまわず手に入れたいと思った特別な女だ。だから誰かの二番煎じなんぞをそのままお前には使いたくない。・・・分かれよ」

「すごい口説き文句ね、ある意味で」

「何がだ」

「あのね、ロメス。あなたにとって好きとか愛とかは手垢もついてぼろぼろに使いまくってしまったものかもしれないけど、私にとってはそうじゃないの。分かる?」

「まあ、そりゃな」

「だからあなたも私にあわせて。私にとってはそういうのはとても大事だし、そう簡単に使わないし、あくまで特別なの。あなたの今までなんて知らないわ。だからあなたは私にあわせなきゃ駄目なの」

「そう来たか」


 カレンの要求は自分の女性遍歴をなかったことにしろというものだ。無茶なことを言う。過去をなかったことになど誰もできないというのに。

 そんなロメスの表情に何を見たのか、カレンはぐいっとロメスの両耳を引っ張った。


「痛いんだが? ・・・カレン?」


 何がしたいのか分からずに両耳が引っ張られる方向へと、つまりそのままカレンに顔を近づけると、カレンはロメスの頬に軽いキスをした。


「あのね、ロメス。普通は好きだって言ったら、その後はこの程度から始めるものよ?」


 好きだも愛してるもなく、鍛錬場で深いキスから始めるものではないだろう。そうカレンに説教されても、ロメスは変な顔をしていた。


「カレン・・・。俺がお前にキスするのは何十回でも何百回でもかまわないんだが、お前にされるのは遠慮したい」

「どうして?」

「お前からキスされたら、俺がおかしくなるからだ。・・・言っただろう? お前からの愛の言葉も心も期待していないと。そんなものをもらったら、俺の理性なんてどこまでも(たが)が外れるからな」

「ロメス・・・。あなた、ちょっと振り幅が大きすぎると思うわ。もっと程々って出来ないの?」


 たかが頬へのキスでそこまで言われるものなのか。カレンは呆れ返った。

ロメスはしばし考えた。


「お前が相手でなければできると思う」


 カレンはがっくりと力が抜けてしまった。どこまでもこの男を人として扱っていた自分が駄目だったのかもしれない。これはそういう生き物だと思うしかないのだろうか。・・・どんな動物に分類されるのかも分からないが、少なくともまともな人間ではないだろう。


「もう今日はいいわ。帰りましょ」


 諦めの境地で溜め息をつき、カレンが今日はひとまず帰宅しようと促すと、ロメスは頷いて、そのままカレンを上向かせた。


「んっ、んー・・・っ」


 長い口づけが終わると、ロメスがたしなめるように息も絶え絶えのカレンに囁いた。


「外だからこの程度ですんだが、家の中だったらこんなもんじゃすまないからな。俺の理性を飛ばす時は、場所を選べよ?」

「こっ、このっ」

「さあ、帰ろうか。リナが待ってる」


 満足そうに笑うと、ロメスは馬を道の方向へと戻らせた。


「カレン、こんなにも欲しいと思った女はお前しかいない」


 その声は小さかったけど、たしかにカレンの耳に届いた。

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