窓際の黒縁眼鏡の君
この春、北海道の田舎から都会に引っ越した。新しくできた友達はどこが都会!? と驚いていたが都会といったら都会なのだ。コンビニがある時点でもう都会以外の何物でもない。
どこまでも続く平野を見て育った私は、マンションの最上階から街を見下ろすという新鮮な風景が気に入った。それでも時々、目の前を遮る建物がほとんどない景色が懐かしかった。
そろそろ電気を付けようかと、カーテンを閉めようとして強烈な視線を感じた。
男子が私を見つめていた。一軒家の二階の窓から、一心不乱に私から視線をそらさずに見つめている。
こんなこと初めてだった。男子とここまで正面からまともに目を合わせたのも生まれて一度もない。
彼は太めの黒縁眼鏡をかけていて、切れ長の目をしているが、穏やかな眼差しがその鋭どさを和らげていた。シンプルなショートカットと黒縁眼鏡と黒一色の私服とあいまって真面目そうな雰囲気を身にまとっている。
それからも毎日気が付くと窓から外を見ていて、彼と目が合う瞬間が多くなる。私が見返しても彼は動じないので、こちらの方が恥ずかしくなって目をそらしてしまう。逆に、彼が視線をほんの少しずらしている場合は、目が合わないことに妙に気が大きくなって彼を観察してしまうのだった。
彼が見つめてくるのは短いときは五分。長いときなど三十分もそのままで、トイレに行きそびれて足がぷるぷるしたのは誰にも言えない思い出だ。
ずっと下から見上げる彼に、マンションの最上階の部屋の中が見えるわけがないとはわかっていながら、クローゼットを整理してプチウォークインクローゼットにしたり。
窓に立つ前に鏡の前に立って、自分が一番よく見える服を着て、髪の毛がはねていないか、服のシワがないかを確認するのも日課になったり。
彼の唇がちょっとかさついてるのを発見して、リップクリームを差し出してあげたくなったり。
帰宅したばかりの彼の制服姿を見て、同じ中学だと知って大喜びしたり。
制服に付いてる名札に「榊原」とあったのを思い出して授業中ノートに二行ほど走り書きして、ハッとして慌てて消したり。
ネクタイの色で同じ学年だと知って、どのクラスだろうかと廊下を歩くとき無闇に緊張したり。
季節が変わり、部屋でぐったりする暑い夏が過ぎ、食べ物が美味しい秋になり、冬に足を踏み入れようかという頃、彼がどうして私を見つめるのかもう知りたくて知りたくてたまらない気持ちになっていた。
たまたまチャンネルを合わせた朝の番組の占いで射手座が一位になった。『言いたかったことは勇気を出して伝えてみて』とのアドバイスだ。
射手座の私はこれはもう、突撃するしかないと閃いた。背中をどんと押された気がした。
マンションの前でバクバク脈打つ心臓を抱え、彼が通りかかるのを待つ。
(来た……!)
長身の彼に、黒くて長いコートはよく似合ってた。ますます緊張してきたのを振り切るように走り出して近づいた。
「あの! このマンション、いつも、見て……ますよね?」
彼は怪訝な顔をして、マンションに目を移動させ、私の顔に戻す。
「……ああ」
なぜか不審者を見る目だ。切れ長の目がその威力を増している。今までの熱視線が嘘のようだ。ああ、の返事も、心持ち上がり気味だ。
(ストーカーじゃないですから! 最近はちょっと自分でもちらっとそう思うときがあるけど、そもそも最初はそっちが見てきたんだし……)
「あの、どっ、どういうつもりなんでしょうか? こっちを毎日見るのって」
「どうって、遠くを見て目を休めるためだけど」
「え」
「勉強してるとどうしても近くばかりみて目が疲れて」
「はあ」
「俺の家からこのマンション、ちょうどいい遠いとこにあるからいい目印になってて。それだけだけど」
「……」
(勘違い、だった。私の。馬鹿、みたい。勝手に盛り上がって、勝手にどきどきして、勝手に……好きになっちゃって)
「どうして俺がこのマンション見てたって知ってるんだ?」
「えっ! いや、あの、ここに住んでて、たまたま……こっちを見るあなたを見て」
「望遠鏡で?」
「普通に目で」
彼と目と目があって熱烈に見つめられてると勘違いした自分を、今すぐ地球の裏側ぎりぎりまで掘って入れてしまいたかった。
「……じゃあ、あの看板は読めるか?」
真っ直ぐ行ったところの交差点から更に行った小道に小さな看板が出ている。
「喫茶、とぐろ猫」
「じゃあ、あの灰色のビルの三階の窓に何て書いてる?」
喫茶とぐろ猫とは反対方向へずっと行った道のつきあたりにある灰色のビルを指差した。
「森宮興信所、探し人、浮気調査、ペット探し、なんでも受け付けます。電話番号○○×-0892」
彼は目を見開いて絶句した。ただ見たものを言っただけで、なぜここまで驚かれるのかがわからない。
「……驚いたろう」
(って驚いている榊原くんに言われても)
「俺が、そっちの部屋を凝視してたように見えたんだろ?」
(ぎく。もうそのあたりには触れないでください……)
「半年以上続けてたよな……」
(そうですが!)
「……すまない」
彼が頭を下げると、つむじが見えた。
「私こそごめんなさい、榊原くん!」
彼がぴたりと停止した。ふいっと顔を上げて私をじっと見た。
「何で知ってるんだ、俺の名前」
彼が確認するように、自分のしっかりボタンがはまったコートを見て私の顔に視線を戻す。
(うわあ、今度こそ嫌われた……部屋にいるとき制服の名札を見た、なんて知られた……終わった……さようなら)
「ああ、マンションから見えたのか、うちの表札。本当に目がいいんだな」
(セーフ! ぎりぎりでセーフ!)
ほっとして胸をなでおろして彼を見ると、照れたような顔をしている。
「あのさ、これからはもうマンションじゃなくて別のところを見るから、そっちも気にしないで欲しい」
「……うん」
「じゃあそういうことで。学校遅れるから」
「あ、そうだね」
一緒に歩き出して、足を止めた。
(わー、何一緒に登校しようとしてるんだ、私! 図々しい)
「どうしたんだ?」
彼が振り返って私を見る。それはまるで、私を待っているようだった。
カバンをぎゅっとつかみ、早足で追いかけて彼から半歩ななめ後ろを歩く。彼が顔だけ振り返る。まるでマンションの部屋にいる私へ届いたあのときのような真っ直ぐな眼差しに貫かれて、瞬時に体が硬直した。
「名前、何ていうの」
ぎくしゃくと足を動かし、ぎくしゃくと答える。
「え、えっと、三木です」
「何……みき?」
「さ、佐和です」
(下の名前まで聞かれちゃった……。いつか『佐和』なんて呼ばれたりして! 呼ばれたりして! わー、どうしよう!? あるわけないけど!)
「佐和さん、行こう。もっと早足じゃないと遅刻しそう」
(わー! 呼ばれた! 速行で呼ばれた! しかもさん付けって!)
後日、彼が私の名前をさわ・みきだと勘違いしていたことにひっそり気付いて、榊原くんと顔を合わせるたび「三木」という名札を終始隠すことになった。
ちなみに友達からは「佐和」と呼ばれていて普通にセーフだったけれど、クラスの男子複数人から続けざまに「三木」と呼ばれたのを彼に聞かれて違う意味でアウトになったのだった。